山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋
秋葉原 → 神田
タイトル地図については 脚注を参照
15. 鍋橋 架道橋
 2010.12.8 掲載
 2015.7.23 第6線の桁が移動された事を追加

ここも 斜めの道路の交差点間近に架かったガードだが、東松下橋架道橋とは違って、ぎりぎりのところで交差点とは係わっていない。

中央線を A部、山手・京浜線4線を B1・B2、旧東北本線部分を C部、新幹線をTX部、上野-東京ライン部分をTX2部 とする。

全 景(山手線の内側から)      2010.7.14.
左が「鍋橋架道橋」、右は中央通りに架かる「神田大通橋架道橋」。
桁の間を塞いだ 鉄板の錆が目立つ。

遠景(山手線の外側から神田駅を見る)2010.11.5.
ちょうど 架道橋の上で行き交う新幹線。神田駅部分の軌道は、ホームが3面あるために 両側に膨らんでいる。現在は 上野 - 東京ラインで二階建てとなっている。



A 部分  2線分
高架橋本体の竣工時期 : 1919年(大正8年)1月頃
現 中央線2線は 同年 3月1日開通

工事中の 鍋 橋 (手前)
『東京市街高架線東京万世橋間建設紀要/鉄道省 東京改良事務所/1920年』
東京方向を見ている。奥は中央通りに架かる「神田大通橋架道橋」。

三角形の形をした「第三鍛冶町高架橋」は、その形状の特殊性から4線分が一度に建設されたが、架道橋はまず中央線の2線だけが架けられた。写っている線路は工事用の仮設のもの。

立面図
↑黒門町橋高架橋           『 同 上 』 付属図面より


全 景 (山手線の内側から)

近 景(山手線の内側から)   2010.7.14.
建設当初と変わらぬ姿。道路と歩道のあいだに橋脚がある3経間。
道路は 西から東(山手線の内側から外側)への一方通行。

A部 の橋脚(神田駅方向を見ている) 2010.12.7.
第一線と第二線の間の柱には、架線柱が乗っている。
橋脚の長さが段違いになっており、第一線の桁のせいが大きいことがわかる。駅に向かう線形が開いているために少しだけスパンが長いためで、その違いは工事中の写真を よく 見るとわかる。奥に見える「第一鍛冶町高架橋」は柱梁形式で、店舗がはいっている。

A部 の橋脚(秋葉原方向を見ている) 2011.11.5.
桁の銘板(製作年)は「大正七年」。各桁2本ずつの橋脚同士は アーチ型をしたトラスでつながれている。すべて「リベット止め」。
奥に位置する「黒門町橋高架橋」はコンクリートアーチ(拱橋)であり、橋台には開口が無くてレンガタイル仕上げ。
照明器具の色で、実際よりも黄みがかかっている。

2010.7.14            秋葉原側の歩道            2010.12.7
桁の銘板を見たいところだが、かつて、歩道の上(銘板がある端の方) は天井のようなもので覆われていた。雨のしずく除けならまだわかるが、単なる化粧。よけいなお世話!であるが、現在は一時的に? 取り払われている。

橋脚の上に建つ 架線用の柱
3つの写真では それぞれ見ている方向が違うが、大正時代のオリジナルの柱がいまだに使われている様子を表したくて、上下に並べてみた。

前掲の「工事中の写真」では まだ立てられていない。 腕木を支える斜材は取り替えられたようだ。



B1 部 : 2線分
神田側の「橋台」は A部と同時期に施工
  関東大震災 1923年(大正12年)9月
  架道橋の竣工時期は 1924年(大正13年)6月
  山手線の開通は 1925年(大正14年)11月

B1部の橋脚(神田駅方向を見ている) 2010.12.7.
中央の2線が 第3線・第4線で、開通当時の電車線である。工事報告書である『東京市街高架線東京上野間建設概要』1825年(大正14年)によると、この電車線2線が先行して建設されたようだ。銘板の製作年が読み取りにくいが、「大正拾参年」のようだ。
神田側には 秋葉原側と違って、橋脚の間に架線柱がある。ナトリウムランプの色で、「第3鍛冶町橋高架橋」の橋台は橙色となっている。



B2 部 : 旧東北本線 2線分
架道橋の竣工時期は恐らく1924年(大正13年)12月
開通は B1と同じ、1925年(大正14年)11月と思われる

B2部の橋脚 (神田駅方向を見ている)  2012.12.7
A〜B2部まで すべて同じデザイン。施工時期も近い。たとえ同時施工でなくとも、橋脚同士をつなぐリベットは、後から 現場で施工が可能だ。

橋脚にある刻印 (凸) B2部(左)と B1部のつなぎ方
橋脚は 15"× 4" (約 38×10cm)の溝型鋼を2枚使ったもの。
3つの部分 共に 「SEITETSUSHO YAWATA ヤワタ」の刻印がある。

再塗装のためか、化粧天井が取り払われていくつかの銘板が現れたが、いずれも非常に読み取りにくい。

ところで、B2部 第6線の桁は位置が変わっている。桁は再利用。



C 部  
開通時期:1956年(昭和31年)11月
     新設されたのは 旧東北本線2線(当時)
新幹線工事のために 桁を撤去:
     1984年(昭和59年)〜89年の間

        東北線を併せて 8線の様子 1974年(昭和49年)
国土画像情報 CKT-74-15/C28A 国土交通省

元の 第7・第8線 の位置
第6線が乗っているため、2線分あった橋台のうち1線分は 残されている。それをよく見ると、騒音防止のためにバラストを載せる 閉床式「バックルプレート」の形が残っている。
しかし、この位置では現在の第6線の桁と近すぎる。つまり、第6線の桁は、新幹線の工事時に移動されたことになる。



トピックス : 直線だった東北本線

直線だった 第6線    1947年7月.

8線に増線された状態 1974年(昭和49年)
戦後の白黒写真とはスケールが異なる。この時点ですでに直線ではなくなっているかも知れない。

現在の様子       2015.7.20.
ホームが延長されたためか、幅が広げられたためか、線形が変わって第6線の架道橋は 位置 ・角度とも変えられた。

左に移設された 第6線の桁

第7線の橋台に乗っている 第6線の桁
第三期 増線工事 1956年(昭和31年)開通時に造られた、隣の橋台に乗っている。





TX 部  新幹線建設時期:1990年(平成2年)頃
       旧東北本線の撤去時期:1989年(昭和64年)頃
       新幹線 東京駅乗り入れ:1991年(平成3年)11月

遠 景 (山手線の外側から)

 
全 景 (山手線の外側)

 
近 景 (山手線の外側から)


位 置 (終戦後の様子)
1947年(昭和22年)の空中写真/国土地理院
   秋葉原駅     中央線  中央通り          神田駅

鍋橋 架道橋 データ



1万分の1地図/1921年(大正10年)修正
/国土地理院
位 置: 千代田区鍛冶町二丁目 - 鍛冶町三丁目
  東京駅より 1K 408M 80
管理番号:  11 (東北線)
道路名: 神田平成通り(一方通行)、旧 鍋橋通り
線路の数: 計8線(下記 A〜TX は仮の呼び名)
A : 2線: 中央線
B1:2線: 京浜東北線、山手線
B2:2線: 京浜東北線、山手線
C : もと 2線、その後に撤去
TX : 2線: 東北上越新幹線
 TX上部 : 上野 - 東京ライン2線
支 間: A: 23m 140 (3径間 )
空 頭: 高さ制限 4.0m
竣工年: A: 1919年(大正8年) 中央線開通
B1:1925年(大正14年) 山手線開通
B2: 旧東北本線、B1と 同時期
C: 1955年(昭和30年)頃増線
  1985年〜89年(昭和64年)の間に、
  新幹線工事で撤去
TX:1991年(平成3年)
         新幹線東京乗入れ
備 考: 竣工時の名称は「鍋橋」
名前の由来:  旧町名「鍋町」(なべちょう)に
 由来する。
町名の由来: 江戸時代、鍋や釜を作る 幕府の御用鋳物師(いもじ)を勤めていた、椎名山城の屋敷があったことから。
鍋町はほかに、刀剣金具師・印判師の御用職人や 武具・馬具職人も住んでおり、日用品の問屋も多かったという。
千代田区 町名由来板ガイド による
鍋 の由来:
「菜&魚(な)」を入れる「瓶(へ)」。
「鍋」のつくり「咼」は丸いものを指す。中国での鍋が金属製だったため、金偏となったが、日本語には「堝」もある。

タイトルの地図について : 地図サイズ 299×90
昭和5年(1930年)測図、 昭和31年(1956年)第2回修正測図
 1万分の1地図「日本橋」に加筆  地理調査所/国土地理院 発行

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