山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋 | 目白 → 池袋 |
− 架道橋 (ガード) ・跨線橋 − |
番外.(仮称) 目白踏切 |
A:品川線 開通前の状態 | ||
南 |
東京近傍中図 / 陸地測量部 1880(明治13)年測量/本図は2万分の1 に着色加筆 赤枠は次の地図Bの およその範囲を示す |
北 |
品川線の渋谷・新宿に続く駅は、周辺の住民らの要望で古くからある「清戸道」(後の目白通り)のそばに決められた。しかし、神田川の低地を背の高い築堤で越えても、目白駅での線路レベルは低く、駅舎は金久保沢の低い位置に造られた。 開業は1885(明治18)年3月。 |
結果的に、清戸道は2本の道となった。 |
B:複線時代の目白駅付近 | ||
南 |
1909(明治42)年測図 大日本陸地測量部 / 国土地理院 に加筆 |
北 |
開通から24年後の地図で、当初は線路両脇の道、特に東側の道は無かった可能性が大きい。○が駅舎。 点滅する・・・・が「下の道」 |
図説『駅の歴史』東京のターミナル/交通博物館編に載っている「日本鉄道会社路線平面及縦断面図」/1894(明治27)年 の目白駅の部分には、次のように書かれている。( ) 内は筆者の補足。 |
・MEJIRO STATION (品川から 8 Mile 50 Chain、約13.9Km) ・LEVEL CROSSING (踏切) 51CH (駅から 約20m) ・OVER BRIDGE ON NEW ROAD 52CH (同 約40m) |
開通9年後の発行であるため、これを事実としてとらえ、道が2本となった理由を推定する。 |
■ | OVER BRIDGE(現目白橋) が「新しい道」に架けられたことについて。 | ■ |
神田上水を渡った後、この区間では後に池袋駅ができる豊島台地の高みに向かって、1,000分の10 で上り続けている。このため、駅や清戸道でのレベルは自ずと決まってしまう。 |
既存のレベルのままでは道をくぐり抜けられないために、盛り土して高さを調整したために「新しい道」と表現されたものと考える。道路の位置まで変わったのかどうかは、はっきりしない。架けられた2線分の跨線橋は木造だった。 |
■ | 次に、新たに「下の道」を設けて踏切ができた理由について。■■■■ | ■ |
1885(明治18)年の開業当初の電車は1両編成だった。現在の都電をイメージすればわかるが、目白駅のホームも低くて小さなものだったと思われる。また 予想される乗降客はほとんどなかった。 |
このため、建設費の掛かる橋上駅舎の建設などは全く検討されず、地上駅とするのは当然のことだろう。 |
清戸道から駅に下りる道として、緩い坂道(通称下の道)が新設されたが、分岐点は 東は約150m、西は約200mも離れている。東側からは踏切を渡って西側の駅前道路に出た。上の道との間は土手で、サクラが植えられていたそうだ。 |
この時点では、上下を繋ぐ階段などは 無かったと思われる。 |
踏切の解消 | |
1922(大正11)年 夏 |
|
竣工年は『目白駅駅舎の変遷に関する考察/平岡厚子』による。 |
この時、踏切は廃止されたものと考えられる。踏切の利用期間は 35〜6 年だった。 |
1923(大正12)年 | :二代目目白橋(当時の東京市担当) 完工 |
1923(大正12)年9月1日 | :関東大震災 |
1924(大正13)年9月 | :新大久保 - 池袋間 複々線化完了 |
C:複々線化された山手線 | ||
南 |
1929(昭和4)年 第3回修正 大日本陸地測量部 / 国土地理院 に加筆 |
北 |
○が目白橋に面した橋上駅舎。竣工後約6年後の地図で、東側(学習院側)の道は無くなったが、西側の道・・・は生きている。 |
初代 橋上駅 | ||
1925(大正14)年頃 / 豊島区の掲示板より / 元の写真は鉄道博物館蔵 |
新設された 目白橋 |
|
↑元のプラットフォームの位置 |
複々線化が完了した状態の写真で、池袋方向を見ている。点線が、踏切があったおよその位置を示している。 |
次の写真はホームの左側の様子で、2020年初めまで謎の階段が残されていた。 |
コンクリートで上部を封鎖された 階段 | ||
2009.12.22 | ||
前景写真の駅舎の左端に、この謎の階段があった。裏手の屋外通路から国鉄の敷地内に下りていたもので、上部は今は駅前広場。 詳しい考察がなされた『目白駅駅舎の変遷に関する考察/平岡厚子』でも、その用途は はっきりとは解明されていない。 |
||
現在は撤去され、豊島区によってエレベータが設置された。 |
撤去後の状態から、橋台(中央の縦長の三角形)とは一体になっていなかったことが判明したが、階段が駅舎建設当初から計画されたものか、必要に迫られて後から造ったものかも不明である。 |
1928(昭和3)年2月 | :駅舎改築工事 着工 | |
1928(昭和3)年8月 |
|
上記は『目白駅舎の変遷/平岡』にある『目白駅史』による。 |
D:無くなった下の道 |
1937(昭和12)年 第4回修正 大日本陸地測量部 / 国土地理院 に加筆 |
地図Cから8年後。駅舎○が大きくなった。震災後の市区改正道路計画が実施されて、目白通りも広げられた。この時に西側の下の道は廃止されて、道路部分は払い下げられたと考えられ、敷地は高い位置で大通りに面するようになった。 |
Top へ 山手線が渡る橋・くぐる橋 高橋俊一 目白橋 へ |