キリは古くから日本でも栽培され、昔から高貴な花として皇室の紋章にも使われてきたが、原産地は解明されていない。
日本の一部に野生状態のものも見られるが、ほとんどが材を使うために栽培されていたものである。
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ゴマノハグサか ノウゼンガズラか |
まず キリを何科の植物とするか、という問題から。
キリを、互いに近縁のゴマノハグサ科とノウゼンガズラ科のどちらに分類するかは植物学者の見解によって異なる。
図鑑、植物事典、百科事典など 20 の書物を調べた結果では、12 : 8でゴマノハグサ科が優勢であった。
ちなみに、牧野富太郎の『原色植物大圖鑑』 (1982年初版) はゴマノハグサ科である。
朝日百科『植物の世界』での大場秀章博士の記述では、「子房が2室に分かれていることと、種子に胚乳 (種子の発芽の際に養分を供給する組織) があることなど」をゴマノハグサ科の根拠としている。
ここでは大勢に従って、キリをゴマノハグサ科として扱う。
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キリ 自然樹形 |
幹 |
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東松山 森林公園 |
市ヶ谷 内堀通り
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花と葉の様子 |
若い実とつぼみ |

5月に ほんのりとした香りの良い花を咲かせる。 |
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右の写真は8月中旬に撮ったものである。
写真の中の左側は、その年にできた まだ若い果実、そして右側は翌年5月に咲く花のためのつぼみである。
なんと 約9か月も前につぼみができて、秋・冬・春をやり過ごして新緑時に咲く。なんでこんなに早くから準備する必要があるのだろうか。
サクラなど、冬芽からつぼみが出てきて咲くまで、早ければ1週間程度だろう。
もっとも 冬芽の中で見えないところにつぼみができるのは、もっと前のことであるが。
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果実 と 翼のある種子 |
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この写真は 都下深大寺植物園で 11月はじめに撮ったものである。
キリの実の直径はせいぜい3cm。いかに種子が小さなものかが分かる。
花が咲いてから半年経っているが、まだ青い実と すでに割れて種子が出てきた実。まさか昨年の実ということはないだろう。
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名前の由来 キリ Paulownia tomentosa |
キリ 桐 : 切る に由来する |
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キリは成長が早く、また切ってもすぐに芽を出すために、箪笥用材の場合には植えて2・3年目にわざと根元から切ってしまい(台切りという)、出てくる強い芽を育てる方法をとる。
写真は、民家の裏庭のキリを切ったところ、一年間で 5m以上も伸びに伸びた状態である。 |
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もうひとつの由来は木目(モクメ) が美しいところから「木理 (キリ) あるいは肌理」の意味で、それを生かして家具・箱・楽器・下駄・火鉢・羽子板・釣りの浮き・デッサン用の木炭など、さまざまな木工品に使われている。
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漢字の「桐」という字は「同(ドウ、トウ)」 が音を表し、「木目がまっすぐ通っている木」の意味の「通(トウ)」が語源であるという。
さらに別の説は「中に空洞のある木」という意味で、大きくなると幹に空洞ができることによる。
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写真は、樹齢10年、直径17cm程度にも関わらず中央に穴のあいたキリ材の断面 |
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種小名 tomentosa : 密な綿毛のある という意味 |
30cm以上、時には50cmにもなるキリの葉に、ビロードのような毛が生えていることによる。
命名者はツュンベリーで、来日時に観察したキリを 1784年刊行の『日本植物誌』に、ツリガネカズラ (Bignonia) 属の植物として記載した。
ツリガネカズラ属はノウゼンカズラ科の基準属である。 |
5角形の キリの葉 |
 タイルは30cm角 |
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Paulownia キリ属 : 人名に由来する |
キリ属の学名はシーボルトと (et : andの意味) ツッカリーニによって1835年の『日本植物誌』に新しく発表された。
当時のオランダのアンナ・パヴロナ大公女 ( ? -1865) に捧げられたものである。
シーボルトがキリを新しい属として定義したのは間違っていなかったが、ツュンベリーの『日本植物誌』にあった Bignonia tomentosa
に対して、シーボルトは種小名まで新しく付け直してしまった。
このためシーボルトが命名した Paulownia imperialis は、後になって決められた学名の命名規約に合致せず、キリの「異名」となってしまったのである。詳細については「シーボルトの来日」の項で述べる。
東南アジアに数種が分布する。 |
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ゴマノハグサ科 胡麻の葉草科 Scrophulariaceae : |
分類の考え方によって大きく異なるが、世界に約190属 約4,000種があるとされる。
花が美しく観賞用に栽培される。多くはその名の通り草本(ソウホン)であるが、まれに低木あるいはキリのように高木となるものがある。
特徴は花弁が唇状にふたつに分かれている点である。シソ科の花に似ているが、ゴマノハグサ科は種子がたくさんできるという違いがある。
系統的にはノウゼンカズラ科、ゴマ科、キツネノマゴ科、イワタバコ科、ハマウツボ科などに近縁で、これらの先祖的な科と考えられている。 |
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ゴマノハグサ |
名前の由来はゴマノハグサの葉が、ゴマに似ているところから名付けられた。紛らわしい名前である。
ゴマノハグサの写真は、いつも日本の植物の写真で助けていただいている、春日健二氏 (kasuga@mue.biglobe.ne.jp) のホームページ「日本の植物たち」の中からお借りした。
高さは 1.5m 程度ということである。
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撮影およびコピーライト:
春日健二 |
われわれにもっともなじみ深いゴマノハグサ科の植物は「キンギョソウ」であろう。また古くから強心利尿薬に利用されている「ジギタリス」も有名である。 |
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キンギョソウ |
ジギタリス |
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Scrophularia (ゴマノハグサ属) の由来は、この属の S. nodosa の根から 「るいれき」 (scrofula 瘰癧:結核性頸部リンパ節炎)
を直す薬が採れたことによる。
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キリの異名 Paulownia imperialis Sieb. et Zucc. について |
必要な記述内容と標本を伴って、最初に論文発表された「正名」に対して、
・命名規約に則っていない学名
例えば 同じ植物にあとから付けられた違う名前
・旧分類 あるいは 自分が提唱する分類とは異なる学名
を「異名」と呼ぶ。
シーボルトがキリに対して 「Paulownia imperialis」 という名前を付けた経緯を説明するために、少し長くなるがまず当時の様子を概説したい。
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ページ最後に記載した文献を参考にしながら記述した。
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シーボルトの来日 |
ツュンベリーの離日(1776年) から47年後の1823年(文政6年)、27歳のドイツ人医師のシーボルトが長崎を訪れたのは11代将軍 家斉の晩年期であった。
この半世紀の間にアメリカの独立、フランス革命、皇帝ナポレオン誕生など、世界情勢はガラリと変わっている。
東インド会社はすでに解散しており、「長崎の出島」の管轄は現在のインドネシア ジャワ島のバタビアにあった東インド政庁が行っていた。
各国は植民地化と貿易活動の拡大を目指してアジア地域、特に日本の正確な情報を掴もうとしていたのである。鎖国を続けている幕府に対して、ロシアやイギリスも貿易を要求してくるがこれを拒否する。 |
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『解体新書』(1774)に始まったオランダ医学への関心が次第に高まり、1811年には幕府天文方に「蛮書和解御用掛」が設置された。
杉田玄白の『蘭学事始』は1815年。
日本全国を測量して歩いた伊能忠敬が『大日本沿海輿地全図』を完成させたのが1821年であり、これは、かのシーボルト事件と関係する。
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カナ書き特別小図/北海道・樺太 『忠敬と伊能図』より |
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医学の知識を修めてオランダの軍医となっていたシーボルトは、地理、動植物、民族学にも関心を持っていた。
オランダ東インド政庁の医師として長崎に到着すると翌年には鳴滝塾を開講し、当時長崎に集まっていた進取の気性に富む秀才たちを門下生とした。
さらには彼の名声を伝え聞いて全国から集まってきた熱心な研究志望者をも子弟とし、それぞれの得意分野ごとの課題を与えてオランダ語でレポートを提出させたりもしたという。
つまりシーボルトは長崎に居ながらにして日本全国の情報を手にすることができたわけである。またケンペルやツュンベリーと同じように江戸への参府も行っている。
残念なことに、幕府ご禁制の江戸城内の地図や北方の地図を高橋景保らから入手したことが発覚し、シーボルト事件として1年間の幽閉後、1830年暮れに国外追放となってしまう。
その後1853年にペリーが浦賀に来航し、シーボルトの離日後約40年で日本は明治維新を迎えることになる。
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2つの『日本植物誌』 |
シーボルトは来日にあたってツュンベリーの『日本植物誌』(1784) を持参した。
江戸参府の途中、愛知県熱田で会った伊藤圭介を長崎に誘い、伊藤の師である水谷豊文が著した『物品識名』と『日本植物誌』を対照して日本の植物の研究をした。
またシーボルト本人と日本の弟子たちのみならず、宿泊した宿の主人にまで依頼するなどして集めた膨大な資料と生きた標本植物は、インドネシア経由で本国に送られた。 |
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帰国後にミュンヘンの植物学者ツッカリーニと共同して、1835年より『フローラジャポニカ(日本植物誌)』の刊行を始め、1850年に『日本動物誌』、1854年には『日本』も完成させた。
『日本植物誌』は彼の死後の1870年に完成するが、そこには151点の図版が収録され、ほとんどが右図のような芸術的ともいえるすばらしい彩色画である。 |

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『日本植物誌』復刻版より
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そして、シーボルトの『日本植物誌』でのキリの学名はキリ属の説明で述べたように Paulownia imperialis となっている。
属名はオランダのアンナ・パヴロナ大公女を記念して命名されているが、そればかりでなく、この『日本植物誌』そのものが、パトロンであった大公女に献上されている。シーボルトが来日にあたって大公女の恩義を受けたのか、あるいは帰国後に本を出版する際に援助を得たのか、そういったことがあったのであろう。
imperialis は「皇帝の」という意味で、これはパヴロナ大公女がロシアのロマノフ王家出身で、エカテリーナ女帝の孫娘にあたることと、日本でも後醍醐天皇以来、皇室や将軍太閤秀吉、大名たちがキリを家紋として使っていた事による。シーボルトとしては日本で最も高貴な植物を献名する事で、感謝の気持ちを表したのである。
当時は学名に「二命名法」を使うという考えがすでに固まってきており、少し後の1867年にパリで開かれた第1回国際植物学会で、正式に二命名法の採用が決定された。
またその規約のなかには、ひとつの種に対しての「正名」:正しい名前はただひとつだけで、複数の学者が別の名前を付けていることがわかった場合には、一日でも早く命名した名前、種小名が採用される、という「先取権」の法則がある。
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キリの場合は、ツュンベリーが1783年にツリガネカズラ属 Bignonia tomentosa として命名していたわけであるから、Paulownia
という新しい属に分類し直す場合には Paulownia tomentosa とすべきであった。
そうすれば Paulownia tomentosa (Thunb.) Siebold et Zuccarini と、キリの命名者としてシーボルトらの名前が残ったのであるが、シーボルトとしては、先人が付けた学名を尊重するなどということよりも、パヴロナ大公女へ
新しい名前 Paulownia imperialis を献上することに意味があったわけであるから、いたしかたない。
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Empress Tree |
キリの英語名は図鑑・事典によると Paulownia, princess tree, Royal paulownia などがあがっているが、アメリカのいくつかの植物園では上記の由来によって「Empress
tree」という名称を使っている。
「皇后の木」あるいは「女帝の木」というところである。 |
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ニューヨーク ブルックリン植物園
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中国や日本の「桐」「キリ」とアメリカの「Empress-tree」の違いは、自生している木を育て、利用してきた国の名前と、近年になって外国から渡来し、学名やそこに秘められた逸話に基づいて付けられた名前の違いである。
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キリ に関する メモ
・桐箪笥
・12月のキリ
・紫式部と清少納言
・桐紋
・金庫とキリ
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参考文献 : Index Kewensis Ver.2.0/Oxford University Press、
園芸植物大事典/小学館、
週間朝日百科・植物の世界/朝日新聞社、
植物学名辞典/牧野富太郎・清水藤太郎、
春日健二氏のホームページ「日本の植物たち」、
リンネとその使途たち/西村三郎、
文明の中の博物学/西村三郎、
日本の植物/シーボルト・瀬倉正克 訳、
日本植物誌・復刻版/植物文献刊行会
桐箪笥 相徳 のホームページ、
日本大百科全書/小学館 |
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