山手線が渡る橋・くぐる橋  − 架道橋 (ガード) ・跨線橋 −

秋葉原駅
番外 . プラットホーム

秋葉原駅のプラットホームは山手線・京浜東北線の 1〜4番ホームと、それにオーバー・クロスする 総武線の 5 ・6番線ホームからなる。 
貨物地上駅については資料が無く、省略する。


山手線ホーム
工事中の写真
『東京市街高架線 東京上野間建設概要/鉄道省』(1925年発行)
駅の項と重複するが、1924年(大正11年)頃の工事中の写真である。
撮影位置は、神田寄りの階段部分、プラットフォームよりも少し高い位置から御徒町方向を見たもの。  開通は1925年(大正14年)11月である。

この写真を見ると、ホームは始めから2面あったような気もするが、この時点では、上屋の鉄骨は片方だけである。 (もう一本のホームは右側)
たとえ2面作ったとしても、線路までは引かずに 1面だけを使った可能性もある。

このあとで工事が行われる総武線の高架橋とクロスする部分は、骨太の鉄骨造られている。

山手線・京浜東北線ホーム

お茶の水

浅草橋
『御茶の水両国間高架線建設概要/鉄道省』(1932発行)に加筆
上記のように最初からホームが2面あったかどうかは未確認だが、御茶の水両国間が開通した 1932年(昭和7年)時点では、少なくとも骨組みだけはできていないと総武線が通せない。

つい最近の大改装以前は、電気街への主要出入口は図面にある「中2階の中央通路」しかなく、夕方などの混雑時には、二つのホームの合計4つの階段 ( )から下りてくる人・ 帰る人で びっしりと人で埋まった。

あの通路幅は 4m 程度だったろう。 今思い出すと、恐ろしくなる・・・。

                      3 ・4 番線            2010.9.24
旅客駅としての秋葉原の開業は御徒町駅と同じ日で、ホーム上屋のデザインも似ているのだが、秋葉原では、柱がないところに架かる「小梁」にも トラス・アーチが使われており、アーチが連続して見える。

御徒町はその部分が鉄の棒を使った「タイ・ビーム」である。
御徒町駅の上屋



総武線ホーム
1932年(昭和7年)開通当時の図面である。 左側が御茶の水方向。
      山手線・京浜東北線、回送線       貨物線10線               エスカレータ   掘割り
『御茶の水両国間高架線建設概要/鉄道省』(1932発行)

 
エスカレータ
相対式のホームの浅草橋側に、それぞれエスカレータが設置された。
総武線のホームレベルは地上から約 15 m もあるためだが、もちろん国鉄初。 評判となったようだ。

エスカレータは大正の初めに日本に登場したばかりで、百貨店ぐらいにしか設置されていなかっだろう。  終戦後1947年(昭和22年)の空中写真には写っているが、いつ撤去されたかは不明。
エスカレータ
1947年(昭和22年)の空中写真/国土地理院/撮影は米軍
                                  掘割り

          エスカレータのあった場所 (総武線の南側)  2010.10.1
もちろん乗降客は行けないようになっているが、なぜか現在でも金網張りの開口部となっている。 エスカレータを受けていた梁()も残っている。


いまだ 延長工事なし
注目すべきは「230m」というホームの長さである。 当時の6両編成の 約 2倍。 後から延長できないことはないのだが、40年後の10両編成を見込だのか?、 長大なホームを初めから用意したようだ。
両国発の中央線列車などがあって、それが停車するためだったのかも知れないが、未調査である。

高架橋とホームの大部分は鉄筋鉄筋コンクリート(SRC)造だが、線路を跨ぐ部分とホームの上屋は 鉄骨造である。
断面図右のように全体の幅が広くなっているのは、山手線との連絡階段を設けるためで、その区間はクロス部分の 50m のみ。 図左の幅だった。

現在はいくつもの階段が付け加えられ、またホームも多くの部分で拡張されている。

SRC造部分 鉄骨造部分
『御茶の水両国間高架線建設概要/鉄道省』(1932発行)を基に作成
山手線などが走っている二階レベルに、この鉄骨の「ベース」(鉄骨造図面の 印)がある。
加工した鉄骨をリベット止めした構造で、古レールは使われていない。
右側は 増設された階段用の柱。

クロス部分の鉄骨工事中の写真が、土木学会の工事画報に載っていた。

『土木建築工事画報』 第8巻 第2号(昭和7年2月) より
「進捗せる両国線建設工事」 写真(11)/ 掲載許可 取得済み
一列に 6本の柱が並んでいる。 説明書きによると、旅客乗降場より写す とある。 この写真を見て、駅の建設手順が判明した(あくまで 推定)。



秋葉原駅 ホームの建設手順

本項冒頭に 山手線ホームが初めから2面使われたのかどうか、という疑問点を書いたが、前掲写真によって、まず 第一ホームと2線を使用していたことがわかった。 
第二ホームには工事用に材料が置かれ、建て方中の鉄骨を仮止めするワイヤも見える。 ホーム上には鉄骨用の「増築端」だけが写っている。 総武線を横から見た次の図面に、写真の状態を示した。 

1. 前掲写真の状態
山手線 ・京浜東北線 共用で、第一ホームの2線 を使用。
総武線高架橋を西へと延ばし、まず 第二ホームへの階段 を造る。
『土木建築工事画報』 第8巻 第2号(昭和7年2月) より
2. 第二ホームへの階段を造る

3. 第一ホームへの階段を造る
電車線 を第二ホームに移し、第一ホームの階段 を施行。 工事は総武線開通までに終わらせればよい。 これなら 安全に日中も工事できる。



                   ホームをつなぐ梁           2010.10.6
総武線ホームの上屋は 12 カ所でつながれているが、ホームに立つ柱が等間隔ではないために、つなぎ梁の間隔も一定ではない。

高さのある上屋 ちょっとした飾りも


大空間
                      総武線 2階コンコース           2010.7.22
4本の斜めの大柱に ふたつのアーチが架かっている。

手前 浅草橋側 御茶の水側のトラス

「駅の項」で写真だけ載せた、総武線ホーム下の大アーチである。 天井内にトラスが隠れている。 スパンは 総武線方向 11.48 m × 約 14.4 m。

大空間の位置
  第一貨物ホーム        中央通路         第三貨物ホーム
図は総武線に平行に切った断面図で、北方向を見ている。 図示されているのはアーチと直交するラーメン桁(柱・梁式)で、貨物駅ホームに沿った中央通路のための大スパンである。 写真のアーチそのものは図面と直交する方向なので、図示されていない。 

土木学会の工事画報に、図面と同じ向きで撮影した工事中の写真が載っていたので、掲載許可をいただいた。
『土木建築工事画報』 第8巻 第2号(昭和7年2月) より
「進捗せる両国線建設工事」 写真(14)
右下 手前には馬 が写っているのでスケールとなるが、大型トラックが楽々と行き違えるだけのスパンがある。

ここは吹き抜け空間だったために、中間レベルには床がなかったた。 今回の改修で上から吊り下げる方法で床が作られた。

ロッカーの裏に3本ある、細い柱が「吊り材」である。

結果的には、この下が「新中央改札口 大ホール」となってよみがえった。 ただし より広いスパンの空間を作るために、昔の柱が何本も取り払われ、新しい柱と梁で造り直されている。


上階に 緑色の鉄骨が見える。


                      上り 下り              201.10.1
山手線を越すために、総武線の高架は浅草橋の途中から登りとなる。
勾配標識がないので未確認だが、1,000分の10だと思われる。

階段下をくぐる 山手線
総武線の線路レベルは必要以上に高いように見える。

山手線の御徒町以南の高架橋レベルは、ガード下を確保するために、ほぼ地面なり (地面からの線路の高さが同じ)となっている。

総武線よりも先に山手線が建設された。 それとクロスする総武線の高さは、相互をつなぐ階段の下を、山手線がギリギリで くぐれるようなレベルに決定されたようだ。
矢印が 建設当初の階段。 今は使われていない。

               総武線から 山手線へ下りる階段      2010.9.21
3 ・4番線から見上げた写真である。 (上図 ↑ 印)

当初は、上下の2面ずつのホームをつなぐ 計4カ所の階段があった。
ところが、 山手線のホームから見上げると、それぞれに形の違うものが二箇所ずつ 計 8カ所 ある!!  手前がオリジナル。

調べるまでは気にも留めなかったのであるが、奥が現在使われている階段で、1956年(昭和31年)の山手・京浜完全分離時に付け替えられたものだ。

実は、古い階段は「封印」されている。 総武線のホームにあがってみると ・・・。
現在の踊り場から 昔の階段の位置を見る
の壁の裏に 「封印」された踏み段がある。 

                  総武線 西行き 5番線         2010.9.21
竣工時にはの部分に階段があった。 この附近は当初から全体の幅が広かったものの、肝心のホームの幅が ほかよりも狭くなっていた。

山手線・京浜東北線完全分離のための 様々な工事の一環として、ホームの外側に幅の広い階段 (下図 )を新設したものである。

元の階段(赤点線)の踊り場と下半分(90度折れまがり後)は取り払われ、総武線の開口部には床が張られて ホームが広げられた。
その後 階段の増設は、各所で複数回行われている。
 

古レールの利用

国土交通省のホームページ・サービス「国土変遷アーカイブ 空中写真閲覧」で調べると、終戦後 1947年(昭和22年)の空中写真には、連絡階段の増設が無いものと、あるものとがある。 (日付は前後していて不正確のようだ。)

オリジナルのままの総武線
1947年(昭和22年)の空中写真、 写真サイズ 400 × 189
初めに階段が増設されたのは、次に示す写真(1963年)の5B部分である。
そのほかの場所には増設がなかった。 (番号は仮称)

増築された 総武線・山手線の 階段
1963年(昭和38年)の空中写真に加筆


最初の増設
4カ所の階段を比較観察してみたが、5Bの最初の増設(現在の幅の半分)は古レールだけを使ったものとなっている。 

5B 最初の増築部分 その後の 増築に次ぐ増築

   がオリジナルで、ここ5B部分は3回も増築されている。
↑リベット止めのレール部材だけを使った 最初の増設。 1947年か?
  柱はレール4本。 ブレースもダブル。

ここだけ、すなわち 総武線5番線(西行き)と 山手線外回りが先に増設された理由は、千葉方面から東京方面に乗り換える乗客が多かったためだと思われる。

この時点では、先の「階段下を くぐる山手線」の項で述べた「付け替え」(オリジナル階段の閉鎖)は、まだ行われていなかったように思う。 (未確認)
最初の増設の屋根が、その後の改造で失われてしまっているのが残念。


5Aと 5Bの二回目部分はリベットも使われているが、溶接して作ったH型鋼風の柱がシンプルで、もう少し後の時代に付け替えが行われたようだ。


執念の造形 6A ・ B 部分
その次の増設が 1957年(昭和32年)1月竣工の、6AB (山手線の2つのホームから 総武線6番線に上る両階段)で、ホーム幅を狭めていたオリジナルの階段を封鎖して付け替えられた。  これは山手・京浜完全分離時である。

このおおげさな見出しは曲線を ものともしない そのデザインにある。

オリジナルの外観アーチや ラーメン桁のコーナーの円形を取り入れたもので、屋根自体がゆるい「蒲鉾型」の曲線となっている。
それを 古レールやアングルを「曲げて」造っているのだから、鍛冶屋 顔負け。

この工事はリベット使用の最終期にあたるが、部材として古レールがふんだんに使われ、プレートとの溶接も併用している。


踊り場のカーブ天井と階段のカーブ天井が交差して、三次元曲線ができている。
手前のリベットによる 柱 ・アーチ部材はオリジナル(昭和6年頃)。

                     踊り場の天井            2010.6.12
構造材として、3本に1本はレールが使われている。(窓に方立がある部分)
中間はアングルで、それらに角材を添えて野地板を打ち付けている。


2010.6.12  総武線のホームレベルへ        本屋の前から階段を振り返る

この奥 6B部分まで、一続きの かまぼこ型屋根 となっている。
↓この「樋」に注目!

その後本屋が撤退したので、ひと続きの屋根の様子がよくわかる  2011.11.9

               既製品の加工ではなく製作もの?     2010.9.24
かまぼこ屋根とホームの屋根の間の樋。 アングルを加工してできるような曲率ではない。 プレート加工して作ったものだろう。  木の母屋をボルトで留めている様子がよくわかる。


                 6AB 増設部分の 階段裏       2010.10.22
コンクリート製の段を受ける部分はレールをダブルに使った、アイデア賞。 中間にプレートを入れて溶接されている。

柱梁の周囲の部分(線が二重になっている部分)も 古レールである! 廃品再利用 「リ・ユース」のお手本である。 極めてきれいな溶接の仕上がり。 
↑左に見える線路がない部分は、東北縦貫線の工事中。

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