山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋 駒込 → 田端
− 架道橋 (ガード) ・跨線橋 −

7. 富 士 見 橋

道灌山の尾根を通る 田端高台通りに架かる橋。
田端線が開通した時には橋ではなく、山手線のトンネルの上を通る道だったが、複々線化時 1925(大正14)年に橋となった。詳しくは、次の「隧道跡」で・・・。 その後1967(昭和42)年に架け替えられた。

遠景(巣鴨駅側 山手線の外側 より)

2010.1.25
橋の手前に水道管があるために、橋はほとんど見えていない。桁には 1966年製作の銘板がある。手前は「道灌山跨線線路橋」。
 
全景 (田端側 山手線の外側から)

2010.3.11
旧山手線時代は、現在の左側・下部をトンネルで抜けていた。
その時の現在の橋の部分は 「土手」だった。
 
近景 (巣鴨駅側 山手線の内側 より)
手前に見える水色のパイプは 水道本管。
 
橋から駒込方向を見ている。水道管は1971(昭和46)年11月竣工、長さ24m。橋よりもずっと長い。(2枚を合成)
 
尾根道はうねっている
道の両側に建物があるために、せっかくの高台なのに眺めは良くない。
 
山手線の外側から

親柱も手摺りも 照明器具(街灯)も無い
  
金網のフェンスと既製品のガードレールだけで、橋の体裁をなしていない。
 
線路際の古い手摺り跡
手摺子はコンクリート、手摺は鉄パイプが2本だけだった。恐らく、橋が架け替えられる以前のものだろう。
二代目はガードレール+ワイヤで、少しだけ高さが増した。
三代目はエキスパンドメタルのフェンス。これもだいぶ錆びている。
日本では、事故の責任を「自己責任」ではなく、施設管理者に求める傾向がある。おかげで 街中が金網だらけである。

翼壁(山手線の内側、駒込側)

2020.3.10
この土手の中に道灌山隧道が埋まっている。三角形の翼壁のコンクリートはそれほど古いものには見えなかったので、複々線化のオリジナルではないと考えていたが、最近になって、架け替えた時期である「1967(昭和42)年2月」の銘板を”発見”した。

もう一方の翼壁(山手線の内側、田端側)
残っている石垣。恐らくこれは大正時代の翼壁だろう。駒込側がコンクリートなのに、こちら側をわざわざ石積みにすることはないはずだ。付近では、複々線化時に造られた石積み擁壁が多数残っている。三角の面積が少ないのは、橋の幅(道幅)が田端側に広げられた結果だろう。


位 置 (戦後の様子)
1947(昭和22)年8月の空中写真/国土地理院
  駒込駅                          田端駅
富士見橋 データ

 
位 置: 北区田端六丁目
管理番号:  −
道路名: 田端高台通り
橋 長: 約 15 m
幅 員: 約 12 m
竣工年: 初代:1925(大正14)年 複々線化時
現在の橋:1967(昭和42)年2月
跨ぐ線路: 2線 : 山手線
備 考:
名前の由来: .富士山が見える?、見えた?
現在でも見えるのかどうか、確認を怠った。恐らく、もう見えないだろう・・・・。


周辺の情景

次の田端跨線線路橋

2010.2.20
田端への切り通しからは 東北新幹線の高架橋が見える。
その向こう側が新幹線の車両基地。品川と違って様々な種類の車両が並ぶ。
しかし、高架橋が邪魔でよく見えない。
上野で地下深く潜っていたのが、なぜこんな高いところを走る必要があるのか? それは手前で「田端大橋」を越え、このあとも環七通りや京浜東北線を越えて行くため。
地下を掘るよりは コストが掛からない。むしろ上野駅も「高架案」が検討されたはずだが、何か不都合があったのだろう。

次の写真は 1984(昭和59)年頃、完成に近付いた車両基地の写真である。
工事中の新幹線車両基地 1984(昭和59)年
    富士見橋  構台          新幹線
国土画像情報/国土交通省 CKT-84-3/C7B-12 1984(昭和59)年

富士見橋の脇から 山手線の上に構台が架け渡され、延々と下まで下りている。北側が田端操車場で分断されているので、頻繁で膨大な数の車のためのアプローチ用として、この構台が作られた。
富士見橋の欄干が無いのは、この工事に関係しているものと思われる。構台への出入り口のために一部の古い欄干を取り外し、完了後に総ての欄干を現在のパイプ形式にした・・・。

それはともかくとして、関心がないということは恐ろしいことで、山手線がこの構台をくぐっていたことや、新幹線の高架橋工事の様子を見た記憶が まったくない・・・。

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