山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋 | 駒込 → 田端 |
− 架道橋 (ガード) ・跨線橋 − |
5. 第二中里 踏切 |
山手線に残る唯一の踏切。跨線橋とセットなのも面白い。 |
踏切と中里橋 の全景 (山手線の内側より) |
手前が湘南新宿ラインに架かる「中里橋」。 |
1909(明治42)年 の地図 |
豊島区地域地図 第四集/豊島区立郷土資料館 |
中里用水架道橋 第一踏切 中里橋 切り通し |
1903(明治36)年に単線で開通した通称豊島線の状況。 まだ、第二中里踏切はできていない。 第二踏切ができたのは1925(大正14)年、山手線が複々線化された時である。 |
1929(昭和4)年の地図 |
豊島区地域地図 第四集/豊島区立郷土資料館 |
中里用水架道橋/第一踏切 第二踏切 ●中里隧道 |
複々線化するために山手線の外側に増線した。 新しい山手線は、「第二踏切」で中里橋レベルで平面交差するために、第一踏切を過ぎてから 千分の25 という急勾配で登っている。 第二踏切あたりが頂点で、あとは緩く下りながら山手貨物線を越えていく。交差の様子は、「道灌山跨線線路橋」で。 |
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山手線外回り電車から | |||
2009.12.12 | |||
たまには 電車の窓から・・・。中里橋は塗装前。 |
山手線の外側から |
中里橋と踏切。 駒込駅方向を見ている。 |
山手線の内側から | 山手線の外側から | ||
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故障車を検知するセンサー | 遠くに駒込駅 | ||
踏切注意 ! |
大正の頃? に設置された汽車が描かれた道路標識! しかし、汽車が走っていたのは踏切の先の、中里橋の下。 |
線路勾配の大きな変化 |
線路の勾配は、千分の1を単位として表す。 よく使う割合は百分率(パーセント・%)だが、千分率という言葉はほとんど使わずにパーミルと呼び、単位記号は ‰ を使う。本ホームページでも、10パーミルを 10‰ と表すことにする。 |
10‰ の勾配で下ってきた外回り電車は、第一踏切跡を過ぎると今度は 25‰ という急勾配で第二踏切を目指す。 この勾配は、当時 電車専用線に限って登場した勾配である。 |
駒込 − 田端間の 終戦直後の様子 |
1947(昭和22)年8月の空中写真/国土地理院 |
○の間が10‰で田端に向かって下り、BC間の緩和勾配を挟んで、○を25‰で上る。 |
駒込駅から田端方向を見る 2010.2.23. |
駒込駅 旧 山手線(旧 山手貨物線) |
駒込を過ぎた後も、旧山手線 (右側2線:現 湘南新宿ライン)は 10‰ で下り続け、道灌山の尾根をトンネルでくぐっていた。これは、標高約16mの位置にある駒込駅から田端へは、さらに10m程度も下らなければならないためだった。 |
逆に 新山手線は中里橋のレベルまで、急勾配で登っていく。 緩やかな勾配にできなかったのは、手前に廃止前の「第一中里踏切」があり、そこを過ぎてから「第二踏切・中里橋」を目指したためである。 |
この急勾配が登場した当時、山手線には 25‰ が9カ所ほどあったようだが、その多くが変わることなく現在も残っている。 唯一大きく変わったのは、西日暮里駅の新設に際して線路レベルが高くされたこと。これは「間之坂架道橋」の桁下寸法(空頭)を稼ぐためで、ともに 25‰だった勾配が、田端側は 34‰、日暮里側が 29‰とされた。 |
大正末からほぼ1世紀、現在は電車の性能が上がったために、この程度の勾配は難なく上ることができる。例えば中央線東京駅の3階ホームへの登り、上野東京ラインの神田駅前後では35‰となっており、箱根登山鉄道では 80‰という驚異的なレベルまである。 |
位 置 (戦後の様子) |
1947(昭和22)年8月の空中写真/国土地理院 |
駒込駅 田端駅 |
■ 中里第二踏切 データ | |||
位 置: | 北区中里一丁目 〜 中里三丁目 品川から 19K 616M | ||
管理番号: | − | ||
道路の名称: | − | ||
線路の数: | 2線:山手線 | ||
長 さ: | 約 12 m | ||
幅 員: | 4.8 m | ||
制限高さ: | 4.5 m | ||
開通年: | 1925(大正14)年 | ||
備 考: | |||
名前の由来: | 中里に二つある踏切の二つ目 |
周辺の情景 |
国鉄およびJRは、踏切をなくす努力を続けてきた。この踏切もいつかは無くしたいところだが、隣り合う線路の関係で地下道は不可能。また、この場所で陸橋にするためには付近の道路の拡張が必要なため、とても住民の同意が得られないと思われる。 そこで注目されるのが、踏切○の 200mほど田端寄りに計画されている都市計画道路(黄緑色の点線)である。 |
都市計画道路 |
国土画像情報/国土交通省 CKT-89-3/C7B-12 1989年(平成元年) |
道灌山跨線橋の上空に架ける橋は相当な大きな橋であり、北区とJRの共同事業になるだろうか。 2010年代にはいって、その実現に向けて大きな動きがあった。それは「田端三丁目」の一角で区画整理事業が行われ、それに面する道路が広げられたことである。前掲写真右下の黄色の一角が区画整理部分である。 |
細くて急な道を付け替え、崖もなだらかにするものと思われる。住民は一時的にどこかに仮住まいしたているのだろう。 都内で これほど広い空き地は、めったに見られない。 |
2010.11.30 | ||
現在は工事が終わって、新しい家が立ち並んでいる。 |
踏切の自動車の通行量は多くないので、橋が架けられた後は車は迂回することにして、ここには目白の長崎道踏切のように、人や自転車専用の跨線橋を設けることになるだろう。 工事が始まったら、新しい項を増やさなければならない。 |
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