| 山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋 | 鶯谷 → 上野 | 
| 2.両 大 師 橋 | 
| りょうだいしばし。 上野駅のすぐ北側で、公園から下谷・北上野方面に渡る橋であるが、橋自体の住所は上野七丁目にすっぽり収まっている。 JRでは、田端-上野間の橋には決まって「坂」の名が付いているのだが、両大師橋だけが例外で、昔の坂の名前「屏風坂」が付いていない。 鉄道が敷かれた当初は その坂を下りたところに踏切があった。  | 
    
| 全 景 (山手線の内側から 鶯谷方向 を見る) | 
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| 半分がコンクリート、緑の部分は鉄骨製で、はじめは そこだけ架け替えたような印象を受けたのだが、1970年頃に全面的に架け替えられたようだ。 | 
| 全 景 (上野駅から) | 
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| 常磐線 9 ・10番線。 先端まで行けば 橋はすぐそこ。 15両編成 300mのホームは、ほんとうに長い。  | 
    
| 遠 景 (上野駅から) | 
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| 東北本線 5番線。 山手線のホームよりは橋に近い。 | 
| 近 景 (上野駅から) | 
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| 地上ホーム 15番線 より。 鉄骨に架け替えた部分は、2階ホーム用の柱(グレイの丸柱)の上に橋脚が立っている。 | 
| 山手線の内側からの 近 景 | 
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| 山手線の内側からの 全 景 (上野方向を見る) | 
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| 平地側では北方向に斜路がある。 一代前は両方向への斜路だった。 | 
| 和風デザインの 親柱 | |
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| 広々とした道路部分 | 照明灯部分 | 
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| 通行量が少ないせいもある。 | |
| 平地側 橋の端部 | 
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| 左半分は、南側に下りたい歩行者のためのジグザク斜路。 右側に車用の斜路が伸びている。  | 
    
| 斜路を下りて行くと・・・ | |
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| 斜路の下に「先代の斜路」が残っている! 正確な建設年次は不明。 斜路が広くなったのは確実で、一部は歩道になっている。  | 
    
| 斜路の端部 | |
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| ■ 両大師橋 データ | ||||
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      位 置: | 台東区上野公園〜台東区上野七丁目 | ||
| 管理番号: | − | |||
| 道路名: | ||||
| 橋 長: | 約 110 m (斜路は別) | |||
| 幅 員: | 約 15 m | |||
| 竣工年: | 初代 : 1928年(昭和3年)頃 下御隠殿坂橋と同じ時期と推定 架け替え: 東側桁の銘板:1970年(昭和45年)3月 西側コンクリート桁:1971年(46年)12月  | 
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| 跨ぐ線路: | 5線 : 山手、京浜東北線4線、 引上げ線 1線、保線用 1線 7線 : 東北本線(宇都宮、高崎、常磐線) 5線 : 地平ホーム常磐線 等 3線 : 引き上げ線 合計 21線  | 
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| 備 考: | 部分的に2階建てとなっている コンクリート橋脚までが地面  |     |||
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| 名前の由来: | 輪王寺両大師堂の近くに架かる橋 | |||
| 両 大 師 堂 | 
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| 両大師とは、慈恵(じえ)大師 (良源 912-985) と 慈眼大師(天海 1536? - 1643)である。 一万分の一の地図では、両大師堂となる前の名称は「慈眼堂」だった。  |     
| 寛永寺の説明書では、 開山堂(両大師堂) となっている。 家康に仕え、秀忠と家光に取り立てられて 上野の山に寛永寺を開いた慈眼大師(天海僧正)を祀るお堂として、1644年(正保元年)に建立されたもので、後に天海が尊崇していた慈恵大師も祀って、両大師堂と呼ばれるようになった。  | 
    
| 両大師橋 の歴史 | 
| 江戸時代の様子はわからないが、明治の初めに博物館ができた状態では、上野の山から下谷方面に下る坂は 北から「信濃坂」 「屏風坂」 「車坂」 と
      もう一本の4本があり、後に屏風坂のところに両大師橋が架けられる。 上野駅と近いだけに、その歴史と大いに関係する。  |     |
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| 1883年(明治16年) : 日本鉄道 上野-熊谷間 開通、上野駅開業 | 
| 線路の開通と踏切 1884年(明治17年)測量の地図 | 
| 東京五千分の一 北東部 / 元版 参謀本部陸軍部測量局 複製版 | 
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| 信濃坂 屏風坂 車坂 もう一つの坂 | 
| 駅の敷地は元 寛永寺の僧坊があった場所で、維新後は政府が官営地として所有していたものを借り受けた。 屏風坂下は踏切 @ となっている 。 | 
| ■跨線橋ができる | 
| 跨線橋 1909年(明治42年)の地図 | 
| 国土地理院 旧版一万分の一 に加筆、以下同じ | 
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| 信濃坂 屏風坂 車坂 上野駅舎 | 
| 線路を跨ぐ跨線橋▼。 また、台地の端に屏風坂を跨ぐ橋 A が架けられている。 右に伸びている線路 Bは、1890年(明治23年)に秋葉原秋葉原まで開通した貨物線である。 | 
| ■ダブル跨線橋 | 
| ダブル跨線橋 1916年(大正5年)修正の地図 | 
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| 日暮里-上野間の線路が7線、駅構内の線路も増えて、跨線橋の長さも長くなっている。 平地に架けられているので、階段の付いた人道橋だろう。  踏切が残っているのか、なくなったのか、はっきりしないが、それまで車が通れたのだから、踏切は生きているだろう。  | 
    
| 1921年(大正10年)の修正図は、上図 大正5年 と変わりがない。(省略) | 
| 1923年(大正12年)9月 : 関東大震災。 上野レンガ駅舎が崩壊。 | 
| 1925年(大正14年) : 上野-神田間の高架線開通。  山手線の環状運転が始まる。  | 
    
| ■架道橋が 部分的に架橋される | 
| 架橋の開始 1925年(大正14年)修正の地図 | 
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| 慈眼堂 凌雲院 ↑上野公園口 | 
| 1923年(大正12年)の震災後の2年間に 大きな変化があった。 駅舎の輪郭線は同じだが、初代のレンガ駅舎は「消失」して、仮駅舎で営業再開したそうだ。  | 
    
| ・ ・ ・ ・  | 
      山の下の道ぎりぎりの所に電車線2線が高架で新設され、貨物線とは別のルートで神田駅とつながる C。 屏風坂が埋められて、電車線4線分に初代「両大師橋」が架かけられている。 工事の途中ということだろう。 それに続く跨線橋は、市電が走っている「入谷口通り」▼まで伸びている。 入谷口通りの形(図の左端D)が変わり、構内の建物が取り壊されて、増線の準備が始まっている (図の空白部 E )。 現在の上野公園口▲ができている 。  | 
    
| なお この時点では、両大師橋西のたもとの寺名は まだ「慈眼堂」である。 | 
| 1927年(昭和2年) : 地下鉄銀座線 上野-浅草間 開通 | 
| 1928年(昭和3年) : 貨物線が高架線に切り替えられる。 山下口(現 広小路口)使用開始 京浜東北線が 横浜-赤羽間まで 延長 この時期に付近の踏切が一斉に立体交差化された。  | 
    
| 1929年(昭和4年) : 常磐線が高架線発着に切り替えられる | 
| 橋は未完成 1930年(昭和5年)測量の地図 | 
| ↓地下鉄車庫、現 検査場 | 
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| 橋は線路全体を跨ぐところまで できているが、まだ「斜路」が完成していない。 | 
| ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・  |       ホームが全面的に更新されて現在の形ができている。 1932年に竣工する「二代目上野駅舎」の工事が▼で始まる。 常磐線を高架ホームに入れるための、立体交差F が完成。 「昭和通りG」が新設され、入谷口通りを走っていた市電は、斜路を作るために移された。 秋葉原方面の貨物地上線が廃止された。(実際は1932年7月) 公園口から広小路に下りるスロープが整備されたH。 慈眼堂だった寺の名が、「両大師」に変わっているI。 科学博物館ができたJ。  |     
| 1932年(昭和7年) : 上野駅本屋竣工 | 
| 屏風坂橋? の完成 | 
| 次の図面は『上野駅改良工事概要』(鉄道省東京第一改良事務所/1932)にある駅全体図である。 両大師橋▼も表されているが、その名称が以前の「屏風坂」のままである。  | 
    
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| 上の図面はあくまで図面であり、駅舎が完成した1932年(昭和7年)4月時点では、橋も完成していた証拠にはならない。 橋の竣工年は、ホームページ『昭和からの贈り物』によると、竣工は1933年(昭和8年)2月 となっている。 しかし、橋の当初の名称、あるいは「仮称」には、やはり坂の名前が付いていたと言えそうだ。  | 
    
| 斜路が完成 1937年(昭和12年)修正の地図 | 
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| 斜路が完成したが、現在とは違って左右にある。 地図には橋の名称は無い。 地図の変遷から、両大師橋の完成は 1932年(昭和7年)から 37年(昭和12年)の間ということになる。  | 
    
| 橋の拡大図 終戦後1948年(昭和23年)の写真 | 
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| スロープは両側にある。 | 
| ↓ | 
| 架け替えられた橋 | 
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| 空中写真 国土画像情報/国土交通省 CKT-84-3(昭和59年)C9 | 
| 常磐線を下の地平ホームに入れるための立体交差化が、1968年(昭和43年)に鶯谷駅付近で行われ、それと前後して、1面増やされていた高架ホームの数がもう1面増やされて、12番線までとなった。 この改造工事に伴って、両大師橋の東半分(図では上側)が鉄骨造に作り替えられた。 鉄骨部の銘板(製造年)は 1970年である。 橋の山側(写真では下側)、線路の10線分は地上にあり、人工地盤ではない。 この部分はコンクリート製の橋脚・桁で、コンクリート桁にあった銘板は 1971年である。 つまり、全面的に造り直されたことになる。 架け替えの期間は全面通行止めだったのだろうか? それとも仮設の橋があったのだろうか?  | 
    
| ずらりと並ぶ PC桁 | 鉄骨部は 2層分の高さ | 
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| 付近の情景 | 
| 地下鉄の踏切 | 
| 電車マニアの間では有名なのだろうが、調査以前にはまったく知らなかった。 場所は、両大師橋を下りて 昭和通りを越えた所。 普通の踏切と違うのは、線路に人がはいらないように、線路に直交する「遮断柵」が付いていることである。  |     
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| 高い位置で道路を横断している水色のトラスは、左右のゲイトをつなぐ梁であり、遮断機構とは関係していない。 | 
| 電車が通る様子を 順に並べてみたい。 | 
| 遮断機オープン 線路上のゲートは下りている | ||
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| まず 道路の遮断機が下りる | ||
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      線路上のゲートが上がる | |
| → | ![]() ↓  | 
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| 電車の登場 | ||
| 反対側のビルの中へ | ![]() 道路横断は「惰性」で走行か、蓄電池があるのか。  | 
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      ← | |
| ↓ | ||
![]() 建物とのクリアランスが少ないこと!  | 
      遮断機が上がって 完了 | |
| → | ![]()  | 
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| 基地の内部 | 
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