山手線 が 渡る橋 ・くぐる橋 | |
池 袋 → 大 塚 |
2. (仮称) 池袋橋、 第二鎌倉踏切 跡 |
2020年11月掲載 |
日本鉄道の品川線が開通した1885(明治18)年から、立体交差の池袋大橋ができる1966(昭和41)年まで、80年もの長きに渡って踏切が使われ続けたが、開かずの踏切として有名だった。 |
その原因は、地上駅の池袋が巨大なターミナルとなって、駅の近辺で東西を結ぶ道路が少なかったためである。目白側の池袋架道橋(びっくりガード)は道が狭い上に東西ともにアクセスが悪く、勢い、この踏切を通る車が多かった。 |
第二鎌倉踏切の位置 | ||
南 | 1966(昭和41)年11月3日 MKT666X-C5-13 / 国土地理院 に加筆 |
北 |
この渋滞を解決するための「池袋大橋」が完成している。Wikipediaによると11月が開通となっているので、開通直前の撮影である。川越街道の山手貨物踏切の渋滞もひどく、これを解消するために、写真下辺の環状5号線では、首都高速道路5号線と六ツ又陸橋が2階建てとなる巨大な陸橋を建設中。 |
(仮称)池袋橋と池袋大踏切 | ||
池袋 | 赤羽 |
西側(写真では上)から、東上線と赤羽線(小さな○印)、橋を挟んで 東側が車庫へ行く線路と山手貨物線(大きな○)。片側1車線のうえに遮断機が2セット、西側は変形したT字路で、交通の難所だった。 |
いまは一見 何の痕跡も無いように見えるが、西側の橋台の跡が残っている。 |
仮称 池袋橋 の橋台跡 |
中央奥の白いコンクリート部分が、残っている橋台。 |
いかにも狭い道路幅である。 対になる向かい側(右側)は、右上に一部が見える 跨線橋を架ける時に新しい橋台が作られて、古いものは残っていない。 |
第二鎌倉踏切があった場所(山手線の内側から) |
道路は突き当りで、踏切の東詰めは現在池袋駅前公園となっている。 |
池袋大橋 ・・・・ |
1948(昭和23)年の空中写真 / 国土地理院 |
踏切の代替となる池袋大橋。西側の登り口は一致しているものの、全体としては踏切とはかなり離れた位置に設けられた。 |
位 置 (終戦後の様子) |
1948(昭和23)年の空中写真/国土地理院 |
池袋駅 旧東京拘置所 大塚駅 |
■ 仮称 池袋橋 データ | |||
位 置: | 豊島区 池袋一丁目と西池袋一丁目の境界 |
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道路名: | 特になし | ||
橋 長: | 不明 | ||
幅 員: | 不明 | ||
開設年: | 1903(明治36)年、複々線化時 | ||
跨ぐ線路: | 2線:山手線 | ||
■ 第二鎌倉踏切 データ | |||
位 置: | 同 上 | ||
踏切が横断していた線路の数:計 7線 | |||
西側:東上線 2線、赤羽線1線、東側:車庫への入出線 2線、山手貨物線:2線 | |||
開設年: | 1885(明治18)年3月 | ||
名前の由来: | 不明、 以下にその考察を |
第二鎌倉踏切 の名前の由来 |
品川線が開通した時にあった道のほとんどは、踏切として残された。前項の「雑司が谷隧道(ウィ・ロード)」の前身も、踏切Aだった。 |
雑司が谷道 |
1万分の1 早稲田 / 1909(明治42)年測量 / 大日本帝国陸地測量部 / 国土地理院 に加筆 |
開通から24年経ったこの地図の範囲だけでも、9カ所の踏切が見て取れる。Bが本項の「第二」鎌倉踏切。 |
池袋駅が1903(明治36)年に開業する前の道は・・・・で、Aを通っていた道がA2 に付け替えられて、踏切となった。 |
もし雑司が谷道が 鎌倉街道中道であるなら、AおよびA2 が「第一鎌倉踏切」で、その隣のBを「第二鎌倉踏切」と名付けた、と解釈できる。 |
しかし、鎌倉街道は赤羽線の東側にあった。 |
雑司が谷道・・・・ と 鎌倉街道・・・・(未確認) |
左側:1881(明治14)年測図、2万分の1 板橋驛 / 陸地測量部 / 国土地理院 左側:1880(明治13)年測図、同 下谷區 を合成・加筆 |
Wikipediaの鎌倉街道中道・渋谷コースの経由地として、芳賀善次郎氏の『旧鎌倉街道 探索の旅/中道編』に示されている、「渋谷・赤坂・原宿・千駄ヶ谷・大久保・高田馬場・雑司が谷・中仙道・滝野川・赤羽」を例示している。 そこで、1881年時点で存在する道をもとに、ルートを推定したのが前図である。Wikipediaに 「現 陸上自衛隊十条駐屯地内に、鎌倉街道中道に比定される道路跡が発掘された」とあるので、あえて上部 ○印 の中の道を選んでみた。 |
街道はできるだけ「尾根道・直線的」なルートを取ると言われているが、谷や台地の多い江戸(東京)内ではそうもいかない。 |
雑司が谷道・・・・は滝野川村を通らないので、やはり鎌倉街道ではなさそうだ。 |
鉄道で踏切や高架橋名の「ナンバー」は、「隣り合う」施設に付けるのが普通である。踏切Cが「(第一)鎌倉踏切」だが、なぜそこから離れた位置の本踏切Bが「第二」鎌倉踏切と名付けられたのか、不明である。 |
雑司ヶ谷道が「第二鎌倉街道」と呼ばれていたのだろうか? |
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