山手線 が 渡る橋 ・くぐる橋
田 町 → 品 川
- 架道橋 (ガード) ・跨線橋 - 1909(明治42)年測図/日本帝國陸地測量部/国土地理院

4. 高輪橋梁
2021年7月 掲載、2022年1月 全面改定
空頭(クリアランス)が小さいことで有名だった架道橋。高輪ゲートウェイ駅の新設に伴う再開発の成果のひとつとして、歩車道を分離した新しい東西連絡道路の整備が、ほぼ同じ位置で進んでいる。現在は歩行者専用の通路となっている。

ギリギリ
2011.10.4
フラッシュ
使用
ここの天井には無数の擦り傷がある。自分で車を運転して通ったこともあるが、「行灯」が付いたタクシーほどの高さはないので、こすらないことはわかっているのにスリル満点だった。
現在は歩行者(+降りて通行する自転車)専用。高輪側からこの位置までは仮設の地上通路に切替えられ、ここから先は今までの架道橋がそのまま使われている。


本ページは次のような構成となっており、長いページとなっている。
 1.架道橋の名称
 2.組積造 と コンクリート造
 3-1.橋梁(架道橋)の歴史 その1 第7橋梁
 3-2. 歴史 その2 新水路誕生
 ■ 新設水路の工事手順の推定
 3-3. 歴史 その3 乗越し線建設
 3-4. 歴史 その4 終戦まで
 4.石垣区間の建設時期の推定
 ■ 乗越し線の構造と石垣との関係
 ■ 下水道について
 ■ 認定された 道路 について
 5.コンクリート区間の建設時期の推定
 ■ 新設通路の工事手順の推定
 6.車両の通行時期の推定
 ■ 一部の石垣上部がなぜコンクリートなのか ?
 ■ なぜ 桁下2m以下の狭い通路なのか ?
 ■ 高輪側の石垣上部がコンクリートなのは ?
 7.T部 (東海道本線など) の歴史
 8.現在の様子 (2021年6月)
 9.将来の通路の計画
注) すべての地図・空中写真は、レイアウトの都合で方位を90度回転している。


 
1.架道橋の名称
まずは名称から。
現地には3つの名称が (公式に?)掲示されていた。

高輪側 旧線路の下 芝浦側 出口

2011.10.4
・高輪橋架道橋 (左右とも)
上に張られた横長の名称板。左側のものは架道橋の錆で汚れてしまっているが、同じもの。かなり古い時期と思われる。なぜ橋の名が架道橋の名前に含まれるのか? 初めて見たときには不可解な名称だと感じた。5K573M88 は東京駅からの距離を示す。
・高輪ガード (左下)
「架道橋」を 一般的な言葉「ガード」としたもの。しかし、高輪橋の「橋」がない。東海道線(22)の番号は、東京駅から数えて22番目の架道橋であることを示す。
1987(昭和62)年4月 国鉄民営化後に設置されたもの。
・高輪橋りょう (右下)
もともとは橋だったために用いられていた名称で、この名称によって、初めは橋梁で後になって道が通されたことが想像できる。
本ページでは、この元々の名称を採用した。


 
2.組積造 と コンクリート造

 ■ 注目ポイント その1 
建設の歴史を考えるうえで重要なのが、東西で異なるふたつの構造である。西側(高輪側、写真下側)の、長さで約4割が石による組積造、海側の約6割はコンクリート造となっており、その境目が通路の微妙な屈曲点となっている。
建設時期については、後の項で考察する。

写真C 石垣区間 と コンクリート区間

1963(昭和38)年6月26日 撮影 / MKT636-C12-19 / 国土地理院 に加筆
車道が通され、近年の状態になってからの写真に記入した。

工事のために、すでに石垣区間のほとんどや鉄桁は取り壊わされている。
高輪側 架道橋下






旧跨線橋
橋脚
2011.10.4
山手線外回りの架道橋。品川駅方向を見ており、壁の向こう側が水路。石垣上部がコンクリートになっていることについては、後で検討したい。
石垣部とコンクリート部の境目
 同 上
ページトップに掲載した写真と同じ位置で、通路は境目で屈曲している。天井は現場打ちコンクリートでフラット。空頭は ここで1.72m、出口付近では1.7m しかない。
ひとつ前の写真とは異なり、石垣は上端まで元のままで 高さ 約1.9 m。

■ ここで線路に呼称記号を付けておく。

1963(昭和38)年6月26日 撮影 / MKT636-C11-20 / 国土地理院 に加筆
  ・(点滅)は海上にあった築堤のおよその位置
  ・A区間には大きく3つの違う形態の架道橋があった
     A2はT部に移る前の東海道線の位置
  ・は A と C の境い目のおよその位置
  ・東側(写真上側)東海道線部分ではこの時 付替え工事の途上
  ・新幹線(車庫への引き上げ線路)も建設途上
   新幹線は 翌年の1964年、東京オリンピック開催年に開通

 ■ 注目ポイント その2
明治期に造られた築堤 (次項「 海上の鉄路」参照)は、2019年まで使われていた乗越線の位置(●●)にあった。その西側(写真下側)の膨らんだ敷地は旧乗越線の建設時に拡張された。
本架道橋A1部の西端1線部分(旧山手線内回り)は、乗越線の施工時に新たに造られたもので、橋台はコンクリート造となっている。


 
3 - 1.橋梁(架道橋)の歴史 その1 - 第七橋梁

高輪橋梁(本架道橋)は、1872(明治5)年の東海道線開通時に高輪築堤に造られた「第七橋梁」が埋め立てられた時、その代替え水路として新設されたものである。
2020年に発掘された高輪築堤と第七橋梁については、番外として次項に掲載するが、以下の歴史の記述は重複する。

1872(明治5)年6月12日(太陰暦5月7日):
           品川 - 横浜(桜木町)間 仮営業開始
1872(明治5)年10月14日:新橋(旧汐留) - 横浜(桜木町)間 開業
明治維新、明治改元 1868年からまる4年。よくもまあ造ったものである。

地図A 1879年(明治11)年:海上を走る東海道線

1878(明治11)年地理局地誌課測図 1879年校補『實測東京全圖』/ 人文社復刻 に加筆
本図は「実測」を謳っているが、不正確な部分がある
旧薩摩藩(現NEC本社ビルが旧薩摩藩上屋敷跡)や、軍備増強を優先すべきとする軍部、数多くあった寺社などに反対されて用地買収が難しかったこの地では、現在の芝浦1丁目(地図左上端)から初代品川駅間を築堤して、すべて海上を通した。が本架道橋のおよその位置。ただしこの地図には、海と河岸をつなぐ「水路」やそれに架かる橋梁は、まったく書かれていない。

1876(明治9)年12月:新橋-品川間 複線化
わずか4年後に複線化されているので、当初より複線分の土手が造られたものと思われる。
灰色の網掛け部は「推定事項」。以下同様。
1885(明治18)年:日本鉄道品川線 品川 - 赤羽間 開通

地図B 1887年(明治20)年:

『東京五千分の壱実測図』/ 内務省地理局 / 大日本測量(株)資料調査部複製 に加筆
田町付近には三つのの橋梁が示されているが、車町河岸には河岸側に凹みはあるものの、橋は書かれていない。しかし「河岸」は荷物の積み下ろしの場所なので、当然、小舟が出入りする水路があったはずだ。
そして今回の発掘で、車町河岸の橋梁の遺構が良好な状態で出現した。出現した水路の位置は車町河岸のほぼ中央で、まさに地図Bの▼の位置である。

1896(明治29)年4月:新銭座永楽町間 市街高架線建設開始


 
3-2.歴史 その2 - 新水路誕生

ここからが本項の高輪橋梁の話となるが、橋の歴史というよりも「水路・通路」の歴史である。

1899(明治32)年:東海道線 3線化
港区教育委員会が作成した資料によると、この年に堤が拡幅されて3線化された。
1903(明治36)年:山手線 池袋 - 田端間 開通
山手線の複線化が順次行われる。
1906(明治39)年12月:田町駅 開業

地図D 1907(明治40)年:田町駅誕生後

1907(明治40)年1月調査 東京市芝区全図 / 東京郵便局 に加筆
郵便局が発行した町名番地入りの地図で、が本架道橋の位置。1907年の調査となっているが、田町駅が記入されていない。それはともかくとして、橋梁は地図Bのうちの ふたつは載っているが、車町河岸に通じる水路▼は書かれていない。
橋梁の名称は、開通当時の新橋駅からの数。田町駅設置のために、第5(地図B参照)は埋め立てられているようだ。

地図E 1909(明治42)年:田町駅開業後

1909(明治42)年測図 1万分の1 三田 / 大日本帝国陸地測量部 / 国土地理院 に加筆
(点滅)が本橋梁の位置。田町駅の開業は、有楽町や東京駅よりも早い。カーソルを乗せると水面部分を表示するが、この地図にも線路を横切る水路が一切 示されていない。

1909(明治42)年12月:烏森仮停車場(現新橋)-品川間で電車運転開始
品川-浜松町間は、東海道本線と電車線で計4線となる。
(『「東工」90年のあゆみ』による )
発掘された第7橋梁橋台が3線分しかないので、4線目は海側を埋め立てて増やされたことになる。翌年に始まる操車場のための埋め立てが、先行して行われたものと考えられる。

1910(明治43)年:品川駅改良・貨物操車場新設工事 ~1921(大正10)年
1910(明治43)年6月:有楽町駅開業
1914(大正3)年12月:東京駅開業、新橋駅レンガ駅舎完成

地図F 1916(大正5)年:埋め立て後

1909(明治42)年測図 1916(大正5)年第一回修正測圖 三田 / 大日本帝国陸地測量部 / 国土地理院 に加筆
水路が付け替えられ、「二代目の水路 」が通された。
地図Eからの7年の間に広い範囲が埋め立てられた。いくつかの河岸(かし)は残されているものの 築堤はほぼ埋められ、海側の緩い傾斜の石垣はすべて姿を消した。役目を果たしたのは 約40年間だった。車町河岸では、既得権維持のために新水路が造られた。
まず工事中も既存水路を使えること、河岸東側の埋め立て部分を操車場(機関区)として効率的に利用できること、新水路の長さが短いことなどの条件から、北端の位置に付け替えられたと考えられる。
初代「高輪橋梁」は、
1909(明治42)年~1916(大正5)年の間
に造られたことになる。
そして当然ながら、全区間が石積みだったと思われる。
操車場はこの年、1916(大正5)年5月から一部使用を開始している。地図に示された線路の数は、橋梁から北では5線、南側は7線である。

 ■ 新設水路の工事手順 の推定
地図F-2 1916(大正5)年:埋め立て後 の部分拡大
 ・ 旧水路のおよその位置
 ・1899(明治32)年に旧築堤(推定位置点滅)が3線化
 ・1909(明治42)年12月には東海道本線と電車線で計4線
 ・東海道線の営業を続けながら新水路を建設
であるから、次のような手順が考えられる。
 ・旧築堤3線部分(西側)を使って営業
  東側(海側)を埋め立てて新水路に4線の橋を架け、計7線
    (1909年12月までに少なくとも1線新設)
 ・新しい4線「仮設線」に切り替えて営業
 ・旧築堤の一部を取り壊し、そこに新水路を設けて橋を架設
 ・新設水路の供用を開始し、旧水路は廃止・埋め立て
 ・旧築堤部を嵩上げして 線路を敷設
 ・全線 旧築堤部上部の「新設線路」を使用
 ・本橋梁以北の「仮設線」を撤去(1線は残っている)
   橋梁以南(上図では右側)の線路は操車場で使用
灰色の網掛け部はすべて「推定事項」。以下同様。
この結果、地図Fのような配線となった。
明治末に7線の桁が新設されたことになるが、鉄桁ならば、その部材の多くは輸入品だったはずだ。
■ 未確認事項
・水路の幅は以前の「第7橋梁」程度か?
   それとも 当初から水路+通路の合計幅があったか?
・現在の二分割された状態になっていたか?
□ 未確認事項についての考察:
 新水路の形態はいくつかのケースが考えられる。
  a. 広い水路が後から仕切られた
  b. 初めからふたつに分けられていて、初期は両方とも
    水路だった
  c. 当初は狭い水路ひとつで、後から増設された
小型舟による水運と牛車による陸運は、明治の初めに比べれば衰退していたと思われ、水深のことを考慮すると舟は大型化されていることはなく、新水路は以前の規模を超えることはなかっただろう。このため、
a. は可能性が低くなる。スパンが大きくなり、橋桁の構造強度も必要となり、その点からも考えにくい。
b. 新しい水路の長さは100m以上あり、線路幅しかなかった従来と比べて、出入りの船の交通整理が大変である。水路でのすれ違いも生じるとすれば、広い水路とした可能性がある。
その場合少なくとも当初の7線分は、上記の理由からも二分割だったろう。線路をくぐって出た先が操車場予定地と運河であるるため、「通路」を通す必要性は低い。
c. は可能性が無いわけではないが、3つの石垣にさほど「差異」は感じられなかった。ただ、増築工事に時間差がなければ、同じような仕上がりになろう。
ここでは結論を出さずに、後ほど検討したい。


 
3-3.歴史 その3 - 乗越し線建設

.1918(大正7)年2月:田町 - 品川間の電車線 複々線化
この間の山手・京浜電車を分離して、計6線 (A1部4線+A2 部2線)となった。海側が埋め立てられているので、いくらでも線路を増やすことができる。ただし、水路には橋を架ける(蓋をする)必要がある。

1963(昭和38)年6月26日 撮影 / MKT636-C11-20 / 国土地理院 に加筆

.1919(大正8)年:山手線「の」の字運転
中野 →新宿-四谷-東京-品川-新宿-池袋-田端→ 上野

地図G 1921年(大正10)年:埋め立てには変化 無し

1909(明治42)年測図 1921(大正10)年第二回修正測圖 三田 / 大日本帝国陸地測量部 / 国土地理院 に加筆
地図Fの5年後で、埋め立て地や市街地の状態にさほどの変化は無いが、水路を渡る操車場の線路の数が大幅に増えている。水路に蓋が架けられて、100mほどが暗闇となっている。

.1925(大正14)年3月:山手線の複々線化(電車と貨物の分離)が完了
.1925(大正14)年11月:山手線 環状運転開始

地図H 1925年(大正14)年:状況に変化 無し

1921(大正10)年第二回修正測圖 大正14年部分修正 / 三田 / 大日本帝国陸地測量部 / 国土地理院 に加筆
乗り越し線がまだできていないことを示すために掲載するが、地図Fとほとんど変わっていない。

地図I 1928(昭和3)年:乗越線の建設後

1909(明治42)年測図 1928(昭和3)年第三回修正測圖 三田 / 大日本帝国陸地測量部 / 国土地理院 に加筆
山手線2線を乗り越す 跨線線路橋Bが建設されている。このため、
1925(大正14)年から 1928(昭和3)年の4年間の間
に建設されたことになる。
田町駅以北での方向別運転のためだが、田町 - 田端間でそれが実現するのは、1956(昭和31)年である。
水路部分に変化は無いが車町河岸は大方が埋められ、荷上場としての機能が終わっているばかりでなく、すでに多くの建物が建っている。
海側では車両基地が拡大され(黄色の網掛け)、東京湾がさらに埋め立てられている(地図の南端)。

1928(昭和3)年12月:京浜電車が「京浜東北線」と改称
それまで桜木町-上野間だったものが、横浜-赤羽間となる。


 
3-4.歴史 その4 - 終戦まで

.1930(昭和5)年:雨水放水路 竣工
東京都下水道局中部下水道事務所に問い合わせたもの。
車町河岸が消滅したことによって、水運のための水路ではなく、雨水の放水路の役目を果たすことになった。

空中写真J 1936(昭和11)年6月:運河の埋め立て後


 

1936(昭和11)年6月11日 撮影 / B29-C2-29 / 国土地理院 に加筆


時間が経過して、地図Iから8年後。
操車場をさらに拡大するためにそこに面した運河●●●(点滅)が埋め立てられ、狭い放水路が残された。

.1937(昭和12)年7月20日付:東京市告示 「当該箇所を道路とする」
これは、港区土木課に教えてもらったもので、写真Jの約1年後に道路(通路)の存在が認められたことになる。
そもそも放水路となった水路に道路が併設されたのは、数年前に初代「札の辻陸橋」が架けられたものの、品川駅の南の「八ツ山橋」まで2キロ以上も東西の連絡道が無かったためである。

告示が出された道が人専用の通路で、車道ではなかったことは終戦後の写真で読み取れる。
写真Jよりもさらに架道橋部分を拡大している。
写真K 1948(昭和23)年3月

1948(昭和23)年3月米軍撮影 / USA-M829-50
写真K-2:水路西部(写真下部) 写真K-3:水路東部(写真上部)
西側(陸側)の水路は半分に仕切られた現在と同じ状態で、北側が通路、南側が放水路である。「車町河岸」は昭和の初めに埋め立てられ、雨水排水路としての狭い側溝となっていて、それを跨ぐ小さな橋があるが、車道はまだ無い (写真K-2)。

側溝となった旧車町河岸
2011.10.4
京浜東北線の最後部車両の下が 本架道橋。
右側の放水路
2010.2.11
上部に見えている桁を、山手線内回り電車が渡っていた。
その橋台がコンクリート製である理由は、京浜東北乗越線を建設する時に、西側の敷地を広げて1線増線したためである。


1937(昭和12)年10月:品川客貨車操車場の新設工事開始
二年後に操車場の一部の使用が開始される。
写真L 1944年:客貨車操車場
1944(昭和19)年の空中写真を見ると、操車場部分はおおかたできあがっている。戦時中は工事が進まず、全体の完成は終戦の年となった。 不明瞭だが、高輪側の架道橋は二分割となっていることがわかる。


 
4.石垣区間の建設時期の推定


1963(昭和38)年6月26日 撮影 / MKT636-C11-20 / 国土地理院 に加筆

2021年まで使われた石垣区間(A部)がいつ建設されたかを考えたい。 まず、主要な歴史を再確認。

1909(明治42)年 ~
   1916(大正5)年の間
 a. 新水路の建設 (7線)  地図F  4線+3線(操車場)
地図 E a. 地図 F 1916(大正5)年
新設された水路は、全区間が石積みだったと考えられる。
ところが、残っていた石垣区間はから西側である。

1918(大正7)年2月  b. 田町 - 品川間の電車線 複々線化  6線+操車場線(A3)
1923(大正12)年9月1日   関東大震災
1925(大正14)年 ~
   1928(昭和3)年の間
 c. 旧乗越線の建設、
   東京湾の埋め立て
 地図I  
1930(昭和5)年    雨水放水路 竣工  水道局のデータ
c. 地図 I 1928(昭和3)年 乗越線建設
車町河岸が埋め立てられて、舟の通行のための水路の役目は終わり、雨水排水路となる。水道局の台帳による放水路の完成年はこの2年後なので、
ほぼ地図Iの状態で「水路 → 放水路」とされた。
と考えられる。
操車場に多くの線路が敷かれた東端部の位置が。運河に接続する水路東側の幅は、地図Fと Iで変わりがない。しかし幅が広がったとしても、地図に反映されていないのかもしれない。
西側(地図下側)では、線路敷が1線分広げられた。これは、山手線内回りが乗越線をくぐる時に角度を付けるために、西側に膨らませたもの。

 ■ 乗越し線の構造と石垣との関係
旧乗越し線は品川側から築堤で始まり、水路には3径間の橋梁が架かっていた。
乗越し線 と 高輪橋梁
築堤部
2011.10.4
同上 同上

旧水路の高輪側        2010.12.11.
次に掲げる二枚の写真の右側(石垣の裏側)、旧水路部分。幅は通路部分とほぼ同じで、構造も同じである。
 2020.6.14 2011.10.4
旧線路が撤去された状態。乗越線のコンクリート橋台は石垣に挟まれている。 架道橋の西の端。乗越線の建設時に造られた旧山手線内回り橋台は、コンクリート造だった。
同 上
前掲左写真とは逆に 高輪方向を見ている。渡っている電車は外回り。

乗越線の橋脚・基礎

乗越線を取り壊し中の様子、グーグルマップに加筆
田町側(写真左側)に続く高架部分の橋脚は、12~16本の細いコンクリート杭を打ち込んだ「杭基礎」である。水路と通路に2径間の橋を架ければ済みそうなところを、田町側地上部に3つ目の橋脚 を設けている。その理由は、
既存の水路・通路部を生かすために、第一・第二橋脚はスリムなものとし、第三橋脚を十分な耐力を持つ杭基礎としたためではないだろうか。
これら いくつかの状況から、
乗越線の建設時には、通路部、水路部の石垣はすでに存在していたのは確実である。もし乗越線の建設時に改修や増設が行われたのなら、その部分はコンクリート造となったはずだから。
c. 地図 I 1928(昭和3)年 乗越線 再掲
石垣区間の建設時期が判明したわけではないが、この結果、
から東側(図では上側)の、当初石垣だったはずの水路部分は、後にコンクリートに改築されたことになり、その理由を考える必要がある。



 ■ 下水道 について
下水道局の配管図データ「1930(昭和5)年」を検討する。
東京市下水道局のホームページでは、埋設されている下水道管の図面「下水道台帳」を見ることができる。
「下水道台帳」 港区港南二丁目
西
青の破線が雨水管、茶色の実線▼は合流管の渋谷川幹線。
拡大すると場所ごとの諸データが表示される。雨水管は通路の南側に敷設されており、データの内容(青)は 「RC構造、幅5.4m×高さ4.25m、勾配は水平、管底の標高(東京湾平均海面) -1.998m」となっているが、の区間はひとつのデータしかなく、途中で分かれていない。
一方 渋谷川幹線は通路の下を通っており、同じく通路内はひとつのデータで、「構造不明、内径1.5m、水平、マンホール間の距離 231m、管底標高 -1.422m」となっており、雨水管よりも50cmほど高い位置にある。
ホームページには建設年は表示されないので、水道局に問い合わせたところ、
雨水管の建設が 1930(昭和5)年 であり、渋谷川幹線の建設年は不明で、1956(昭和31)年に拡張工事が行われている。
との回答を得た。

雨水管の建設年は石垣区間のものと思われる
写真J:運河の埋め立て後 1936(昭和11)年になっても、海側のコンクリート区間は建設されていない。
また、図面に記入されている雨水管のサイズ 幅5.4m×高さ4.25mは、石垣区間の通路部分とおおよそ同じで、二分割された水路側の寸法を指しているものと思われる。

このことから、1930(昭和5)年に竣工した雨水管は、通路西側で使われていた石垣区間ということになる。

なお、「第二東西連絡道路整備工事説明会」のために港区などが用意した資料に載っている現状の断面図から類推すると、コンクリート区間の放水渠のおよそのサイズは、幅4.2 × 高さ5.3mである(下図)。
1936(昭和11)年6月11日 撮影 / B7-C1-18 / 国土地理院 に加筆

『第二東西連絡道路整備工事説明会資料』に加筆。東から西側を見ている



 ■ 認定された 道路(通路) について

1928(昭和3)年 ~
   1930(昭和11)年の間に
 d. 運河の埋め立て  写真J  空中写真より
 1930(昭和5)年    雨水放水路 竣工  水道局のデータ
1937(昭和12)年7月20日付  「当該箇所を道路とする」  東京市告示
1928(昭和3)年の埋め立て前の状態を示す 写真J:埋め立て後 1936(昭和11)年
1936(昭和11)年6月11日 撮影 / B7-C1-18 / 国土地理院 に加筆
解像度が悪いが埋め立て後の写真Jを利用する。
昭和3年以降、操車場を拡張するために、さらに運河が埋め立てられた。
左写真には埋め立てられる前の運河と水路を示し、右側が埋め立て後の姿である。旧運河と旧水路の北側の壁面線がずれていたため、雨水の放水路は途中で斜めになっている(右写真、残された旧運河の部分)。
遅くとも 1928(昭和3)年までに車町河岸は埋め立てられ、舟は通らなくなって、1930(昭和5)年に雨水排水路としての整備が完了した。現状から割り出した、残っていた石垣区間を記入した。
道路として認定されたのが写真Jの翌年であるから、少なくとも工事は行われていただろう。これ以前にできていた可能性もある。

■1937(昭和12)年7月20日 告示時点の道路の推定
埋め立て前の運河状態 写真J:1936(昭和11)年6月
解像度が悪く写真に傷もあるが、操車場の予定地には複数の道が見て取れる。
「残された旧水路」は、二分割されていないような気がする。


 
5.コンクリート区間の建設時期の推定

本架道橋は東西で建設時期が異なるが、後から造られたコンクリートの通路は、いつ造られたのか?
筆者の推定は、写真Jの翌年、 1937(昭和12)年10月から始まる品川客貨車操車場の新設工事に伴うもの、であり、戦前に作られたと考える。
数少ない戦前の空中写真 1944(昭和19)年の空中写真を見ると、操車場はおおかたできあがっているが、東側に通路出口があるかどうかは はっきりしない。不明瞭だが、高輪側が二分割となっていることは確認できる。
戦時中は工事が進まず、全体の完成は終戦の年となった。
写真K 1944年:客貨車操車場
写真Jに残っている水路や放水路に、蓋をするだけでは通路をが無くなってしまう。
戦後すぐの空中写真に、海側の通路出口が写っているので、終戦前には現在の形になっていたと考えられる。
写真L:水路東部
1948(昭和23)年3月米軍撮影 / USA-M829-50



 ■ 新設通路の工事手順 の推定
駅の移設や架道橋の更新などでは、営業を止めることなく工事を進める工夫がなされる。水路の付け替えの場合も同様で、現状を生かしながら新設するか、仮設の水路が必要となる。

工事開始の状態 ① 放水渠の新設
「残された旧水路」を利用しなかったのは、それが2分割されていなかったためだろう。 新設放水渠は、から東側に残る水路をを目指したために、ここで屈曲することになった。
② 旧水路の廃止 ③ 通路の新設

区の資料による区道の構造からもこの手順が推定できる。
まず放水渠①を先行して建設し、その肩に乗せる形で通路部③の天井を現場打ちコンクリートで造ったと考えられる。

『第二東西連絡道路整備工事説明会資料』に加筆。東から西側を見ている

印、コンクリート区間のスタート地点
2021.6.10
左がコンクリート区間、右が石垣区間。中央(矢印)に放水渠の開口部が見える。その後方は、仮設あるいは本設の排水溝。なお、ガードマンが立っている部分のコンクリート版 約2mは、取り外されている。
今後 旧放水渠の一部が仮設歩道として使われるので、内部を撮影することができよう。

新設工事中の下水管     2020.1.15.
左の四角いボックスが雨水幹線、左の丸いのは合流管の渋谷幹線と思われる。太い方は直径2m。
2022.2.19
本設の雨水幹線はここでほぼ直角に曲がって、南方向に向けられた。


 
6.車両の通行時期 の推定

1956(昭和31)年4月から 1963(昭和38)年5月までの間に開通した。
1956(昭和31)年:通路下の下水管「渋谷川幹線」拡張工事
都下水道局のデータによる。
1956(昭和31)年3月撮影の 空中写真Mでは、開通していない
1963(昭和38)年6月撮影の 空中写真Nでは、開通している

写真L 1948年:水路東部
1948(昭和23)年3月米軍撮影 / USA-M829-50
空中写真M 1956(昭和31)年3月 空中写真N 1963(昭和38)年6月

USA-M324-417 / 米軍撮影 / 国土地理院 に加筆

MKT636-C11-20 / 国土地理院 に加筆
写真Mでは、高輪側(写真下側)には道ができつつあるようだが、架道橋の海側端部は写真Lと変わっていない。写真Nでは両側とも、道路の開通がはっきりとわかる。このため、
1957(昭和32)年または1958(昭和33)年の可能性が高い。
その理由は、操車場A2部の桁(通路の天井部)が、RCのT形桁に架け替えられているため。

1963(昭和38)年6月26日 撮影 / MKT636-C11-20 / 国土地理院 に加筆

旧A2部分のコンクリート桁        すべて2011.10.4.
左が海側。幅広の2本の桁で構成される(恐らく)プレキャストコンクリート製の桁が、(高輪側では)通路・水路に別々に架けられていた。当初は桁と桁の間は空いていたが、後に金属製のカバーが設けられた。サイドからは明かりが漏れている。
水路側 桁の製造年
水路側は、前掲写真右の隙間から撮ったもの。水路の南側(品川側)も同質の石垣で造られている。
このコンクリート桁の製作あるいは工事施工年、1957年10月のすぐ後に、道路が開通したものと考えられる。



 ■ なぜ、桁下2m以下の狭い通路となったのか?










 推定事項:
人専用の道だったものを、無理やり車道としたため。
コンクリート区間の躯体は戦前に造られたものであり、亀裂の発生や防水の劣化が考えられる。
放水渠は海と切り離されている可能性もあるが、道路レベルはほぼ海抜0メートルで、道路レベルを低くすると、満潮時や高潮時に放水渠から浸水する危険がある。また豪雨時には道路よりも雨水レベルが確実に高くなる。下図参照。
通路部下には下水管「渋谷川幹線」がある。
■ 以上から、道路レベルを下げられなかった。


『第二東西連絡道路整備工事説明会資料』に加筆



 ■ 高輪側の一部の石垣上部は なぜコンクリートなのか

推定:車道にする時に桁がリフトアップされた。

A1部分:高輪側 架道橋下 再掲






跨線橋
橋脚
2011.10.4
壁の向こう側が水路。架道橋部分の石垣の上部3段分がコンクリートになっている。
Iビームによる鉄桁で、成を抑えるために6主桁としている。2主桁を基本として多くても4主桁までであるため、6主桁は非常に珍しかったが、今は無い。

石垣 6段 石垣 5.5段
左:石垣区間の最も海側では 石垣は6段ある。
右:陸側の架道橋下では道路レベルが高くなっていて、
  5段半しかない(上部はコンクリート)

元は、鉄桁を載せるために最上段が一段(上右の点線)、あるいは数段分が階段状になっていて桁下が小さかったと思われる。

 段差が嵩上げされた例 (水路部分の再掲)
2011.10.4
すぐ隣の水路部分には、石3個分の段差があった。ただし、この位置で架道橋が嵩上げされていたわけではない。

架道橋の田町側に勾配区間
2010.12.5
部分拡大
かつての架道橋の北側すぐの所に「勾配標」があり、田町駅に向けて 6.1‰の下り勾配となっていた。ここは埋立地で本来は水平の区間のはずなのに、架道橋部分が高かったことになる。

以上より、桁下を大きくして車両が通行できるようにするために、桁の嵩上げが行われたと考えられる。鉄桁はそのまま使われたものだろう。


 
 7.(T部) 東海道本線など の歴史
撮影
1963年

当初はA1部分に築堤として造られ、単線→複線→3線、埋め立て後に複々線(汽車線と電車線)と増えていった。

1918(大正7)年2月:田町 - 品川間の電車線 複々線化
この間の山手・京浜電車を分離して、電車線複々線(A1)と東海道本線(A2部分、写真の線路はのちに敷かれたもの)の計6線となった。
その後さらに埋め立てが進み、貨物線の線数が増えていく。

1937(昭和12)年10月:品川客貨車操車場の新設工事開始
二年後に一部の使用が開始される。

写真L 1944年(昭和19)年11月:広範囲のもの

8922-C5-85 / 国土地理院 に加筆
1944(昭和19)年の空中写真を見ると、本架道橋では操車場の最も東側(海側印)に4線があり、東海道と貨物線と考えられる。また品川駅を見ると、東側(写真では上側)に東海道線ホームができている。このため、
本架道橋T部で、すでに使われていたと考えられる。
駅の東側にはまだ運河が残っており、陸揚げした荷物を積み込むために、その両側に貨物線が敷かれている。ここもやがて埋め立てられる。

1961(昭和36)年 または 62(昭和37)年:新しい架道橋の架設
空中写真N 1963(昭和38)年6月の部分拡大

1963(昭和38)年6月26日撮影 / MKT636-C11-20 / 国土地理院 に加筆
東京オリンピックを目指して新幹線が建設され、品川駅東側にその東京運転所(新幹線の車庫)が造られた。
解像度が低いものを拡大したため画像が荒れているが、東側に水路が残っており、そこに工事中の桁が掛かっていることがわかる。桁の数は2線。架道橋のすぐ南側(写真右側)に、付け替える予定の線路が蛇行している。
海側の敷地ギリギリに貨物線を移して、新幹線の用地を確保した。敷地を買い増したのかもしれないが、詳細は不明。

架道橋東側(一方通行出口)
2011.10.4
2021年現在は歩行者専用で車は通れない。下が旧貨物線で、新幹線品川駅開業時にその上に新たな線路(下り線)が通され、2階建ての状態となった。旧線路部はメンテナンス通路として使われているようだ。新しい東西連絡道路はふたたびここに造られるため、この桁は撤去されるかもしれない。
架道橋東側(一方通行出口)










放水渠
東端部
南方向を見ている。旧架道橋はもっと短くてもよかったように思えるが、右下に見えるのが道路の南側に並行している雨水放水渠の端部で、これを跨ぐために長くせざるをえなかったため。
放水渠東端部 と 架道橋





東側の桁



西側の桁





雨水
放水路
  端部
2021.6.10
南方向を見ている。トラフガータの架道橋は、ここでも成(高さ)を抑えるために3主桁とされている。リベット止めである。中央部は後から取り付けられた塞ぎ板。
銘 板
上から、日本国有鉄道、桁の製作年:1961(昭和36)年、KS-18 U812-1、中略、製作は 川田工業 株式会社。
記号の意味は、KS-18:構造計算用の基準、U:トラフガーダ、8:KS-18 の 8、12:支間12m、- 1:2線のうちの1線目。
田町側(北側)の橋台
写真左:2線目の桁。左下は現在も使用中の通路で、奥の虎縞模様がコンクリート区間の端部。
写真右:1線目。ただしスロープ部分の空頭確保のために、3主桁のうちの右端1本は取り外されている(部分)。


写真O 1966(昭和41)年:新幹線開通後

1966(昭和41)年11月4日撮影 / MKT666X-C8-15 / 国土地理院 に加筆
新幹線の高架橋を挟んで、海側に貨物線陸側に東海道線(ともに2線)となった。

1973(昭和48)年:新幹線大井基地開設
2003(平成5)年10月:新幹線品川駅 開業

空中写真P 2004(平成16)年:新幹線品川駅開業後

2004(平成16)年10月15日撮影 / CKT20041X-C1-1 / 国土地理院 に加筆
東京運転所だったところには何棟ものオフィスビルが建てられて、インターシティとなっている。


 
8.現在の様子
新しい道路(第二東西連絡道路)の工事に伴って車は通行できなくなっている。2021年6月の様子を示す。

工事期間中の仮設通路

現地に掲示されている看板の図に加筆
2021年6月以降は、おおよそ 赤のルートとなっている。

① 高輪大木戸跡の入り口
右写真は 振り返って西を見たもの。見えているのが大木戸跡。自転車は降りて通行。
② クリアパネル越しに見えていた築堤跡      2021.6.10.
できあがる公園内に保存されるのは ほんの一部で、すでにすべて埋め戻されてしまった。
③ 新乗越し線が間近に
突き当りを右に曲がって南へ。コンクリート造の 新乗越し線や山手線を間近に見ることができる。右写真は北を見ている。
④ 旧通路への仮設階段
仮設といっても、新歩道の完成予定は2026年なので、まだ当分の間利用される。

階段は、石垣区間とコンクリート区間のちょうど境目、地図や写真で示したの位置にある。左奥に 高輪ゲートウェイ駅。


 
9.通路の計画
新しい道路(第二東西連絡道路)の計画と、それに伴う2021年の様子を示す。以下に示す図は、2019年11月に行われた工事説明会資料(港区・東京都・都市再生機構)と、現地に掲示されている看板の図に加筆したもの。

品川開発プロジェクトの4つの街区
東日本旅客鉄道が行っている大規模プロジェクトで、築堤は2街区と3街区で現地保存される。黄色の網を掛けたのが「第二東西連絡道路」。なお、第一連絡道は高輪駅の南側に計画されているようだ。
平面図 と 縦断面図
平面図で青の色が薄い部分は、新線整備時にすでに施工済みの区間。断面図はトンネル部の拡大。

A部 高輪側地上部 E部 芝浦側地上部
トンネルから地上へのスロープ部分。

C部 在来線下 D部 新幹線下
Dの新幹線下がほかより狭いのは、既存の杭の間を通すという制約のため。(資料の通路の高さと幅の比率がおかしく、寸法からすると正方形となる。)

B部の工事の様子           2021.6.10.
左写真:使わなくなるはずの旧区道内で何かの作業をしている。
右写真:赤い鉄骨(切梁)部は掘削中だが、トンネルへの斜路とは違う位置で、新放水路を設置するための掘削。



C部 在来線・貨物線下の現状
連絡道路の工事手順
歩道の完成予定は 2026(令和8)年、車道の完成予定は 2031(令和13)年である。


高輪橋梁 データ
位 置: 港区芝浦四丁目、港南二丁目
管理番号: 東海道 22
道の名称: 高輪橋架道橋下区道
 第二東西連絡道を建設中
線路の数: 山手線・京浜東北線4線、
上野東京ライン2線、
東海道新幹線2線、他に貨物線多数
旧道路幅: 約5m
(歩道部 約1.8m、車道部 約2.8m)
空 頭: 制限高さ:1.5m、最小実寸 1.7m
竣工年: 本文参照のこと
名前の由来:  架橋当時の地名 高輪 による
地名の由来:
高輪:港区のホームページによれば、戦国時代からの地名で元は「高縄」。これは「高縄手道」の略で、縄手道すなわち真っ直ぐな道がある高台のこと。現在の「二本榎通り」がこれにあたる。ただしほかにも説があるとのこと。
車町:同じく「高輪地区の旧町名」「港区ゆかりの人物データベース+、浮世絵散歩」によると、芝車町は江戸初期に石材などの運搬のために京都から牛車運搬業者が召し寄せられ、御用のあとも帰郷できずにいたところ、家光の意向でこの地を与えられて船荷を運ぶ仕事に就き、牛車町が略されて「車町」となったもの。牛小屋がたくさん並んでいたために「牛町(うしまち)」と通称されていた。
高輪 うしまち
『名所江戸百景』
 歌川広重
1856~1858(安政5)年

Wikipedia より
 元図は
 Online Collection of
  Brooklyn Museum
目の前の海岸線に車町河岸が造られた。沖合に見える平らな灰色のものは台場である。これはペリー来航後に急遽造られたもので、完成は1954(嘉永7)年。
台場と牛車で「高輪牛町」を表している。
車町河岸:東海道線の築堤時に、牛車運搬業者の荷揚げのための河岸が造られたもの。

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