山手線が渡る橋・くぐる橋 | − 架道橋 (ガード) ・跨線橋 − |
番外 1. プラットホーム |
上野駅は日本有数のプラットホーム数がある駅のひとつ。 現在は、高架・地上・地下新幹線を合わせて12本(正確には11本)、22番線まである。(18番線は廃線) 昭和初期までの 増線の歴史をまとめてみた。 |
年 | 線路の数 御徒町 側 |
上野駅 ホームの数 |
線路の数 鶯谷 側 |
備 考 |
1883年(明治16年): | 地平 1 | 1 | 上野-熊谷間 開通 | |
1890年(明治23年): | 地平 1 | 上野-佐久間町に貨物線 | ||
1892年(明治25年): | 2 | 上野-赤羽 複線化 | ||
1906年(明治39年): | 地平 2 | 4 | 上野-日暮里 複々線化 | |
1909年(明治42年): | 地平 3 | 5 | 電車線追加、山手線誕生 | |
1914年(大正3年): | 6 | 電車線を複線化 | ||
1923年(大正12年): | 関東大震災 初代駅舎焼失 | |||
1925年(大正14年): | 地平1、高架3 | 高架1、地平2 | 山手線 環状運転開始 | |
1927年(昭和2年): | 7 | 尾久への回送線追加 | ||
1928年(昭和3年): | 高架 5 | 高架4、地平3 | 現在の形が完成 地上貨物線を高架に切り替え |
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1929年(昭和4年): | 常磐線を高架に切り替え | |||
1931年(昭和6年): | 8 | 回送線追加 | ||
1932年(昭和7年): | 高架 7 | 駅舎本屋 竣工 | ||
注) 御徒町側の本数とは、上野駅直近の本数である |
古レールによるホームの屋根 |
『上野駅改良工事概要』1932年(昭和7年)発行にある図面では、昭和3年12月に完成した4本の高架ホームには、日暮里駅と同じような、ホーム間に柱を立てて ホームには柱がない、連続した古レールの上屋が描かれている。 |
『上野駅改良工事概要』/鉄道省東京第一改良事務所・鹿島組発行/1932年 |
ホーム上の柱 と 線路間の柱は互い違いに立っており、上の図面は線路の柱のところを切った、全体の断面図である。 工事完了後、山手線環状運転開始時 1925年(大正11年)11月に 鉄道省による『東京市街高架線 東京上野間建設概要』が発行されている。 その図面は施工された部分、第一乗降場と3線分の高架橋だけであるが、ホーム上には点線で柱が示されている。 また写真も載せられている。 |
1925年(大正14年) 山手線環状運転開始時の第一乗降場 |
まず第一乗降場だけが完成した状態の写真である。 手摺り壁は大理石張。 電球を使用した照明器具が、優雅に吊り下げられている。 左側に上野公園への坂道があり、柱の状態は現在も同じである。 |
1930年頃の様子 |
日本地理風俗大系U/光文社/1931年(昭和6年)発行 より |
第一乗降場に続いて4面のホームが建設された。 現在は、第二乗降場との間の柱はすべて切り取られてしまった。 |
1番線から 8番線まで、6両編成時代のホームはすべて同じ構造である。 電車ホーム(第一・第二乗降場)と列車ホーム(第三・第四乗降場)は位置がずれているので、それぞれ最初から二連しかなかった部分もある。 また、電車と列車のドアの高さが違うので、線路からホームまでの高さが異なっていた。 現在は、4〜8番線のホームも18cm嵩上げされて同じ高さである。 その後の様々な改修工事や パンダ橋の横断などでオリジナルが取り除かれている部分も多い。 特に、線路の間にあった柱のほとんどが撤去されてしまっているため、日暮里駅のような雰囲気はない。 |
3 ・4番線 オリジナル部分 |
ホーム間のスパンは約17mであるが、ホームに柱を 5mの間隔で立てたので、電車を跨ぐ部分が6m、ホームが5m、反対側に6mの間隔で柱が立っていた、ということになる。 |
1 ・2番ホーム |
階段の数段下から見上げる。 |
ホームから 山手線の内側を見る | |
端部であり、線路の外側に建てられた柱は 公園から山下口に下りて行く通路からもよく見える。 右の写真で、ホームの柱と線路の外の柱が互い違いとなっているのがわかる。 |
山手線の内側から | |||
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2000年(平成12年)に竣工した 通称パンダ橋部分では、2スパン分の屋根が取り払われた。 非常停止ボタンの取り付けや掲示板代わりに、円筒形の柱(カバー)は残してある。 |
建 築 年 : 1925年(大正14年)の高架線開通時 または その少し前 柱 の 数 : 2本柱 元の数 16本 梁が撤去された柱 2本。 (パンダ橋部分) 柱 間 隔 : 約 10.6 m 柱スパン : 5m (ホーム上の2本の間隔) 桁つなぎ : アングル・トラス 棟 高 さ : 約 6 m 屋 根 : 山型、波形スレート、母屋 : チャンネル(オリジナルかどうか?) 3 ・4番線ホーム(第二乗降場)も共通である。 |
3 ・4番ホーム |
ホームの御徒町寄りの部分。 長さにまだ余裕がある。 |
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撤去された柱 | |
現在、第一と第二の間 および 第二と第三ホーム(乗降場)の間にあった柱は、すべて撤去されている。 これは3 ・4番線(第二乗降場)のホームの両側を、90cmずつ広げたためだ。 1948年(昭和23年)の空中写真を見た筆者は、てっきり第二ホームの幅が狭かったために広げたのだ とばかり思っていた。 |
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実際は前掲の図面通り、4本のホームの幅は同じ 約 9.2mであった。 1番線の屋根が線路の外の柱近くまで極端に広くなっていて、第二ホームの屋根が小さく見えたためである。 |
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途中が途切れているが、現在でも 約5両分は電車にまで屋根が架かっている。 |
カットされた つなぎ梁と柱 |
2番線から 3番線を見たところ。 第一ホームと第二ホームの間で、鶯谷方向を見ている。 ここには線路の間に柱が立っていたが、ホームを広げるために切り取られてしまった。 第三ホームと第四ホームとの間には、かなりの本数のオリジナルの柱が残っている。 |
一部に残る 中央柱 |
7番線 6番線 |
切断面の処理 | |
3番線 広げられた第二ホーム 4番線 | |
3番、4番 ともに 手前の茶色い花崗岩部分が オリジナルのホーム。 |
上の2枚の写真とは逆方向、御徒町方面を見ている。 |
5 ・6番ホーム |
延長されたホーム |
5・6番線の鶯谷方向の延長部分は、古レールだが、溶接で作られている。 戦後のことであるが、竣工年は不明である。 |
7 ・8番ホーム |
ホームの幅が拡張されたのは第二ホームだけで、5〜8番線(第三・第四ホーム)はもとのままである。 このため線路の中央の柱を切らなくとも、電車の通行には支障がないところから、数本だけはオリジナルが残っている。 カットされたのは、パンダ橋や中央通路などの架設と、 第四ホーム(7 ・8番線)上屋の更新のためである。 |
御徒町寄り | |
←9番線 8番線 7番線 6番線→ |
上の写真では、2本は残されているが切る必要がない手前の一本が途中で切られている。 端部の処理はされておらず、柱を切った残骸と基礎も残っている。 |
残された オリジナルの基礎 | |
鶯谷寄り |
7番線 6番線 |
ここでは 7番線の上屋が造り直されたために、片側だけカットされた。 |
4連の端部 (8番線と9番線の間) | |||
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構内の美術品 |
朝倉 文夫 彫刻二題 |
台東区は上野駅開設75周年と、東北特急はつかり号の運転を記念して、朝倉文夫の彫刻作品 「翼」を国鉄に送った。 1958年(昭和33年) 現在は中央改札口横に設置され、待ち合わせ場所のひとつとなっている。 |
その記念式典に出席した朝倉は 上野駅の開業日が 自分の誕生と同じ年であることを とても喜び、台東区を通じて もう一つの像 「三相 智情意」を送った。 |
像の説明書き より |
こちらは地平ホーム 16番線の手前にある。 3人のうちの一人は、朝倉の代表作「時の流れ」1917年(大正6年)と同じポーズをしていた。 両像とも、設置場所は何度か変わっている。 |
猪熊弦一郎 |
制作や作家選定の経緯はわからない。 1951年(昭和26年)制作、1984年と2002年に修復が行われている。 |
題は「自由」。テーマは上野駅から向かう各地の光景で、左から スキー、牛、リンゴ園と収穫、放牧・牧場、海の幸、温泉・入浴、登山・ハイキング、林業、狩猟 などの人物画が描かれている。 |
平山 郁夫 ステンドグラス |
題は「ふる里 日本の草」。 上野・浅草と東北各地の花を扇面に描いたデザインで、平山郁夫のイメージとは異なる。 上野はもちろん「サクラ」。 サイン部分に 1985年(昭和60年)春 とあるが、完成年かどうかは不明。 |
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