山手線が渡る橋・くぐる橋  − 架道橋 (ガード) ・跨線橋 −

秋葉原 → 神田
5. 柳原河岸 高架橋

柳原河岸高架橋は 14m 程度の短い高架橋である。

高田馬場駅戸山口 改札部分に「高田馬場A口高架橋」という 7mほどの高架橋がある。 (本ホームページでは ひとこと触れているだけ)
また、三角形の形をした「東松下町橋高架橋」(秋葉原-神田間)も、長さを測りにくい短い高架橋であるが、柳原河岸高架橋の短さはそれに次ぐものであろう。

道路がないので横からは写せない。

山手線の内側から (秋葉原方向を見る)
           神田川橋梁  柳原河岸高架橋       柳原通り架道橋
撮影ポイントはこの一カ所のみ。
奥のアーチが神田川橋梁で、柳原架道橋の橋台との間には 柱が3本だけ。

高架橋の名称ラベルもなかったので、『東京市街高架線 東京上野間建設概要/鉄道省』(1925年)を見ていなかったら、見落とす所だった。

14mというのは、上記資料の一覧表中にある 46.55 フィートを計算した値だが、そんなにあるようには見えない。

高架橋内部 (秋葉原方向を見る)
柳原通架道橋橋台のアーチの間から秋葉原方向を撮ったもの。  壁の向こうは神田川橋梁で、通常の柱の位置以外に土圧を受けるバットレスが付いている。

高架橋の中央部分
柱の中央に目地がある。  丁度 全6線の中間で、次の写真の橋台のデザインとも一致する。
本高架橋が2回に分けて造られたとすると、構造が一体の神田川橋梁の工事もも、2回に分けて工事が行われた事になる。



ここでも、東北縦貫線工事で2本分の高架橋が撤去されている。

2010.1.30 在りし日の柳原河岸高架橋 および 柳原通り架道橋 C部分
ホームページを作り始めてまもなく、「とりあえず」歩いた時に撮った1枚。
東北縦貫線で壊されるとは思っていなかったので、1枚しか撮らなかった。
すでに工事車両の出入り口ができていた。

橋台の外観でも、3線ずつ 二つに分かれている。

2010.10.1 桁が無くなっていた
撤去された日はわからないが、2本の桁が撤去された。
新しい軌道の位置はかなり高くなる。  
佐久間架道橋のように、古い桁を再利用するかどうかが見ものである。

2010.10.19 高架橋も造り直し
ワイヤソーで切断されて、B部分の3線の内 東北縦貫線の2線分の高架橋が撤去された。  神田川橋梁とそれに続く3m程度の高架橋が残される。
右端に写っているのが新幹線の高架橋である。

コンクリート コア抜き作業
刃の付いた中空の金属シリンダーを回転させて、コンクリートに穴を開けているところである。
アームの先に「コア抜きユニット」(赤い器具)を付けて作業している。  
これなら自由な角度で押さえつけながら、次々と開けられる。

地上の構造体を取り払った後に、基礎を解体している段階である。
横からも開けて、ワイヤソーで切断するのであろう。  昔なら 削岩機ですごい音と振動が出たが、これなら最小限で済む。


戦前に6線分の高架橋ができていたのは、ここ柳原河岸高架橋までである。
それは、終戦後 1947年(昭和22年) 米軍撮影の空中写真で確認できる。

柳原通り架道橋には 4線分の桁しかない。

     秋葉原駅            佐久間架道橋        神田川

神田川橋梁 工事中の写真
遠くに見えている橋台()は「第2柳町橋高架橋」で、左方向が隅田川となる。 

この写真で 6. 柳原通架道橋の橋台だけは、当初に4線分作られた事がわかる。

ただ、神田川橋梁が当初から6線分造られたのか、とりあえずは3線分だったのかは はっきりしない。
『東京市街高架線 東京上野間建設概要/鉄道省』(1925年)に加筆

空中写真から、戦前にここまでは6線造られていた事は はっきりしているのであるから、大正末の最初の工事が 3線であったとしても、引き続き二期工事で6線となったはずだ。
佐久間架道橋 C部分の桁の銘板が 1927年(昭和2年)なので、神田側橋梁と
ここ柳原河岸高架橋も 昭和一桁 までにはできていたと思われる。 (未確認)

そうすると 竣工後少なくとも80年ということになるが、それにしては きれいなコンクリート!
 
柳原河岸高架橋 B部分 の切断面
アスファルト防水層や押さえコンクリートは やり直した可能性もあるが、サイドに化粧のボーター(出っ張り)を付けたコンクリートは、まったく痛んでいない。
梁の下端筋が7本も並んでいる。 今ならば2段に配筋するところだが、よくコンクリートが詰まっている。



位 置 (終戦後の様子)
1947年(昭和22年)の空中写真/国土地理院
      秋葉原駅        中央線                        神田駅
柳原河岸 高架橋

位 置: 神田須田町二丁目
管理番号:   −
線路の数: (下記 ABC は仮の呼び名)
竣工時 当初は2本
秋葉原駅で、当初からホームが2面使われていたなら4本だが、未確認。
現在 A: 3本: 京浜東北線北行、 山手線
B: 3本: 京浜東北線南行き、
      東北縦貫線2本は解体中
C: 2本: 新幹線 新設
橋 長: 約 14 m
橋脚の数:  3本
竣工年:
A: 1925年(大正14年)
B: 1927年(昭和2年)頃?未確認
C: 1990年(平成2年)頃
備 考:
名前の由来:  旧町名による
町名の由来: 神田川沿いに植えた柳の木が繁茂していたところから、「柳原」の名が起こった。

柳森神社由来 より
室町時代に 太田道灌が江戸城を築いた時、東北方向の「城郭鎮護鬼門除け」として 京都伏見稲荷を勧請してお祀りし、土堤一帯に柳の木を多数植えた。
それが繁茂していたところから「柳原(やないはら)」の名が起こり、稲荷社が
「柳森神社」となる起源となった。

柳森神社は、柳原通架道橋からすぐの所にある。

柳森神社


1884年(明治17年)測量の地図を見ると、神田川の北岸には民家があるが、南岸は「河原」状態で、そこに柳が茂っていたのかと想像される。 
どちらにも「河岸」の地名は書かれていない。

1907年(明治41年)調査の神田区全図には、萬世橋から左衛門橋にかけて神田川の南岸一帯が「柳原河岸」となっている。

「河岸」とは河川・湖・海に面した 荷物を上げ下ろしする場所を呼ぶ言葉で、橋の工事写真にも、佐久間河岸側に「薪炭」の文字が書かれた建物が写っており、積み下ろし用の桟橋もある。
 
『東京市街高架線 東京上野間建設概要/鉄道省』(1925年)より

また 柳原河岸以外にも、神社の南向かいが「柳町」、また付近には 小柳町・元柳原町、少し離れて日本橋区になるが、柳橋付近に 新柳町・元柳原町 などの
柳が付く地名が多数あった。

柳原通架道橋に続く 高架橋や隣の架道橋の名前にも使われている。

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