山手線 が 渡る橋 ・くぐる橋
大 塚 → 巣 鴨
− 架道橋 (ガード) ・跨線橋 −

7. 宮 下 橋

みやしたばし。 
田端線が開通した時にできた橋。複々線化の時に架けられたのは、古レールを利用した 幅1.4m程度の人道橋だった。
江戸橋に先駆けて、1991(平成3)年に架け替えられた。

全 景(巣鴨駅側より)
後ろの江戸橋から巣鴨駅の先まで、ソメイヨシノの並木が作られている。
近 景(大塚駅側より)
山手線の内側から
橋の両側とも道が十字路になっており、橋の端は曲がりやすいように広げられている。 幅は12mで歩道を広めに取ってあり、江戸橋とは逆方向の一方通行である。

親柱 と 街灯
横長の立派な親柱にしたかったらしく、両側の道路に沿って置かれている。

落下防止用ネット 手摺り
江戸橋の手摺部分はパンチングメタルで電車が見にくいが、こちらは縦の手摺子でよく見えるため、子供たちのウォッチングスペースとなっている。運転手は 「ファ〜ン」とサービスの警笛を鳴らしながら通り過ぎて行く。



位 置 (戦後の様子)
1947(昭和22)年8月の空中写真 / 国土地理院
  大塚駅                         巣鴨駅
宮下橋 データ
位 置: 豊島区巣鴨一丁目〜巣鴨三丁目
管理番号:  −
道路名:
橋 長: 現在の橋:28.70 m
幅 員: 11.00 m
竣工年: 初代:1903(明治36)年
    田端線開通時
    木製か? 未確認
二代目:1924(大正13)年
    複々線化時
古レール製、幅1.4m程度の人道橋
現在の橋:1991(平成3)年6月
   現在の橋が三代目だとすると、二代目の寿命
   は67年間だったことになる。
跨ぐ線路: 4線:山手線、湘南新宿ライン
名前の由来:  近くの地名 旧 宮下町 による
地名の由来: もと文京区の地名で、現在は千石。
宮下町にあるお宮といえば、大鳥神社だが、由来は別の所にあった。
文京区の「旧 町名案内板」より :
宮下町はもともと 氷川明神(現 簸川神社、小石川植物園西隣)下にあったところから、名付けられた。
古くは伝通院領で、年代はわからないが町屋が開かれ、1652(承応元)年に館林藩主 徳川綱吉の白山御殿用地として召し上げられたために、その代地として巣鴨村に移った。


簸川神社

文京区教育委員会の文化財案内板より :
社伝によれば、氷川神社の創建は古く、第五代孝昭天皇(歴史時代、 4世紀?)のころと伝えられ、祭神は素盞鳴命(すさのなのみこと)である。
源 義家(1039-1106)が奥州平定の祈願をした社といわれ、小石川、巣鴨の総社として江戸名所のひとつだった。
もとは現在の小石川植物園の地にあったが 白山御殿造営のため、1699(元禄12)年にこの地に移された。社殿は、さきの空襲にあい全焼失したが、1958(昭和33)年に再建された。

社は階段を登った台地の上にある。 
坂下にはかつて小石川(矢端川、千川)が流れており、一帯は明治末頃まで「氷川たんぼ」と呼ばれていた。 千川は洪水が多く、1934(昭和9)年という早い時期に暗渠化された。共同印刷前の通りで、現在は千川通りとなっている。階段下には「千川改修記念碑」がある(鳥居の右側、および写真右)。



周辺の情景 と 橋からの眺め

巣鴨 大鳥神社
小さな神社であり、収入を確保するためか、境内は可能な限り駐車場となっている。
創始は 1688年(貞享5年)ということだ。
明治末の地図には 単に「イナリ」となっていたが、敷地内にある「子育稲荷」のことで、小さなその社には、油揚げがたくさん供えられていた。 

橋から 次の巣鴨橋を
線路がほぼ水平なので、水平のビームで橋が隠れてしまう。

Topへ 山手線が渡る橋・くぐる橋 高橋俊一 巣鴨橋 へ