山手線が渡る橋・くぐる橋  − 架道橋 (ガード) ・跨線橋 −

5. 新井薬師道 架道橋
図説『駅の歴史』/交通博物館編 掲載の「日本鉄道会社 線路平面及縦断面図 1894年」によると、この築堤の高さにもかかわらず、当初は「踏切」だった。
「薬師道」の名は明治になってから名付けられたようで、この架道橋が作られた時点では「公式名称」だったのであろう。

全 景 (山手線外側より)
左奥の緑の屋根がかかっているビルに「切手博物館」がある。

2009年11月15日 の様子 (山手線の外側)
2009年12月2日 の様子 (山手線の外側)
コンクリートの打ち放しであったが、ヒビがはいって痛んできたために、外部内部共にエポキシ樹脂の注入で補修され ペンキ塗りされた。
こちらからの一方通行。

山手線の内側

一方通行のため ここからは新井薬師には行けず、右折して目白駅に向かうしかない。

内部の様子 山手線の内側から
ほぼ中央にコンクリートの継ぎ目があり、しみ出す水を受ける樋が付いている。
ここでも まず現埼京線側の複線化が「一期工事」で、複々線化の時に現山手線部分が増設された。
 
両側の土盛りを較べると、後から増やした外側の方が「法面」の余裕が少ない。
つまり、外側に寄ったかたちになっている。
外側 内側
レンガ造からコンクリートの移行期には、このようなアーチ形の橋が造られた。 恐らく無筋コンクリートであろう。

鉄筋コンクリート造が本来得意とするのは、柱・梁によるラーメン構造あるいは箱形の構造であるため、コンクリート構造の基準が定められて普及すると、アーチ形の橋は使われなくなった。


位 置 (終戦後の様子)
1948年(昭和23年)の空中写真/国土地理院
  高田馬場駅     神田川                               目白駅
新井薬師道 架道橋 データ


位 置: 新宿区下落合二丁目
 品川から 13K 798M
管理番号: 山手線 ( 29 )
通りの名称: 薬師道
線路の数: 4本
山手線、埼京線・湘南新宿ライン (共用)
支 間:  隧道幅 約7.2m
空 頭:  高さ 約5.8m(コンクリート造 円形アーチ)
 高さ制限表示無し
竣工年: 不明
備 考: 品川線開通当初は踏切のようである。
当初工事の「期間と予算」圧縮の方針によって、架道橋を作ることを避けたためであろう。
もしそうであれば、緩やかな土手を斜めに登る道が付けられていたはずだ。

1909年(明治42年)測量の地図では、すでに山手線の下をくぐっている。
名前の由来:  道の名前による
道の名の由来:
この道は江戸川橋から関口台の上を行く 現目白通りと平行して、台地に沿って神田川の低地を西に向かっている。

明治初期の地図を見ると、高田村と薬王院の集落を過ぎたあとで南に折れて 現早稲田通りに合流するため、さらに西に行けば「新井薬師 梅照院」にいたる。

「新井薬師参り」をする時に、江戸のどこから出発するかにもよるが、上り下りが少ない点では歩きやすいかも知れない。

マクロに見れば、「川越街道架道橋」で触れたように、現早稲田通りを薬師道とするのが自然であろう。


終戦後 1947年(昭和22年)9月 の様子
国土地理院、撮影は米軍
まるで川のようにうねっているが、川の跡ではない。
右に見える細長い建物は旧船舶試験場で、100m近い水槽で人工の波を発生させ、模型の船で試験を行っていた。

周辺の情景
新宿区立 おとめ山公園 遠望 公園内の池
おとめ山の漢字は「御留山」あるいは「御禁止山」である。
江戸時代、このあたりが将軍家の御狩り場で、一般人は狩猟禁止であったためにこの名が付けられた。
現在の公園は、福島・相馬家の庭園跡である。

日立目白クラブ (2010.1.10 撮影)
第7代 学習院院長を務めた近衛篤麿侯爵の邸宅跡地に、学習院の寄宿舎「昭和寮」として建てられたもので、現在は日立製作所の所有。
白壁や縦型のアーチ窓、スペイン瓦が特徴のスパニッシュ様式である。
クラブや社員寮として使われており、日立関係者の紹介があれば一般の人も借りられるそうだ。

設計:宮内省内匠寮 権藤要吉 竣工:1928年(昭和3年)
 

架道橋の品川からの 距離 について

新井薬師架道橋の「位置」は 品川から 13 km 798 m 40 cmで、あと1.6 mで 800mである。

架道橋を調べ出してから、この「位置」はどこが基準なのか不明だったが、新井薬師架道橋の上、線路脇に「キロ程」があったので、基準が架道橋の中心であることが判明した。
 
内回り電車 から
「数字の8」は 800mを示しており、杭の位置は中心よりも目白寄り。
つまり、架道橋の中心が 13,798.4 mである。

これに対して高架橋の「位置」の基準点は、起点(品川)に近い「始点」となっている。
長い高架橋などでは「中間点の位置を出しにくいという事情からだろうが、架道橋との統一が取れていない。 山手線や東海道線のの建設が始まった頃には「高架橋」が無かったのが原因だろう。

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