谷端川 の跡を歩く
豊島区 南大塚 その3
タイトル地図 :
1921年(大正10年)1万分の1
  /大日本帝国陸地測量部/国土地理院


撮影は おもに 2011.12.6 特記無き地図は 1921年(大正10年)発行

松 浦 橋
場所は ふたつ目の T 字路。 下記の碑があるので仮称として ちよ橋 としていたが、『旧谷端川の橋の跡を探る』(1999)によって判明した。
川の右側にはずれた位置に道路が通っていた。 右側に植栽がある所が「南大塚一丁目児童遊園」で、丸山ちよ を顕彰する碑が置かれている。

丸山ちよの碑 (川の右側の景色)


この街で おおくの子らの
母であった 丸山ちよ先生
         灘尾弘吉 書

灘尾弘吉(1899-1994)は長く文部大臣を勤め衆議院議長であった自民党の政治家。 社会福祉事業にも力を入れた。

碑の建立は1969年(昭和44年)6月
丸山ちよは日本の保育事業福祉事業に貢献した人。 1913年(大正2年)に日本女子大学の同窓会桜楓会が、小石川久竪町に設立した託児所の園長となる。 15年(同4年)にこのすぐ南の地に移り、1928年(昭和3年)に「西窓学園」と改称する。 空襲で焼けるまで、地域の子供や母親たち、聾唖の婦人たちのために心身を献げた。

松浦橋


分譲住宅地
1921年(大正10年)の地図では、次に架かる橋は文京区となる。 
1929年(昭和4年)までに、新しく区界にできた橋「宮原橋」を取り上げる前に、付近でこのころ始まった住宅地の分譲の様子を見てみたい。

右の地図は前掲の(仮称)ちよ橋 と同じであるが、黄色の円内 に新しい道路ができている。 松浦邸の敷地だったために、松浦分譲地と呼ばれた。

大正にはいって東京の人口が増え、山の手が住宅地として注目され、特に 1923年(大正12年)9月の関東大震災以降は、旧大名屋敷 ・畑地 ・原っぱなどが次々に住宅地として分譲された。

郊外の例としては1918年(大正7年)に発足した「田園都市会社」が、22年(同11年)に荏原郡の洗足池や大岡山・(田園)調布村などで宅地開発を始めている。 豊島区駒込の「大和村(後に大和郷)」の募集開始も同じ 1922年である。

以下に さらに広い範囲で、1916年から1929年の変化を示す。

松浦橋 と 分譲地

1916年(大正5年) 1921年(大正10年) 1929年(昭和4年)


北   山手線  谷端川    大塚駅前通り 10年ちょっとで 大変な変わりようだ。

参考 : 旧岩崎邸跡地、大和村分譲地 (スケールと方位は上図と異なる) 
1916年(大正5年) 1921年(大正10年) 1929年(昭和4年)

↑巣鴨駅       中山道    駒込駅↑


松浦分譲地では、(仮称)ちよ橋を渡ってアプローチする川側からの道だけでは不便なことと、防災上も袋小路となるので、台地を削って中山道側に坂道 を設けた。 旧谷端川に直接通じる坂ではない。

(仮称) 松浦坂
この時点での分譲は 下だけだが、1929年(昭和4年)までに「階段道」が追加されて、上の段も分譲された。

(仮称) 松 浦 坂  川の左側の風景
地図から類推すると、最初は下段の「石垣」だけで道が作られ、上段の「大谷石積み」で敷地造成されたのは後年のようだ。 
高低差は写真の右側で約 5. 5m。 階段の角度は 約 24度。



宮 原 橋
橋を渡る人。
交差点から 左側を見る 交差点から 右側を見る
←    →
左      右
坂の名前は「宮坂」。 都道436号(小石川-西巣鴨線、通称 共同印刷通り)が間近。 交差点名は なし。
区境いに広い道を作り「宮原橋」ができた。 ( 『東京府北豊島郡 巣鴨町・西巣鴨町 全図』(豊島区立郷土資料館 複製)によると、「官原橋」となっていた)。 当時の地名は 小石川区側は「丸山町」、巣鴨町側が「宮下」であった。 由来は不明だが、巣鴨町側の「宮下」と 小石川区の少し離れた場所にあった、「大原町」「西原町」(さらに離れた場所に「原町」)などの「原」を取ったものかもしれない。

この地は 江戸時代後期、1801年(享和元年) 『巣鴨村絵図』では平岡美濃守、1854年(嘉永7年)『巣鴨邊絵図』では平岡石見守の下屋敷であった。 直前まで地形のままの大きな池が残っていたが、ゆるやかな段々に造成されて、鴻池信託が分譲する邸宅地となった。

       宮原橋 1929年(昭和4年)
1921年(大正10年)
旧小石川区が そのまま文京区境となった

鴻池信託分譲地 と 宮坂
邸宅地と表現したのは、分譲時のひと区画が およそ 25m×50m、約380坪と広かったためである。 現在は細分化されている所が多いが、「さいとう坂」の建売り住宅のようには なっていない。 
大きな区画が残っている例
付近の人に坂の名前を聞いたのだが、分譲された当時に生まれた 80代の人にはなかなかお目に掛かれない・・・。 坂下の薬局と 坂上の魚屋で「宮坂」の名を聞いたが正式名という確信がなかった。 2012年の初詣で根津神社に出かけたところ、文京区の名所を示した地図に坂名があり、「宮坂」を確認した。(文京区が頒布する地図には昔から坂名が載っていた)

 ■命名の由来(未確定)
「宮様が住んでいたから」とのことで調べてみると、『帝都復興 東京市全図/東京市役所 復興局』1929年(昭和4年)発行に、分譲地ではなく 元伊達邸の屋敷に「北白川宮」の名を見つけた。( 印 ) 谷端川を挟んだ反対側の斜面である。

大正末から昭和初めという時期から見て、1921年(大正10年)にフランスに留学した 北白川宮成久 か、父 成久の交通事故死で北白川家を継いだ息子、北白川宮永久 の住まいだったと思われる。 坂 ができた時に、近くに宮様が住んでいたことから、名称としたものだろう。  傾斜は5度弱。

宮坂 1929年(昭和4年)
○印は川を挟んだ反対側、現在の 文京区大塚四丁目17〜19。

                     宮 坂 (谷端川の左側の景色)

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