山手線 が 渡る橋 ・くぐる橋
大 塚 → 巣 鴨
− 架道橋 (ガード) ・跨線橋 −

3. 大 塚 架 道 橋
2010年2月 掲載、 2021年1月 改訂

レンガの橋台が美しい。城北随一! 豊島区遺産 あるいは東京都遺産に認定すべきである。
古くから架かっていた架道橋だけに、歩道の幅が狭いのが難点だったが、まもなく、山手線の内側から外側への一方通行となり、歩道が広げられのものと思われる。

遠 景 (山手線 内側より、2009年12月)
左隣は「王子電車跨線橋」。遠景といっても、駅前の交差点から広角で撮ったもの。
自由通路の整備で旧駅舎が撤去されて広場が広くなり、そこにあった放置自転車も少なくなって、気持ちの良いスペースの横を都電が走る。 
遠 景(山手線の外側より)
大塚架道橋の桁の架け替えが行われたのは、右側の王子電車跨線橋開通の5年ほど前で、桁のスタイルは プレートガーダ+コンクリートの合成桁で同じだが、橋台がレンガとコンクリートという決定的な違いがある。
近 景 (山手線の内側)

橋 台 (山手線の内側)
  
レンガとコーナーを補強する隅石のコントラストが美しい。
天端までの高さは 約7mだが、鉄桁の上にコンクリート部分があるために、最上段の寸法が大きい。安定感を出すためか下部を2段にわたって広げてあり、橋台全体では4段となっている。各段の上部には帯石が付いており、橋の下からその三列が見えるのだが、後から設置された点検歩廊のために3段目が見えにくい。
架道橋 内部
桁はリベット接合による 単純なプレートガーダ。
ところで、線路の数は山手線2線、湘南新宿ライン2線で4線のはずなのに、桁の数は「5本」ある。
そこで ホームにあがって眺めると・・・・。
やはり4線しかない。
一番内側(右側)は線路が撤去されているのだ。次の架道橋の手前まで、貨物駅があった時代に引き上げ線として使われていたものである。

逆台形のコンクリート部分
コンクリート部分はバラストの受け皿となっており、鉄桁だけの場合に比べると、格段に騒音が小さくなる。山手線で合生桁が使われている例は少ない。内と外に面するコンクリート部分の形状は斜めになっているが、それ以外の部分は凹型である。
隅石の詳細
石のサイズは 約 600 × 350、高さ 320mm、石ひとつにレンガが5段。石材の仕上げ方法はでこぼこの面を残す「瘤(こぶ)出し」だが、コーナーだけは20mm幅の平滑面を切った「江戸切り」となっている。各段の帯石には水が溜まらないようにテーパー(傾斜)が付いている。

痛んだレンガ
線路と線路の間は鉄板でふさがれ、雨が落ちないようになっているのだが、受けきれずに滴る水でレンガが痛んでいる。冬に凍結するためだろう。何カ所かの中で、ここが一番ひどい。


ところでこの橋台の構造だが、筆者はその建築年から、躯体はコンクリートだろうと考えている。
レンガ造(アーチ構造)の高架橋は新橋付近から始まり、東京-神田間の銭瓶町橋高架橋までで、1910(明治43)年の竣工である。銭瓶町橋高架橋の端部が常盤橋架道橋の橋台となっており、新中央線の工事で切断されたレンガの断面を見ることができる。
(次の写真 右側)
参考:常盤橋架道橋の橋台
コンクリートの神田側:1919(大正8)年 レンガ造の東京側:1910(明治43)年
ところが神田側の橋台(左側)を見ると、仕上げはレンガだが躯体はコンクリートで造られてられている。万世橋駅までだった甲武鉄道を東京駅まで伸延する時に建造されたもので、1919(大正8)年の開通である。
このことから、複々線化に伴って1922(大正11)年頃に建設された本架道橋の躯体はコンクリートだと考える。

濡れたレンガ (山手線の内側)
普段は白っぽい色だが、雨に濡れると濃くなって美しさが際立つ。左側の真っ白に塗られた部分が「王子電車跨線橋」の橋台。さらに左の端に写っている壁が「大塚駅前交番」なので、落書きされる恐れも少ない。
もうすぐ築100周年を迎えるが、それにしても大正の末、都心からは程遠いこの大塚の地に、なぜこんなにも立派な橋台が造られたのだろうか? 大きな 謎である。
建設当時に繁盛していた大塚三業地の組合が費用の一部を出した、ということは考えられないだろうか?


大塚架道橋の歴史

1903(明治36)年:山手線 池袋-田端 開通、大塚駅開業
.1910(明治43)年4月:池袋 - 田端間 複線化

地図A 1921(大正10)年:南北に路面電車
                   王子電気軌道 飛鳥山へ

早稲田 /1921(大正10)年第二回修正測図 / 大日本帝国陸地測量部 / 国土地理院
初代架道橋については、具体的な諸元は一切わかっていない。架道橋の南北に路面電車の駅があった。

.1924(大正13)年:池袋-巣鴨 複々線化
1928(昭和3)年:王子電気軌道の南北2線がつながる

地図B 1929(昭和4)年:複々線化

早稲田 / 1929(昭和4)年第三回修正測図 / 大日本帝国陸地測量部 / 国土地理院
2線から4線に増えて架道橋が架け替えられ、さらに引き上げ線も同時期に増設された。本架道橋の変化はこの一回だけ。
その数年後にはすぐ隣に 王子電車跨線線路橋が造られ、王電の北側の軌道が変更されて山手線をくぐっている。王電の駅は新設された架道橋の下になった。

架け替えの手順
橋台に2本の継ぎ目があるので、3回に分けて作られたと考えられる。
橋台を3分割する 縦線
外側       巣鴨方向を見ている       内側
当然のことながら、営業中の(旧)山手線を止めるわけにはいかない。桁の銘板が答えを示している。増線された外側は「大正十年」、内側3線が「大正十一年」である。
つまり、旧線をそのまま営業しながらまず新線2線を造り、それを仮に使いながら内側の2線(現 湘南新宿ライン)を架け替えたものだ。
また、それぞれの架橋時期が大きく違う場合には、継ぎ目に隅石が作られることが多いので、その点からも、この架道橋は同時期に連続して造られたことが推察される。


掛け替えの理由
1910(明治43)年の複線化時に、当時の山手線に2本目の桁が架けられた。それが10年少々で架け替えられた。開通時から考えても20年しか経っていない。
架け替えられた理由として考えられるのは、
@: 道路幅を広げるため
A: 複々線化のために新規に購入した 山手線外側の敷地が十分になかったために、どうしても軌道の位置を変えなければならなかった
B: 初代の橋が木造で、傷んだため
などが考えられるが、道路の拡張が主な理由だっただろう。
Aの場合に架道橋の長さが変わらないのであれば、昔の桁を再利用するだろう。最初の架道橋が木製の可能性も十分にある。高田馬場の早稲田通りに架かる架道橋は、1885(明治18)年の開通時は木製で、幅はわずか 12フィート(3.66m)だった。
なお、関東大震災は1923(大正12)年9月1日で、この区間の開通 1924(大正13)年12月の約1年前。すでにほかの区間では複々線化の工事が進められており、また桁の製作年が震災の前であるから、震災被害を受けての架け替えではない。



位 置 (戦後の様子)
1947(昭和22)年8月の空中写真/国土地理院

  大塚駅                          巣鴨駅

大塚架道橋 データ
位 置: 豊島区南大塚三丁目
 品川から 17K 288M
管理番号:  42
通りの名称: 都道439号 小石川-西巣鴨線
北側:折戸通り、南側:南大塚通り
線路の数: 4線:山手線、湘南新宿ライン
支 間: 12 m 90
空 頭: 表示無し
竣工年: 1923年(大正12年)頃
1924年(大正12年)12月 池袋−巣鴨間の複々線化に向けた工事によるものである。
山手線外側2線の桁の製作年:
  1921(大正10)年
山手線内側3線の桁の製作:
  1922(大正11)年
名前の由来:  大塚駅近くに架かる架道橋


周辺の状景

旧 白木屋百貨店 大塚分店
ガードのすぐ横のビルである。
戦後は「松菱デパート」、写真撮影時は「大塚ビル」。外装が改修されていたので、とても1937(昭和12)年竣工の建物とは思えなかった。これも豊島遺産にしたかったが、耐震的に問題があったためか、現在は建て直されている。
計画案 『新建築』口絵より 竣工当時の写真 1937年
ともに、旧ビルの一階に掲示してあったパネルから。 
  設計:石本喜久治(石本建築事務所)、
  竣工:1937(昭和12)年5月31日
木製フローリングのオフィス廊下 二階への階段
旧 丸ビルのような雰囲気があった。

昭和初期はまだ池袋が発展する前で、大塚には白木屋だけでなく、資生堂や高島屋(10銭ストア)もあり、三業地と合わせて非常に賑わっていた。

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