山手線 が 渡る橋 ・くぐる橋
巣 鴨 → 駒 込
− 架道橋 (ガード) ・跨線橋 −

2. 駒 込 橋

こまごめばし。山手線 池袋-田端間が開通した時にできた橋。 
現在の橋は 1991(平成3)年に架け替えられたもの。
全 景(巣鴨駅側 山手線の内側 より)
右奥が駒込駅。橋のすぐ袂が駅舎の入口となっている。
歩道にも サクラの模様。
遠 景(巣鴨駅側 山手線の内側 より)
取材協力:芥川製菓 株式会社
近 景(巣鴨駅側 山手線の外側 より)

親 柱

街 灯 手摺り
駅舎の右のビルは 線路の内側 ホテル・メッツ。
意匠は「富士と桜」。富士は近くの富士神社だろう。富士塚がある。
西側には高台が続くが、建物がなければ富士山も見えたのかもしれない。

先代の欄干
橋の袂にある「染井吉野桜記念公園」に 先代の欄干が保存されているのだが、説明板がない。


位 置 (戦後の様子)
1947年(昭和22年)8月の空中写真/国土地理院
     巣鴨駅                     駒込駅
駒込橋 データ
位 置: 豊島区駒込一丁目〜駒込三丁目
管理番号:  −
道路名: 本郷通り
橋 長:
幅 員: 約 30 m
竣工年: 初代:1903(明治36)年山手線開通時
   木製だったか? 未確認
二代目:複々線化時
現在の橋:1991(平成3)年4月
跨ぐ線路: 4線 : 山手線、湘南新宿ライン
備 考:
名前の由来: 付近の地名による
地名の由来:
古事記や日本書紀に登場する架空?の人物、日本武尊にまつわる駒込説があるが、疑わしい。大昔には日本に馬は伝わっていなかったようだ。
その後の時代に「馬を飼って囲っている場所」として「駒込」の地名が起こった。
と言われるが、駒込の名が付く範囲は広範囲にわたる。北は染井墓地あたりから、南は東大近くまで。
別の意味の「こまごめ」に 現在の字を当てた可能性も大きい。
同様の地名として、馬込、牛込 がある。 


橋からの眺め・周辺の状況

ひとつ前の染井橋
巣鴨駅側を振り返ったもの。
 
六義園 染井門
橋からすぐの所にある門。通常開いている 正門は裏側なので、この看板。実際は「この先」という感じではなく、相当歩かなければならない。染井門は サクラやモミジのライトアップなど、特別の期間だけ開かれる。 
築山から
六義園では「芝生でお弁当」もできないし、子供たちが走り回るような場所もない。

あくまで名勝・庭園であって、松や桜・紅葉などを楽しめるが、家族連れや若者が楽しめる「公園」ではない。

でも、紅シダレはすばらしい。
 
夕日を受けて、一部がダイダイ色に。
人波が途切れるのを待つのに較べたら、山手線を待つのはよっぽど楽だ。
六義園は、徳川綱吉の小姓から15万石甲府城主にまで上り詰めた、柳沢吉保の別邸。
その後明治期に、三菱の岩崎弥太郎が購入。5万6千余坪といわれた六義園の周辺をさらに買い増して、下図のように、ほぼ巣鴨駅から駒込駅までの広範囲を所有した。六義園の周囲の部分は、洋風庭園のおもむきである。
1916(大正5)年の地図
長男の岩崎久弥の時代になって、周囲の一部 11万坪を「理想的な住宅地」として分譲することにした。
1921(大正10)年の地図
分譲に先立って、南東の大きな池や 六義園周辺の川が埋められて、準備が行われた。池の横の等高線が変わっているので、敷地内の土を移動して埋め立てた事がわかる。
分譲の募集は 1922(大正11)年5月から。
居住(入居)開始前に「大和村組合」が作られ、住民間で守るべき規則も作られている。何よりも驚くのは、この時代に「電灯線と電話線の地下埋設」である。
1929年(昭和4年)の地図
1929(昭和4)年には、ほぼ中央の 206番地に 大和郷幼稚園ができた。1938(昭和13)年には、六義園を東京市に寄贈。
大和村の由来は、柳沢大和守吉保にちなむとも また、「いにするように」との意味があるとも言われている。
1925(大正14)年からは、行政上の「村」との混同を避けるために「大和郷」として、読みは従来通り やまとむら としたという。
参考文献『巣鴨百選』2002年9月号
注)上記由来は巣鴨百選のままだが、由来の一つ「柳沢大和守吉保」は間違いのようだ。大和国郡山藩15万石となったのは、長男 吉里である。
参考にしたのは Wikipedia
このため、
村の由来としては二番目、あるいは日本国の別名である「大和」を理想的なコミュニティーの名前に冠したのではないだろうか。

Topへ 山手線が渡る橋・くぐる橋 高橋俊一 駒込駅 へ