山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋 駒込 → 田端
− 架道橋 (ガード) ・跨線橋 −

8. 道灌山隧道 跡
2010年3月15日 掲載、2020年9月小改定

田端側から
かつてここにトンネルがあった、という動かぬ証拠。せっかく今まで残った明治の遺構なので、「鉄道遺産」に指定して、閘門だけでもいいので 発掘・保存・公開することをお願いしたい。

当初、旧山手線複線時代まで使われていた唯一のトンネル、と書いていたが、1885(明治18)年に開通した日本鉄道品川線に、もうひとつトンネルがあった事を見落としていた。
『図説 駅の歴史』に載っている貴重な資料である「線路図」に、
”NAGAMINE TUNNEL 120' LONG” と記載されている。目黒駅のすぐ南にあった「永峯トンネル」である。調査していずれはアップしたい。           2011年3月3日 訂正

道灌山トンネルの場所は富士見橋のすぐ横で、坑門のパラペットの一部が今でも見えている(トップの写真)。
山手線の池袋 ‐ 田端間が開通した 1903(明治36)年に作られたが、1925(大正14)年の複々線化後に使われなくなった。
トンネルの痕跡(富士見橋から見下ろす)
左下に見えるのが、坑門のパラペット(頭の飾り)である。 裏側から見ている。
このさらに6mほど下が線路敷だったわけだが、終戦後に戦災のガレキで埋められたという。現在の法面舗装は、東北新幹線建設工事の仮設構台が取り払われた後で、整備されたものだろう。


詳しい内容で信頼性が高い 『山手線誕生』の中村建治氏が、「一部には最初からトンネルを掘らなかった説がある」と記述している。工事のやり方「工法」としては、山岳地帯のトンネルとは違っていたかもしれないが、短い「トンネル」があった事は間違いない。現実に残るパラペット以外にも幾つもの「資料」がある。
 1.写真で見る『山手線100年』78ページのトンネルの写真
 2.『土木建築雑誌』7巻二号の中里隧道工事の写真
 3.日本鉄道 年報の記述
 4.明治〜昭和時代の地図
 5.戦後すぐの空中写真

『100年史』の写真は著作権の関係で掲載できないのが残念だが、まず 2.『土木建築雑誌』の写真を掲げる。

一部竣工せる駒込口坑門
「右側の二線は山手電車線、其の右側二線は山手貨物線にして、本隧道の竣工後は廃止するものなり」 (同書より)
1928年発行の『土木建築雑誌』7巻二号の 新島武三郎「省線田端駒込間中里隧道工事(一)」 によると、中里トンネルは 1925(大正14)年3月、すなわちここの複々線化が完了した時に掘削工事が始まり、工期を縮めるために、両側から掘り進められた。
初めて、道灌山隧道の写真を掲載することができたが、撮影日は不明。1925年の7月頃と考えられる。
道灌山トンネルは初めから2線を通す「複線断面」だった。
中里トンネルの下り線(左手前)の閘門はコンクリートを打ち終わっているが、すぐ右奥にある上り線の閘門は まだできていない。
中里トンネルが完成するまでは、これまでのルートで東北本線に接続するために、右側の貨物線を生かしておく必要があった。
新線は使用中のはずだが、道灌山跨線線路橋の上で、梯子に登って点検作業をしている。たまたまか?
それとも、複々線化後の一定期間、旧線を使っていたのか?

3項目(黄色)は 極めて重要な意味があり、田端駅のホームの増設に伴う移転計画に大きな影響がある。


3.日本鉄道年報
1906(明治39)年に国有化される前の 5年間の年報が、国会図書館でデジタル化・公開されている。 

その 1902(明治35)年版 12〜13ページには、第二章 新線工事のまとめとしての一覧表があり、池袋 - 田端間の部に「隧道」の竣工が記載されている。
長さは わずか 39フィート6インチ。12 mである。幅は2線分だから、トンネルの上には痩せ尾根のように土が盛られて、道路が通っており、レンガによる「アーチ橋」と言ってもよいかもしれない。なぜ そんに短いトンネルを作ったのか? やはり、「コストと工期」だろう。
(仮称)道灌山隧道 の位置 (山手線の外側から)
トンネル入口と道路が近い事がわかる。
なにしろ、幅12 m の上に道路が通っていたのである。
 

日本鉄道時代 品川線および池袋・田端線の新設では、線路を敷く時に存在していた「道路」には、踏切・橋・ガードなど 何らかの形で道を作る努力をしている。
工期に余裕はなく、もちろん安い方がいいわけで 踏切で済ませれば一番だが、地形の関係でそうもいかなかった。

別名豊島線は 当時の海岸線(常磐線)と品川線、ひいては東海道線とを結ぶ、いわば「短絡線」だった。

道灌山を突っ切るルートを選んだが、田端からいくらも離れていないために、千分の十という急勾配で登って来ても、掘り割りにすると極めて谷が深くなり、背の高い陸橋を架けなければならない。当初は2線分で橋長はさほどではないため陸橋も可能だったと思うが、最終的には、前後は深い切り通しを掘って凌ぎ、最小限のトンネルにするのが技術的にも安心で、費用も安くなった?と考える。

4.明治〜昭和時代の地図
1909(明治42)年 の地図 復刻版 元版は一万分の一
豊島区地域地図 第四集/豊島区立郷土資料館(以下同様)
中里用水架道橋       中里橋 
1903(明治36)年に単線で開通した状態。現在の第二中里踏切の手前から「切り取り」となり、田端へカーブしていく。
トンネルの上に土盛りされている状態までが 表現されている。
 
1929(昭和4)年 の地図 復刻版 元版は一万分の一
中里用水架道橋     第二中里踏切   道灌山跨線橋
複々線工事が行われた状態。
新しい電車用の複線には「富士見橋」が架けられ、トンネルは坑門の記号が残っているがレールの記号は無い。

5.戦後すぐの空中写真
1947(昭和22)年 の写真
終戦から2年だが、まだ坑門が埋め立てられていない。
 
前掲写真の 部分拡大
写真の向きが少し変わっている。この時には 二つのトンネルを同時に見ることができた。が中里トンネル。


トンネルへのアプローチ
旧山手線は、緑色のネットが被せてある 資材置き場の部分、写真の真ん中を直線で富士見橋に向かって進み、手前で右にカーブしながら田端へと抜けた。もちろん、どんどん下りながら。
正面に見えたはずの トンネルの駒込側は完全に埋められ、上部に北区のリサイクル活動・センターである「エコー広場館」が建てられている。
現在の湘南新宿ラインは、山手線をくぐるために右側に膨らんだ後、最終的には 120度近く向きを変えて、北西に進む。



位 置 (戦後の様子)
1947(昭和22)年8月の空中写真/国土地理院
   駒込駅                         田端駅

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