山手線 が 渡る橋 ・くぐる橋
田 町 → 品 川
− 架道橋 (ガード) ・跨線橋 − 1909(明治42)年測図/日本帝國陸地測量部/国土地理院

番外. 仮称 田町暗渠 (旧田町橋梁)
2022年2月 掲載

札の辻陸橋のすぐ南側。築堤時代には、旧田町四〜五丁目にあった河岸に通じる水路に架けられた第6橋梁があった。埋め立て後も水路が残り、そこに架かる橋梁は戦後まで残っていたが、現在は暗渠化されている。


部の二階建ての住居の下に、暗渠の開口がある。右は新芝浦運河に架かる藻塩橋。それに続く道が、写真中央奥の札ノ辻橋に続いている。

元 水路があった場所

線路の海側、右が札の辻橋のスロープ。
地下に幅3.1m、高さ2m、RC造の雨水暗渠が造られている。



暗渠 (橋梁) の歴史

1872(明治5)年6月12日(太陰暦5月7日):
           品川 - 横浜(桜木町)間 仮営業開始
1872(明治5)年10月14日:新橋(旧汐留) - 横浜(桜木町)間 開業

地図A 1879年(明治11)年:海上を走る東海道線

1878(明治11)年地理局地誌課測図 1879年校補『實測東京全圖』/ 人文社復刻 に加筆
本図は「実測」を謳っているが、不正確な部分がある
旧薩摩藩(現NEC本社ビルが旧薩摩藩上屋敷跡)や、軍備増強を優先すべきとする軍部、数多くあった寺社などに反対されて用地買収が難しかったこの地では、現在の芝浦1丁目(地図左上端)から初代品川駅間を築堤して、すべて海上を通した。が本暗渠のおよその位置。ただしこの地図には、海と河岸をつなぐ「水路」やそれに架かる橋梁は、まったく書かれていない。

1876(明治9)年12月:新橋-品川間 複線化
1885(明治18)年:日本鉄道品川線 品川 - 新宿 - 赤羽間 開通

地図B 1887年(明治20)年:

『東京五千分の壱実測図』/ 内務省地理局 / 大日本測量(株)資料調査部複製 に加筆
田町付近にふたつ、そして本橋梁もはっきり示されている。

1899(明治32)年:東海道線 3線化
港区教育委員会が作成した資料によると、この年に堤が拡幅されて3線化された。
1903(明治36)年:山手線 池袋 - 田端間 開通
山手線の複線化が順次行われる。
1906(明治39)年12月:田町駅 開業

地図C 1909(明治42)年:田町駅開業後

1909(明治42)年測図 1万分の1 三田 / 大日本帝国陸地測量部 / 国土地理院 に加筆
(点滅)が本暗渠の位置。田町駅の開業は、有楽町や東京駅よりも早い。カーソルを乗せると水面部分を表示するが、この地図にも線路を横切る水路が一切 示されていない。

1909(明治42)年12月:烏森仮停車場(現新橋)-品川間で電車運転開始
品川-浜松町間は、東海道本線と電車線で計4線となる。
(『「東工」90年のあゆみ』による )
1910(明治43)年:品川駅改良・貨物操車場新設工事 〜1921(大正10)年
1910(明治43)年6月:有楽町駅開業
1914(大正3)年12月:東京駅開業、新橋駅レンガ駅舎完成

地図D 1916(大正5)年:埋め立て後

1909(明治42)年測図 1916(大正5)年第一回修正測圖 三田 / 大日本帝国陸地測量部 / 国土地理院 に加筆
地図Cからの7年の間に広い範囲が埋め立てられた。いくつかの河岸(かし)は残されているものの 築堤はほぼ埋められ、海側の緩い傾斜の石垣はすべて姿を消した。役目を果たしたのは 約40年間だった。(仮称)田町河岸も縮小されたが、まだわずかに残っている。

.1918(大正7)年2月:田町 - 品川間の電車線 複々線化
.1919(大正8)年:山手線「の」の字運転
中野 →新宿-四谷-東京-品川-新宿-池袋-田端→ 上野

.1925(大正14)年3月:山手線の複々線化(電車と貨物の分離)が完了
.1925(大正14)年11月:山手線 環状運転開始

地図E 1928(昭和3)年:乗越線の建設後

1909(明治42)年測図 1928(昭和3)年第三回修正測圖 三田 / 大日本帝国陸地測量部 / 国土地理院 に加筆
山手線2線を乗り越す 跨線線路橋が建設されている。
札ノ辻交差点から広い道が伸び、跨線橋を架ける準備が行われている。札ノ辻橋が竣工するのは、5年後の1933(昭和8)年。
陸側の河岸はすべて埋められたが、雨水排水の役目もあっただろうから、橋梁はまだ残っているかもしれない。

空中写真F 1936(昭和11)年6月:運河の埋め立て後


 

1936(昭和11)年6月11日 撮影 / B29-C2-29 / 国土地理院 に加筆


地図Eから8年後。解像度が悪く、線路内の水路の状況がはっきりしない。札ノ辻橋ができており、橋から海側に下る道の脇には、まだ水路が残っている。南部では、操車場を拡大するためにそこに面した運河●●●が埋め立てられた。

1937(昭和12)年10月:品川客貨車操車場の新設工事開始
二年後に一部の使用が開始される。


ここから 戦後となる。

空中写真G 1947(昭和22)年:


 

1947(昭和22)年8月 / USA-M388-123 / 国土地理院 に加筆


水路はまだ残っていた。水路に桁が架けられているのが はっきりとわかる。海側(スロープの南側)にあった水路は、1944(昭和19)年までには暗渠化されていた。

空中写真H 1963(昭和38)年:


 

1963(昭和38)年6月26日 / MKT63-6-C11-20 / 国土地理院


山手・京浜東北線部分は 1956(昭和31)年までに暗渠化された。写真は解像度の良い 63年のもの。
この後、1966(昭和41)年までには全線が暗渠化された。



仮称 田町暗渠 データ
位 置: 港区芝浦四丁目
管理番号:  −
線路の数: 山手・京浜東北線 4線、
東海道線 2線、新幹線 4線
その他
竣工年:
仮営業開始
高輪築堤の水路として:
 1872(明治5)年6月12日
 その後雨水排水路となり、
 現在は暗渠化されている
仮称の由来:  当時の地名 田町 による




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