山手線 が 渡る橋 ・くぐる橋
池 袋 → 大 塚

1. 雑司ヶ谷 架道橋
2010年1月 掲載、2020年11月 改定・歴史を追加

愛称「ウィ・ ロード」。プレートに WE ROAD と書いてあるが、road に動詞はないので、Our road の意味だろうか?、と思っていた。

改修前の 山手線内側(東側)の入口 愛称の銘版

入口横に自転車駐車場がある。

WE ROAD。

NHK BSの番組 「あなたの知らない池袋駅 徒歩7分」で名付け親が登場し、西口と東口を繋ぐ West - East Road だと説明していた。どうやらディレクターがこのホームページを見て、テーマのひとつとして取り上げたようだ。
2019年、若い美術作家 植田志保さんの絵で、WE ROADが再生した。

元のタイルを剥がした凸凹のモルタルに、直接アクリル絵の具で描かれている。天井は45枚のパネル張り。
照明の増設もあってカラフルで明るいものとなり、通るのが楽しくなった。

西の端から 山手線の内側を見る。


西の端、突き当りの壁。


西側のスロープ。
きれいに保たれているのは、植田さんとボランティアの清掃作業・補修作業のおかげ。



以下は、2010年に掲載した改修前の様子。

駅のすぐ北側で東西を結ぶ点で「角筈架道橋」と似ているが、通路幅は少し広い。
全景 山手線の内側 から
ワイヤ入りのガラス越しなのできれいに撮れていないが、山手線内回り電車が過ぎた位置に架道橋がある。
コンクリートのトンネルなので、上からは全くわからない。

左下にある埼京線など写っていない線路も含めて、横断する線路の数は 約15線。「約」が付くのは、丁度ポイントに掛かっている部分もあるためで、それは1線と数えている。 
山手線の内側のスロープ
線路敷きは平地なので、通路はスロープを下りて地下である。
駅前の大通りからは少し奥まっている。

昔の通路内の様子 天井高さは 約 2.1m
2010.1.14
山手線の内側方向を 振り返っている。タイル張りだった。
 
山手線の外側方向を見る。通路の突き当たりは「T字路」。
 
 
山手線の外側 から
2009.11.28

山手線の外側

手前 板橋方向へのスロープ。

池袋北口方向へのスロープ。
T字路の地上部分にあるのは公衆トイレで、その名は「WE topia」!


雑司ヶ谷架道橋の歴史

雑司ヶ谷村は池袋駅のずっと南に位置し、本架道橋の名称は地名ではなく道の名前に由来したものだった。このため、正確には「雑司ヶ谷道 架道橋」とすべきである。


1885(明治18)年3月:日本鉄道 品川線、品川 - 赤羽間 開通

地図 A:雑司ヶ谷道 1881年

2万分の1迅速図 板橋驛 / 1881(明治14)年測量、明治18年製版、明治20年出版 / 陸地測量部 / 国土地理院
方位を90度回転している。以下同様。測量時には品川線は未開通だったが、製版時に追加されたものと思われる。
が (仮称)雑司ヶ谷道踏切で、後にできる池袋駅付近には、ほとんど人家が無かった。このため目白 ‐ 板橋間は、新大久保 - 目白間と同様にほぼ直線で計画された。

1903(明治36)年4月:日本鉄道 池袋 - 田端間 開通
           池袋・大塚・巣鴨駅 開業
地図 B:池袋駅誕生 1909(明治42)年

1万分の1 早稲田 / 1909(明治42)年測量 / 大日本帝国陸地測量部 / 国土地理院 に加筆
点滅する・・・が元の道筋で、駅の開業に伴って道路を付け替え、踏切の位置も移動したと考えられる。

北側から見た 開業当初の池袋駅
鉄道博物館のパネル展示より
  大塚へ                        板橋へ
撮影年は不明だが、山手線が複線化される1910(明治43)年以前であるため、地図Bと同じ状態である。
駅側に踏切は無いので、恐らく踏切から撮影したものだろう。

1906(明治39)11年:日本鉄道 国有化
1910(明治43)年4月:池袋 - 田端間 複線化
1914(大正3)年5月:東上鉄道 池袋 - 田面沢間 開通
1915(大正4)年4月:武蔵野鉄道 池袋 - 飯能間 開通

地図 C:池袋の発展 1916(大正5)年

1万分の1 早稲田 / 1916(大正5)年第一回修正測量 / 大日本帝国陸地測量部 / 国土地理院 に加筆
現在の東武鉄道・西武鉄道が開業し、東口の後の明治通り沿いが市街化しつつある。踏切は廃止され、同じ位置に人道跨線橋が設けられている。線路数は東上線を入れて 4線となった。

1923(大正12)年9月:関東大震災
1924(大正13)年12月:池袋 - 巣鴨間 複々線化
1925(大正14)年:現在の位置に「雑司が谷隧道」完成
建設年は、2020年改装時の説明板による。
 同 年11月 :山手線 環状運転 開始

地図 D:複々線化と震災復興 1929(昭和4)年

1万分の1 早稲田 / 1929(昭和4)年第三回修正測量 / 大日本帝国陸地測量部 / 国土地理院 に加筆
跨線橋(が元の位置)は廃止され、「隧道▼▲」が造られた。
震災から6年が経過し、復興局が策定した都市計画街路が次々と通された。池袋では環状5号(明治通り)が駅前に到達した。
地図 D2:隧道詳細
地図Dの部分拡大。東西とも隧道へのスロープがT字型(南北両側)にある。
その後東側のスロープの形が変わったが、基本的にはこのまま現在に至っている。



位 置
1948(昭和23)年の空中写真/国土地理院 に加筆
池袋駅         旧東京拘置所      大塚駅

雑司ヶ谷 架道橋 データ
位 置: 豊島区南池袋一丁目
     (〜西池袋二丁目)
 品川から 15K 472M
管理番号: 山手線 ( 41 )
通りの愛称: ウィ(ウェスト イースト)・ロード
線路の数: 15線:山手線の外側より
東武東上線 3線、
山手線関係 計6線 :山手線外回り始発線、切替え線、山手線外回り、山手線内回り、切替え線、山手線内回り始発線
電車区への線1線、埼京線下り2線、湘南新宿ライン2線、埼京線上り1線
支 間: 通 路 幅:約3.6 m
空 頭: 天井高さ:約2.1m
竣工年: 品川線開通当初の踏切は、現在よりも北側にあり、その位置に跨線橋が架けられた。
現在の位置での架道橋の開通は、1925(大正14)年。
 名称は「雑司ヶ谷隧道」
名前の由来: 池袋村から鬼子母神を経て高田村に至る「雑司谷道」にあたるため。
 


周辺の情景

PARCO 旧 丸物百貨店

設計:村野藤吾、竣工:1957年
撮影は1973年、古いネガからコピー
したため、緑色が飛んでしまっている
写真左は、架道橋の山手線の内側出口の所にある現在の姿。
竣工時の状態はタイルによる壁画が特徴で、村野の作品としては珍しい抽象画だった。何が描かれたのかはわからない。

雑司ヶ谷道 といえば 鬼子母神
駅から鬼子母神までは1km程度離れているが、都立雑司ヶ谷霊園とならんで知名度が高いのが 鬼子母神堂である。
より駅に近い位置にある「法明寺」のお堂だそうで、この鬼子母神の境内は法明寺とは離れた位置(飛び地)となっている。
都電の鬼子母神駅から続く参道のケヤキは大樹である。

Topへ 山手線が渡る橋・くぐる橋 高橋俊一 仮称 池袋橋 へ