山手線が渡る橋・くぐる橋  − 架道橋 (ガード) ・跨線橋 −

神田 → 東京
7. 新石町橋 高架橋

しんこくちょうばし こうかきょう。

神田駅ホームが掛かる 最後の高架橋。 中央線部分は鍛冶町橋高架橋とは違って、コンクリートのアーチ構造で造られている。

     第 鍛冶町橋高架橋 鍛冶町橋高架橋
←秋葉原 鍛冶町橋高架橋 新石町橋高架橋 東京→

山手線の内側から 以下のような仮称を付ける。 上の写真には写っている「C部 2線」(現在は東北新幹線)は、本高架橋には掛かっていない。
  
  
 : 中央線 ・京浜東北北行きの3線
 : 山手線2線、京浜東北南行きの4線
 : 1919年(大正8年)開通
 : 1925年(大正14年) 

竣工当初の名称
「町を横断して架かる橋」 ということから、当時の町名に「橋」を付けたのが名称となっていた。  現在の名称は、それにそのまま「架道橋」を付けたもの。

このレンガ仕上げは オリジナルか?
千代田橋架道橋からひとつ目のアーチ。 オリジナルとする根拠は、
  @形が不揃い、Aエッジが直線ではない、B凍害を受けている。

これに対して明らかに補修した新しいタイルは、エッジが直線で角が鋭く 表面が滑らかで、現在もきれい。 しかし、あくまで推測である。



A 部分 : 2線分、高架橋本体の竣工時期:1919年(大正8年)1月頃
       現 中央線2線は 同年 3月1日開通。
       現 京浜東北線部分は 1925年(大正14年)11月開通

山手線内側の様子
↑新石橋架道橋 千代田橋架道橋↑

構造は 拱橋式
高架橋は新橋付近から始まり、 東京-神田間の常盤橋ガードまでのほとんどが、純レンガによる【拱橋】・アーチ構造であった。

その後はコンクリートの【拱橋】に加えて、地盤が悪い所では重量の軽い「スラブ形式」が採用された。 高架下の空間を利用しやすい という事も考慮された。  スラブ式には橋脚の形によって「壁式」 と 「単柱式」がある。

市街線橋梁立面図 (部分)
『東京市街高架線東京万世橋間建設紀要』鉄道省/1920年発行
下段のアーチ形式が新石町橋の断面図で、スパン(橋台面間長)は 32フイート、約 9.7m である。
上に 第2鍛冶町橋 立面図、上白壁橋を挟んで 左側に第1鍛冶町橋の断面の一部。 アーチ形式では基礎の数が半分であるし、砂利を充填するために重量が重くなり、地盤が悪い所では不利となる。

一期工事 竣工時の写真 1919年(大正8年)
『東京市街高架線東京万世橋間建設紀要』鉄道省/1920年発行
山手線の外側から 東京駅方向を見ている。 内側は道路に面しているのでレンガで化粧したが、外側はすぐに二期工事が始まって見えなくなるので、モルタル塗り仕上げである。  見えている架道橋は千代田橋。

アーチの下は飲食店 (山手線の内側)
ガード下には店舗、事務所、倉庫、パチンコ屋や映画館まで入居している所もあるが、駅近くはなんといっても飲食店が多い。 
ここには10mの間口に飲み屋が 店舗。 ところが入口は つしかない!

大震災による被害
中央線開通から約4年後に起こった関東大震災で、神田駅は火災にも見舞われて、大きな被害があった。

高架橋の外壁がどこまで被害に遭ったかは不明だが、現状は全面的に均質のきれいなタイルが張られているところを見ると、震災後に改修された可能性もある。
駅から離れるほど被害は小さかったようで、一部だがオリジナルの石材が残っている。

千代田橋 橋台のコーナー

上3段と








ここは
色が黒い
架道橋の橋台は「高架橋」の端部であるため、ここで取り上げる。
コーナーの石の部分の色が 白い所と黄土色のものとがある。 白い部分は火災の被害を受けた後に、擬石仕上げで補修した部分である。

←擬石





←御影石





←擬石
  仕上
ポスターを張った跡でわかりにくくなっているが、中央の一段と上部3段は完全な形で残ったので、オリジナルを生かしたものだ。 レンガの方はオリジナルかどうか不明。
それにしても、この錆びた看板はなんだったのだろう・・・・・。

大震災による被害 - 2
鉄塔は残った (震災後の新石橋)
『関東大地震震害調査報告 掲載写真』第二巻 鉄道/土木学会 より
新石町橋高架橋の上から 神田駅を見ている。 中央に一部見えるアーチが新石橋ガードに面する 現在の西口。  ホームにあった上屋は完全になくなっている。 しかし ここに写っている鉄塔は現在も健在である。

左側の鉄塔が 前掲の被害写真 左端のものであるが、逆の方向を見ている。

右の写真や以下の写真は6本残っているオリジナルの色々な場所のものであるが、高架橋の端のものは すべて地上から長い鉄塔で補強してある。 同じデザイン、リベット止めで、恐らく 震災後 間もなく補強されたものと思われる。 

山手線の内側から 補強鉄骨の足元



B 部分 計 4 線、 :1925年(大正14年)11月開通
現在の山手線と京浜東北線の4線で、構造はスラブ式(ラーメン構造)である。 開通当初は 山手線と京浜東北線は2線を共有、あとの2線は東北本線であった。

次の千代田橋架道橋で見てみると、増設されたのは「4線分」であって、1線目の片側は一期工事の橋台に乗っている。

この原因は、新石町橋高架橋のひとつ北 「第3鍛冶町橋高架橋」からは、一期工事が「3線分」となるためで、ここ新石町橋高架橋がその過渡期の場所となっているようだ。

                 千代田橋架道橋の下         2011.6.21
     中央線上り             新設第1線(現京浜東北線北行き)
↑一期工事 の橋台は中途半端なサイズとなっている。   二期工事↑

一期工事は【拱橋】アーチ構造、二期工事は【スラブ式】ラーメン構造の違いは、
壁 と 入居した店舗 で対比される。 連続写真を合成してみた。



山手線の外側から (新幹線の下)
↑千代田橋架道橋    三角形の高架橋の頂点部分を見ている。


D 部分 旧東北線2線、現 新幹線
        旧東北本線の撤去時期 :1989年(昭和64年)頃
        新幹線建造時期 : 1990年(平成2年)頃
鍛冶町2丁目だけが 新幹線用地の新たな買収に応じなかったため、旧東北本線部分(C部分)を使わざるをえなかった。
2線が撤去され、同じ場所に巨大な鋼鉄製の連続橋梁で建造されたため、新幹線部分は柱の数が少ない。

                   山手線の外側から           2011.4.1
正面のガードは 千代田橋架道橋。



位 置 (終戦後の様子)
龍閑川               1947年(昭和22年)7月の空中写真/国土地理院
       神田駅                外濠                               東京駅

新石町橋高架橋 データ


位 置: 千代田区鍛冶町二丁目
管理番号:
道路名:
線路の数: 計 8 線 (下記 A〜D は仮の呼び名)
A: 2線: 中央線
B: 4線: 山手線、京浜東北線
D: 2線: 新幹線
橋 長: 山手線の内側で 約 95 m
アーチの数: 4 (+1)
竣工年: A: 1919年(大正8年)1月頃
B: 1925年(大正14年) 計6線に
C: 1956年(昭和31年)2線増線開通
   1979年〜84年(昭和59年)の間に
             新幹線工事で撤去
D: 1990年(平成2年)頃 新幹線高架橋
備 考:
名前の由来:  旧町名に由来する。
町名の由来: 江戸時代、周辺は色々な職人が住む町で、鍋町・鍛冶町・紺屋町・大工町・塗師町など、それぞれ職業にちなむ町名が付けられた。 
新石町の「石」は「石 いし」ではなく、米の単位である「石 こく」である。 米や穀物を扱う問屋が集まっていたためにそう呼ばれるようになった。

明治末頃の地図では、現在の江戸通りを挟んで「本石町」が一丁目から四丁目まである。 そこが元は「石町」だったが、神田寄りに「石町」ができたために「石町」と改称されたそうだ。 現在は日銀周辺に「日本橋本石町」が残っている。


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