谷端川 (小石川) の支流を歩く
東大下水の支流 -2
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タイトル地図:1921年(大正10年)1万分の1
  /大日本帝国陸地測量部/国土地理院
炭団坂 から 現在の白山通り まで
写真の撮影は 主に 2012年 5月

炭団坂の入り口 川の左側
 ←
 左
東大下水脇の道から 坂下までは 20m以上ある。
     炭団坂 (現在は階段)

階段の途中から 下を見る
坂の途中に敷地への入り口があるのは不思議ではないが、何と 急な階段で下りている。
坂上から
高低差が大きいだけに 階段の長さも長い。 踊り場に区の説明板。
左の石垣は 恐らく明治時代のもので、その時に 階段が整備されただろうか?

特記無き地図は 1921年(大正10年)発行
炭団坂
南東

「ここは炭団などを商売にする者が多かった」 とか 「切り立った急な坂で転び落ちた者がいた」 ということから付けられた といわれている。
台地の北側の斜面を下る坂のためにじめじめしていた。今のように階段や手すりがないころは、特に雨上がりには 転び落ちて炭団のように泥だらけになってしまったことであろう。
文京区教育委員会 平成6年3月


川の右手 梨木坂



菊坂へ抜ける 階段

菊坂から。 梨木坂は狭い道だが 車が通る

坂の途中、下の敷地へのアプローチ階段
見た目には 45度ぐらいの急階段。 今は使われていないので、別ルートの通路が確保できたようだ。

梨木坂

色々とある梨木坂の由来のまとめ
・ 昔 梨の大木があった 『御府内備考』
・ 戸田茂睡が付近に住んで 梨本と称した
               『南向茶話』
・ 付近の菊の栽培がこのあたりから
   なくなるので 「菊なし坂」から
文京区教育委員会 平成18年3月

1883年(明治16年)測量の 5千分の1地図では、「奈須坂」 となっており、上記のどの説にも合致しない。
奈須坂
範囲は前掲地図の一部分で、スケールも異なる。



川の跡を利用した バイク置き場


化粧積みの石垣。 昔の川はもう少し下を流れていたのだろう。
   下流を見る                  上流を見る

川の跡利用
ここは昔 交番だったのか? 菊坂側にあったのかもしれない。

バイクの月極駐車場だから、私有地である事は間違いない。


一葉の井戸の入り口 川の左側

 ←
 左
人が立っている所


一葉の井戸の入り口
菊坂といえば 樋口一葉。 そして 必ず登場する 一葉の井戸。 旧川沿いの道から路地をはいった奥で、案内板などがないために わかりにくい。
「観光地」にはしたくない、「人が来すぎると困る」という 住民の意向なのだろう。


仮称 菊水橋

(仮称) 菊水橋 があった場所
川が直進していたとしてもおかしくないが、ここで左に曲がって崖下に出る。
左側角の「菊水湯」は明治中期の開業だそうなので、「菊水橋」の仮称は近年になってからのもの。

(仮称) 菊水橋


川の右側 (仮称) 菊水坂









現在は階段だが、1883年(明治16年)測量
の地図では坂だった。(右下の地図)

木造三階建てが 現存している。 上の菊坂から見ると 二階建て。
川上を振り返る
ここも 一目で、 昔 川だった場所がわかる。

(仮称) 菊水坂

(仮称) 菊水坂
1883年(明治16年)測量の 5千分1地図
範囲は前掲地図の一部分でスケールは異なる。 この時点では 菊水湯はなかったろう。

川に沿って左に曲がる
菊水湯
道の奥は上り坂となっている。
古い銭湯が 川の側にあるわけ :
昔は太い下水道管が整備されていなかったので、川に直接放水するためだった。 浴槽は通常 道路より高い位置にあるため、細い下水管に大量の排水をすれば、水圧で付近のマンホールから溢れる事になる。


 左 : 鐙 坂
台地に突き当たって 川は右に折れる。 この先右側は川沿いの道が無く、大下水の流れだけが 右京山の裾野をまいていた。

左が鐙坂。 T字路の部分が 川の流れに逆らって高くなっているのは、いつの時点かはわからないが、坂の傾斜を緩くするために ここのレベルを高くして、なで付けたものだろう。

鐙 坂 川の左側
大谷石の塀の前に 区の説明板。
次第に急になり、坂の上部には手摺りがある。
急な所で 約 9度。























    鐙坂 (あぶみざか)

鐙坂の由来
・ 鐙の製作者の子孫が住んでいたから
                『江戸志』
・ 坂の形が似ているから
               『改撰江戸志』
文京区教育委員会 平成6年3月



崖下の暗渠
右の地図 1921年(大正10年)の時点で川の脇に道があったかどうか。 1万分の1地図では判定が微妙だが、明治の 5千分の1 には見あたらない。

道の右側がコンクリートむき出しになっている。 暗渠化された現在は 汚水との合流式下水管となっていて、サイズは 手前で 2.4 × 高さ2 m、少し先は 1.4 ×1.8 mである。


所々にグレーチングがあって 水が流れている音が聞こえるが、それほど臭くはない。 汚水管とは別に 浅い所に雨水管があって、トラップを介して汚水管に接続されているのか?

左手の崖の上は「右京山」と呼ばれていた一画。 戦前は陸軍の所轄だった(大正10年の地図)が、現在は公園と老人保健施設がある。

一葉の井戸だけではない 現役の井戸

崖下の暗渠
1883年(明治16年)測量の 5千分の1地図
道は 昔の地図の通りに蛇行している。


川の右手 胸付坂



菊坂から。 初めは緩やかだが 先は急坂。
坂上から

最大 11度も
豊島区高田の「のぞき坂(約12度)」に匹敵する斜度である。
写真右上のブロック塀に張られた 薄緑の小さな板が、古い町名案内板。 昔はここが「菊坂」だったようだ。

坂上に今も残る旅館
1
元祖 菊坂?
現在の名は 胸付坂。 しかし 明治の地図には「菊坂」とある。
元祖 菊坂

台町の説明板
胸付坂の説明板は無く、坂上に 旧町名の古い説明板がある。
旧台町 (昭和40年までの町名)
[前略]、1696年(寛永4年)に町屋が開かれた。 むかし、菊畑が多く、坂を菊坂といい、台地の上を菊坂台町と名づけた。
明治5年、町名の菊坂をとり台町とした。 [後略]
文京区
大下水前半にあった 長泉寺前の説明板、
今は、本郷通りの文京センターの西横から、西方一丁目の台地の下までの長い坂を菊坂といっている。」
の文言と合わせて、以前は現在の胸付坂が 菊坂だった、と考えられる。


合流地点
山裾を廻って 今度は左に流れて行く。 突き当たりで、右からの川と合流。 現本郷弥生の交差点から 言問い通りの谷を流れていた支流の名称は不明。

合 流

左 : 川下 右 : 支流の川上
終わりも近い。

合流地点
右手から、言問通りを流れてきた小川が合流していた。


白山通りに向かう
路地は 下水の幅そのもの。 約 1. 8 m。
震災か戦災で崩れた石垣が、あり合わせの石で積み直されている。



いよいよ 最後

側 溝
この側溝は、暗渠化時に 暗渠と一体で造られたと思われる。 右側が奥まっているのは、最低限の道幅を確保するために、路地の中心から2m後退したもの。



今回の終点
白山通りの西沿いを流れていた、東大下水に合流していた。
白山通りには橋が架かっていたが、明治の地図には名前が載っていない。



白山通りへ

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