キリ 
Paulownia tomentosa Steud. (1841)
← Bignonia tomentosa Thunb. (1784)
科 名 : ゴマノハグサ科 Scrophulariaceae
属 名 : キリ属 Paulownia
Siebold et Zuccarini (1835)
異 名 : Paulownia imperialis Sieb. et Zucc.
英 名 : princess tree , empress tree
原産地 : 中国原産といわれるが、解明されていない。
用 途 : 材を取るために栽培される。
軽いが燃えにくく、狂いも少ないため、家具・建築の装飾・漆器用の木地・琴・下駄などに使われる。
 
 
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キリ に関する メモ
 
桐箪笥
「女子誕生に際して桐を植え、嫁入り時に箪笥を作る」という風習は、貝原益軒の『大和本草』(1708年) や寺島良安の『和漢三才図会』(1712年頃) にも記述があるという。
 
しかしそこでは「箪笥」ではなく「櫃材とする」とある。櫃とは大きな箱のことで、現在の箪笥に比べて大きいのか小さいのかは不明であるが、生まれたときに植えた木そのものを、十数年後に箪笥材として使うのはどうも無理がありそうだ。
 
その理由は、
・箪笥材として使う桐は通常25年から35年間育てたものを使う。
・伐採して製材した後で、2〜3年は灰汁(アク)を抜くために天日にさらす必要がある。
つまり、昔のことであるから18才で結婚するとすると、樹齢15・6年では箪笥材にならないということである。
たまに行き遅れのひとが三十路で結婚ということになっても、伐採した材が乾燥するのを待っていた日には、せっかくのチャンスを逃してしまうことになる。


桐材の乾燥風景
撮影:井上雅史
 
桐箪笥店『相徳』で
にもかかわらず、たいていの植物図鑑には「キリ」とくれば「嫁入りの時に箪笥を作る」という記述がある。
また実際に農村では、現在でもこの風習が受け継がれているところもあると聞く。
 
これは、桐の木がほかの木と違って少量でも「換金性がある」という点にあるようだ。
品川の桐箪笥店 『相徳』 の井上さんに話を伺った結果では、以下の可能性も十分にあることがわかった。
 
娘が生まれたら空いている場所に何本かの苗を植える。手入れは必要だが、必要といっても樹木である。稲や野菜などと比べればほとんど手が掛からない。
 
娘が嫁ぐときに桐専門の製材業者に引き取ってもらい、そのお金で箪笥や嫁入り道具を用意する。
 
箪笥用の良材を得るためには、次のような条件が必要となる。
 
・まず何本もの桐を植え、それを切り倒すことができるような土地がいる。
先の写真のような一般的なデザインの「総桐箪笥」ひと棹で、上手に育てた25年ものの桐が最低3本は必要であるという。
あくまで「3本分」ということで、柾目・板目の使い方次第では3本では足りない。3点セットともなればさらに3倍近くなる。
 
・桐材は真っ直ぐが命。2・3年たったところで台切りして、強い萌芽を一本だけ育てる。
節ができないように下枝を落とし、できるだけ真っ直ぐに育てるなど、良質な材にするために手をかける必要がある。

(写真は桐箪笥『相徳』のホームページのものであるが、箪笥の一般的な高さ7尺を確保するまではすべて枝を払ってしまい、高い部分にだけ枝葉を茂らせている。一番左にひょろひょろと頼りない若木が育てられている。)
・さらに欲を言えば、細かく詰まった木目を出すためには冬の寒さが必要である。暖かい地域では育ちが良いかわりに木目の間隔が広くなる。福島県会津や岩手県南部地方の桐材が有名であり、岩手県では県の花となっている。
 
桐材の産地が必ずしも箪笥の産地として有名なわけではなく、箪笥の方は静岡県藤枝市、埼玉県春日部市、新潟県加茂市が三大生産地といわれている。

総桐箪笥というのは、抽出(ヒキダシ)の底板まで含めてすべてが桐の無垢板で作られているものを指す。

高級な箪笥になればなるほど、すべてに国産の良質の材を使い、柾の目を選び、色を合わせるために大量の材の中から選ぶ必要がある。また金具もいいものを使うために当然高価になる。
 
ひと口に桐箪笥といっても ピンキリ というわけである。
 
 
12月のキリ
花札の12月の絵柄は桐である。
 
ほかの札は、1月:松、2月:梅、3月:桜、4月:藤、5月:かきつばた(あやめ)、6月:牡丹、7月:萩、8月:すすき(に月)、9月:菊、10月:カエデ と、一応季節の花や木がデザインされている。
 
冬の11月と 12月にポピュラーな花が見つからなかったためか、11月は時雨(シグレ)にあわせて柳、12月は一番最後の意味の「キリ」と「桐」を掛けて、初夏に花の咲く桐としている。
 
時雨は秋の末から冬の初め頃に降ったりやんだりする雨のことで、時雨月といえば陰暦10月(神無月)の別名である。
 
「最上等のものから最下等のものまで」という「ピンからキリまで」の意味は誰でも知っているのだが、それでは「キリ」の語源は何か。
「キリがよい、キリがない」という場合のキリは「切り、限度」でありちょっと違う。
 
調べてみると、ピンはポルトガル語のピンタ ( pinta 点、焦点) の略で、もともと賽 (サイ) の目の一の数を表していた。
 
一方「キリ」は同じくポルトガル語のクルス(cruz十字架)が訛ったもので、十字架の意味から転じて十の意味となった。
 
「一から十まで」が「初めから終わりまで」、「上等から下等まで」となったわけで、キリは「桐」とは全く関係がないが、桐の由来となった「切り」にはどこか通じるものがある。
 
 
花札は、天正(テンショウ)年間 (1573〜92年) にオランダ船によってもたらされた「うんすんかるた」からしだいに変化し、江戸末期の頃につくられて普及したものといわれている。
 
「うんすん」は元来ポルトガル語 um sum(mo) carta で、umは1、summoは最高・最上の意味であり、まさにピンからキリである。
 
初めは「天正かるた」といわれ、ハウ(青色の棍棒)・イス(赤色の剣)・オール(金貨)・コップ(酒杯)の4種から成り、各12枚で遊び方はトランプに似ていた。
花札まで変化する間には、読みガルタ・金吾(きんご)かるた・かぶかるた・めくり札などがあり、たびたび流行して賭博に使われたため、江戸幕府は何度も禁止令を出したという。
 
現在は花札だけが廃れずに残っている。
 
 
清少納言と紫式部
平安時代(794 〜 1185) 中期 のふたりの女性はその代表作にキリにまつわる記述を残している。今からちょうど 1,000年前のことである。
 
 
枕草子 / 清少納言
 
清少納言は、清原元輔の数え59歳のときの娘である。
元輔は村上天皇の命によって『後撰和歌集』の編纂のために設けられた「梨壺の五人」の一人で、祖父とともに歌人であり、清少納言には生まれながらに和歌の才能が備わっていた。
元輔は孫、あるいは曾孫のような年齢の娘をかわいがるとともに、当時の女性の教養である和歌・書道・音楽以外に、漢詩などの教育を行ったようである。
 
京都中に知られた?才媛は結婚にはあまり恵まれず、15・6歳のころ橘則光 (タチバナノノリミツ) と結婚して男子を出産するが、まもなく離婚。
父親と死別したあとに再婚して、女子を出産するがすぐに別居し、一条天皇(在位986〜1011年) の中宮(今でいう皇后)である定子に女房として出仕した。
 
推定26歳から35歳ごろまでの9年間の宮仕えの間も、楽しいことよりもつらいことが多かった。
すなわち定子の父、関白・摂政であった藤原道隆と叔父道兼が相次いで死去し、政敵である叔父道長との争いで定子の兄伊周(コレチカ)も失脚してしまう。
最後には道長の娘でわずか12歳の彰子に、一条天皇の中宮の座を取って代わられてしまい、定子は皇后となって、中宮・皇后の二皇后併立という異常な事態になる。
その翌年に定子は3人目の子供を出産した後、24年の短い生涯を終えてしまう。
 
清少納言は『枕草子』を当初は私的な随想や心の慰めとして書いていたが、皇后の死後はその遺児に対する庇護が必要であったこともあって、藤原道長の仕打ちに対する怨みつらみはいっさい書かず、皇后定子や女房たちとの明るく楽しい日々をつづったいわば公的な作品とした。
 
 
さて前置きが長くなってしまったが、『枕草子』(三巻本) 34段で、定子の「木の花は?」との仰せに対して、清少納言は紅梅、桜(山桜)、藤、橘、梨、楝 (オウチ:センダン) と 桐の花 をあげている。
キリの部分だけを書き出してみる。

桐の木の花 紫に咲きたるはなほをかしきに 葉のひろごりざまぞ うたてこちたけれど こと木どもとひとしういうべきにもあらず 唐土(モロコシ)にことごとしき名つきたる鳥の えりてこれにのみゐる覧 いみじう心こと也。まいて琴につくりて さまざまなる音のいでくるなどは おかしなど世のつねにいふべくやはある いみじうこそめでたけれ
 
訳してみると、
 
桐の木の花もよい。紫に咲いたのはむろんよい。
葉の広がったさまは鬱陶しいが、ほかの木と同列に論じられる木ではない。
中国の鳳凰という名の鳥は桐ばかりを選んですみかにするというのも、格別のことと思われる。
まして琴を作れば、いろいろな音が出てくるなどということは、よく世間で「すばらしい」などと言われる程度だろうか。
いやいや、とても すご〜く すばらしい。
 
昔からキリが楽器の材料として利用されていたことが分かるが、鳳凰が住むといわれたキリは梧桐(ゴトウ)、アオギリのことである。
 
 
源氏物語 / 紫式部
 
ライバルの紫式部は中流の役人であった藤原為時を父とし、973年頃に生まれた。清少納言よりも7才ほど年下である。

『源氏物語』の主人公 光源氏の父は「桐壺帝」、母は「桐壺の更衣」である。
第二皇子として生まれた源氏であったが、兄との皇位継承争いを恐れた天皇は、源氏という名を与えて臣下とした。
皇族からはずれて一般の臣民に下ることを臣籍降下、このようにして源氏を名乗った皇子を「賜姓源氏」という。
醍醐天皇よりも四代前の清和天皇の時 873年に、4人の皇子・皇女に源氏姓を授けたのが始まりである。
 
桐壺とは京の都の中心にあった内裏、今でいう皇居の中の御殿のひとつ、淑景舎(シケイシャ) の別名で、坪庭に桐の木が植えられていたことによる。
そして桐壺を住居とする女御(ニョウゴ)のことを「桐壺の更衣」と呼んだ。
 
桐壺以外にも梨壺、梅壺と藤壺があり「藤壺の更衣」は重要な登場人物となっている。藤壺が亡き母桐壺に似ていたために源氏が思いを寄せ、桐壺帝の中宮でありながら不倫を犯してしまう。
できた子供は天皇の皇子として育てられ、兄朱雀院に続いて冷泉院となる。
 
『源氏物語』はフィクションであるが、モデルになったと言われているのは、桐壺帝が醍醐天皇、光源氏は醍醐天皇の皇子、源高明(タカアキラ)である。
 
 
紫式部は、結婚してわずか3年ほどしかたっていない夫 藤原宣孝(ノブタカ) と西暦1001年に死別した後、『源氏物語』を書き出して評判となっており、1005年あるいは6年に藤原道長に中宮彰子の女房として引き抜かれる。
 
一夫多妻で、中宮以外に多くの女御がいた内裏では、少しでも才能のある女房を抱えることによって、天皇の覚えも良くなり、上流貴族の公家たちも集まってくる。
 
清少納言が仕えていた皇后定子は1000年の暮れになくなってしまったため、紫式部が出仕したときには清少納言の宮仕えは終っていた。
もし二人が同時に内裏に住んでいたら、どんな火花を散らしたことであろうか?
 
それというのも、清少納言は『枕草子』の中で紫式部の夫や いとこのゴシップを書き立てていたため、紫式部は清少納言のことをライバルどころか敵視していたのである。
 
引退後の清少納言の消息はよく分かっていないが、『紫式部日記』に書かれた内容のために、落ちぶれた晩年だったという伝説ができあがってしまった。
 
 
桐 紋
清少納言が 桐 と 青桐 を間違えた理由は、中国で梧桐 (アオギリ) には鳳凰が住み、台風や雨をもたらす縁起の良い木ということが言われていたものが、日本では両者が混同されて、鳳凰がキリのほうに飛び移ってしまい、平安時代の中期あるいは末期から天皇の日常の衣服に竹・鳳凰・桐の文様が用いられ出したためである。
 
キリの英語名のひとつ phoenix tree の由来である。
 
紋章としてのキリは、13世紀鎌倉時代に九州天草の豪族が旗印として使ったのが始まりといわれている。
皇室でも菊と共に紋章として用い、14世紀南北朝になって、後醍醐天皇が足利尊氏に下賜したのをきっかけに武家の間であこがれの紋となり、織田信長、毛利元就、豊臣秀吉なども拝領した。
幕末には大名の2割以上が桐紋を使っていたというほどである。
 
通常民間では花の数による呼び名の「五三の桐」、皇室は「五七の桐」が使われる。
左:丸に五三の桐
 右:五七の桐
 
江戸時代には「キリ」といえば小判のことであった。
現代の紙幣には「透かし」をはじめとして様々な偽造防止対策がほどこされているが、大判・小判では桐紋の刻印がその役目を果たしていた。
 
15世紀中ごろ以後から貿易用に大型の金貨が作られていたが、いわゆる大判としては1588年(天正16年)豊臣秀吉の命でつくられた天正(テンショウ)大判が初めである。
これは縦15センチ、横10センチの長円形で重さ44匁(165g)あった。
 
大判は軍用・儀礼用(賞賜・進献・贈答)とされ、実際に使用するときは、慶長大判は同小判8両2分、享保大判は同小判7両2分、万延大判は同小判25両というように、重量と品位に応じて小判に引き換えて用いた。
 
一方小判は1595年(文禄4年)徳川家康が豊臣秀吉の許可を得て、江戸と駿府で鋳造させたのが起こりである。1601年(慶長6年)以後慶長小判と、両目が小判の4分の1にあたる1分判を継続して大量に鋳造してから、これが全国に行き渡り標準通貨となった。
この項の参考資料:『日本大百科全書』小学館



大判
天地左右に五三の桐の刻印

現代の「キリ」といえば...500玉。
 
価値は小判と大違い。
 
2000年から新たに発行された新500円玉は、それまでのものとは電気抵抗を違えたり、斜めから見ると500円の文字が浮かび上がる刻印など、自動販売機で使用された変造500円玉への対策が施されている。
 
意匠的には旧コインと変わっていない。

裏面のキリの花と葉
 
金庫とキリ
お金に関係のあるキリをもうひとつ。
これは大手町の交差点に建っていた、旧第一銀行本店の貸金庫で使われていたキリの収納箱である。
 
サイズは60×45×15cmとかなり大きい。
キリが使われた理由は軽さ・耐摩耗性・湿気に対する防御性で、断熱性が重視されたわけではないと思う。
さすがに現在では桐材が使われることはなく、スチールやステンレスに取って代わられている。
 
旧第一銀行本店は設計が西村好時、清水組による施工で昭和5年(1930年)に竣工した石造り風の名建物であった。
交差点のコーナーにエンタシスの太い円柱がそそり立ち、営業室の天井にあったドーム型の大きなトップライトが美しかった。
 
その跡地に立てられた丸の内センタービルの設計を担当した縁で、この収納箱をいくつか譲り受け、カセットテープの収納箱として使っていた。
金庫の収納箱として加工されたときのキリの樹齢が20年だったとすると、芽生えからすでに100年近くを経ているわけで、おいそれと捨てるわけにはいかない。
 
キリはまた、置き型の金庫の内張にも使われていた。
 
昔の金庫は断熱材として間に砂が詰められていたというが、内張のキリは断熱材としての意味があるのだろうか。
やはり化粧材として、また防湿の意味で使われたのであろう。
 
参考文献 : Index Kewensis Ver.2.0/Oxford University Press、
        園芸植物大事典/小学館、
        週間朝日百科/植物の世界・朝日新聞社、
        植物学名辞典/牧野富太郎・清水藤太郎、
        春日健二氏のホームページ「日本の植物たち」、
        リンネとその使途たち/西村三郎、
        文明の中の博物学/西村三郎、
        日本植物誌/復刻版/植物文献刊行会
        桐箪笥 相徳 のホームページ、
        日本大百科全書/小学館
世界の植物 −植物名の由来− 高橋俊一 五十音順索引へ