谷端川 の跡を歩く
文京区 4 小石川五丁目
タイトル地図:1921年(大正10年)1万分の1
  /大日本帝国陸地測量部/国土地理院

氷川橋 から 久堅橋 まで

撮影は 2012年 1~2月

氷 川 橋
                  湯立坂の通りへ            2012.1.4
正面が氷川橋があった場所で、湯立坂を下りきった所に架かっていた。 突き当たりの茶色いマンションは、旧谷端川の真上に建っている。 
湯立坂に沿って窪町東公園が作られており、(写真外右手) 写っているのはその延長にある児童遊園地。

千川通り と 遠くに網干坂 信号の奥が湯立坂
←  →
左    右
昔の橋の位置付近に大きな穴を開けて、下水管の取り替え工事が行われている。 右側の写真で、鉄の蓋がしてある大きな四角い開口がそれである。
 内径 1.8 mの太い下水管だが、取り替えといっても
 新設した後で切り替えるのだろう。

下流側
なお 千川下水幹線(3m39 w× 2m69 h)と 雨水用の第二千川幹線(径 3.6m)は千川通りを通っている。

特記無き地図は 1921年(大正10年)発行
湯立坂 と 氷川
この名称は 『復元江戸情報地図』(1994)/朝日新聞社 による。 同書によると、この場所では1856年(安政3年)の絵図を復元している。 ところが、1857年(安政4年)改訂発行の『小石川絵図』には 橋はあるが 名は無い。

「湯立橋」でもおかしくないのだが、対岸の崖の上に 氷川社(現在名 簸川社)があって、ここがまさに氷川下であり、「氷川橋」と名付けられるのは必然である。 

マンションが建ったり、帽子会社横の川跡が整理されたのはもちろん戦後の事で、終戦時の空中写真には はっきりと川跡が残っている。

  カーソルを乗せると川が表示される。
1947年8月8日撮影/国土地理院
上の地図とほぼ同じスケールとしたが、千川通りの角度が違って見える。 空中写真が最端部であるため、ゆがんでいるのだろう。
現在の道はさらに広げられている。

川の右側の景色 湯 立 坂



千川通りからは見にくい。 湯立(ゆだて)とは神事のひとつで、神前で湯を沸かし、神主や巫女が熱湯に笹の葉を浸して、自分の身や参詣者に振りかけるものである。 現在、笹の葉を振って行う「お祓い」の、本来の形だう。 現在でも 千葉県館山市の厳島神社では、毎年1月に「湯立神事」が行われている。

文京区教育委員会は坂名の由来として、『御府内備考』(1829年、文政12年編)の記載をあげている。
里人の説に 往古はこの坂の下は大河の入江にて 氷川の明神へは河を隔てゝ渡る事を得ず。 故に此所の氏子とも 此所にて湯花を奉りしより 坂の名となれり。
「里人の説」とあるように、御府内備考も信頼できる説とはしていない。

そもそも 川向こうに氷川(簸川)神社が移ったのは、白山御殿が造営された17世紀中頃から末のことである。 たとえ小石川植物園内にあった時期まで遡っても、坂下は「小石川」であり、入り江などではなかったし そこには橋も架けられていた。
「白鳥池」といわれていた 大きな遊水池があったのはずっと下流の平川に関係する所であるし、縄文時代の海進期でも、「海となったのは標高4mぐらいまで」が定説なので、さらに南側となる。 「大河の入江」状態になるとすれば、大雨・大洪水の時だろう。

いわれはともかくとして、風雅な名前である事は確かだ。

長く緩やかな坂で、勾配は急な所でも 4度弱。

   湯立坂 ゆたてざか
通常の地図とはスケールが異なる。 

この坂自体 自然の地形ではなく、切り通しで人工的に作られたものだろう。
1921年当時は坂上で道が曲がっていた。


     旧 磯野家住宅 (湯立坂の上の方)
銅板葺きの母屋と尾州檜の表門が 国の重要文化財となっている。 竣工は1912年(大正元年)。 実業家の磯野 敬(1868-1925)が建設したもので、明治大正期の木造建築として貴重なものである。

旧 磯野家住宅


仮称 坂 下 橋
(仮称)坂下橋があった場所。 突き当たったマンションの裏側から 上流方向を見返している。 左側はすぐ崖になっているため、現在は迂回している道の状態から坂となっている。 昔の川は、堀割で低い位置を流れていたと思われる。
(仮称) 坂下橋
本来「坂下」の名がふさわしいのはひとつ前の氷川橋の位置だが、すぐ隣の小さな橋に使用する。


久 御 橋
ちょうど曲がり角が空き地となっているので 見通しがきいて判りやすい。
仮称で「S字橋」としていたが、『旧谷端川の橋の跡を探る』(1999)にこの名があった。 明治初期の地図では谷端川の流域は 「田んぼ」で、道はなかった。 明治末の地図では市街化が進んでおり、この橋から南に向かう道 「中通り」ができているが、暗渠化時に多少区画が変わって現在とは異なっている。 橋を渡った後は斜めに千川通り方向へ。 

久御橋
由来は川の流れる久竪町と、植物園一帯の白山御殿町を結ぶ橋。 
千川通りが通される前は、川が左右の町境だった可能性があり、図では橋の上部が久竪町、下部が御殿町となる。 しかし、この一帯すべてがその条件にあてはまる。


川の右側の景色 L字階段
付近では珍しい 階段。 川の右側で 部分的に崖が迫っている所があり、L型の階段となっている。 できた時期は、上の道ができたときなので、近年のようだ。


  階段の角度は緩やかで 18.5 度。

L字階段


仮称 染 物 橋
 ↑ 内田染工場
内田染工場
川上を振り返って見ている。 
工場からもうもうと上がる湯気、染料の臭いも少し。 株式会社内田染工場の創業は1909年(明治42年)、小石川の地で百年以上の歴史を刻んでいる。

染め物工場は水を大量に使い 排水するため、川沿いの土地に作られた。付近にはほかにも何軒かの染め物工場があったそうだ。 現在は「縫製済み」の衣料を 染色・脱色するという特殊な技術で、操業を続けている。

(仮称)染物橋
命名の根拠は明治末から大正にかけて、付近に染め物工場ができ、そのうちの一社は現在もこの地で操業しているところから。


川の右側の風景 仮称 新久堅坂
旧 久堅(ひさかた)町


手前の交差点名は 白山三丁目。
坂の角度は 約6.5 度。
久堅町の名が江戸時代からあったのかどうかはわかっていないが、1887年(明治20年)の地図には載っている。
「久堅・久方」とは 枕詞の「ひさかたの」から、天・空(そら)・日・月・雲 などの事を言うが、本来 「ひさかたの」は あめ(天)・あま(天)・そら(空)にかかる。 天を永遠に堅固なものにする、極めて遠いものである、と考えて修飾したものといわれている。 町の発展を願って名付けたものと考えてよいだろう。

(仮称) 新久堅坂
この坂は戦後の区画整理時に通されたもので、空中写真の変化によると 1948年(昭和23年)から、1956年(昭和31年)の間に整備された。 空中写真撮影の間隔が長いために施工年を絞り込むのは難しい。

旧久堅町は範囲が広く、播磨坂下の橋名が久堅橋である。 ここの坂下に立つ「久堅自治会」の掲示板、坂の途中には「区立久堅児童館」などが残っているので、久堅町に新しくできた坂 「新久堅坂」とした。


仮称 学 校 橋
未確定だが、(仮称)学校橋 があったと思われる場所。
   ↑小石川消防署 (もと御殿町尋常小学校)

東京市御殿町尋常小学校
1912年(明治45年)4月、この地に「東京市御殿町尋常小学校」が設立された。 校舎はコの字形の木造2階建てで、開校当時の児童数
1,446名、25学級、教員数26名であった。  中略
1937年(昭和12年)3月、近所からの出火により校舎を全焼。 付近の小学校などで分散授業。 10月に 元の「跡見女学校」を改修した仮校舎に移転。 戦争激化により本校舎建設にいたらず、終戦間もない 1946年(昭和21年)3月廃校。

上記は 文京区教育委員会による説明板の内容を要約したもので、平面図も説明板から。 図は右の地図と向きを合わた。 左下が北方向となる。

正門は左下で植物園に面した道にあり、昇降口がもうひとつあった。 敷地の周囲はまったく余地がない。

右上のえぐれた所を川が流れていたが、そこに「門」があるので、川と学校の間には道 あるいは通行可能な路地があったと思われる。

図には書かれていないが、橋があった道(図の上方)は 学校の敷地なりに斜めで、現在の「路地」よりも斜めになっている。
戦後に区画が整理されたためだろう。 学校ができる前は、なにかの工場だった。

(仮称) 学校橋
川の蛇行の関係から、ここでは現在の道路の右端付近に橋があったものと考えている。

ちょっと気になる、古いコンクリート
路地と道路の境

           古い家々 (川の左側)
← 
左 
消防署は近いが、細い路地に木造の家。
地震よりも火事が心配だ。

文京区は植物園沿いの道を広げて、再開発
をねらっているのかも知れない。


御 殿 橋
位置は未確定だが、御殿橋 があったと思われる場所。
川が「くの字」に曲がっていたので、道の左端 ないしは少し左に入った所にあったのではないかと考えている。 正面奥は 共同印刷。 このため付近には製本所・印刷所などの小さな工場が多い。 通りの別名が「共同印刷通り」である。

御殿橋
白山御殿町の町名が 植物園からはみ出さんばかりの位置にあることから、御殿町は川までの範囲だったと想像できる。
小石川植物園
← 
左 
川と植物園が再接近していた場所で、
約60 m。

園内に小石川台地の崖線が続き、
大木も生えている。

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