山手線 が 渡る橋 ・くぐる橋 | ![]() |
渋 谷 駅 | |
地図については 脚注参照 |
渋谷駅 の 歴史 |
2012年10月29日 掲載、11月8日 追加・修正 2021年5月 地図を大きくし、空中写真を追加して加筆補強 |
地図や空中写真の利用が緩和され、またネットでのダウンロードデータの精度も高くなったため、写真を多用して渋谷駅の歴史を見直した。 |
![]() 渋谷マークシティーの岡本太郎 2011.6.25撮影 |
山手線で最も歴史のある駅のひとつで、開業は約140年前。 |
山手線を中心にして、玉川線・井の頭線・東横線・銀座線・半蔵門線・副都心線が加わり、更には湘南新宿ラインの駅も増えたり位置が変わったり。それらの相互関係は基本的には変わらないものの、高架化や地下化などのホームレベルの変更や、地下鉄との相互乗り入れなど、目まぐるしい変化が続いてきた。 |
渋谷駅には右に示す 1.〜7. の橋が直接関わっているが、その詳細は各項で述べることにして、このページでは地図と写真で渋谷駅と周辺の変化の様子を見ていきたい。 |
長らく継ぎ足しで発展してきた渋谷だが、この10年の再開発で、分かりやすく便利な駅に生まれ変わるための大変身を遂げようとしており、まだまだ工事の途上にある。 |
本ページは 次のような構成となっている |
1.品川線開業 | 1885(明治18)年3月 | |
2.複々線化と二代目駅舎 | 1925(大正14)年まで | |
3.三代目駅舎 | 1926年〜1937(昭和12)年 | |
4.銀座線開通 | 1938(昭和13)年〜 | |
5.戦後の発展 | 1946(昭和21)年〜 | |
番外:跨線連絡橋 | 1955(昭和30)年 | |
5b.戦後の発展 続き | 1956年〜 | |
6.地下化の動き | 1969(昭和44)年〜 | |
7.銀座線渋谷駅の移設 | 2020(令和2)年 |
注) すべての地図・空中写真は、レイアウト上から方位を90度回転している。 |
1.品川線開業 |
1885(明治18)年3月1日: 日本鉄道 品川 - 赤羽間 単線開通 |
開業した駅は 品川・渋谷・新宿・板橋・赤羽の5つ。少し遅れて3月16日に、目黒・目白駅が開業した。 |
地図A 1897年頃:単線時 | ||
![]() 2万分の1地図、品川驛・二子村・内藤新宿・板橋驛・下谷區を合成したものに加筆 / 陸地測量部、国土地理院 |
→赤羽 |
開通時の線路勾配図によると、現在の恵比寿駅を過ぎたところから現渋谷駅ホームまで、約 1,130mは水平だった。駅の標高は15.3mで、今の駅よりも5mほど低い。 |
1901(明治34)年:大崎駅、恵比寿貨物駅 開業。品川線→山手線となる。 | |
1903(明治36)年4月:山手線 池袋-田端 開業 | |
1906(明治39)年:大崎-渋谷間 複線化完了 原宿・恵比寿(旅客)駅 開業 |
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1907(明治40)年:玉川電気鉄道 渋谷-玉川間 開業 (地図B 点滅部) | |
当初は主に多摩川の砂利運搬用に敷設されたもので、駅の北側にある広場は砂利置き場で、ここで山手線に積み替えた。 |
初代ホームのあった場所 | ||
現在は、 このホーム は移転した |
![]() |
2012.10.2 |
山手線ホームから恵比寿方向を見ている。およその位置は旧埼京線ホームの場所で、現在よりももう少し低い位置にあった。 |
2.複々線化と二代目駅舎 | 1925年 環状運転開始まで |
1911(明治44)年:東京市電青山線が渋谷駅前(山手線の内側)まで伸延 |
1916(大正5)年5月:山手線 品川側から複々線化工事 開始 |
地図C 1916年:複線時の渋谷駅 | ||||
南 | ![]() 1909(明治42)年測図 1916(大正5)年 三田 第一回修正測図 に加筆 ・・・・東京市電(点滅) | 北 | ||
山手線は変化なし。玉電は旅客の輸送が始まり、広場には砂利貨物のための留置線ができている。 中渋谷(現在の円山町)の宅地化が著しい。市電は、後に架けられる宮益架道橋の手前で左にカーブしている。 |
1920(大正9)年:高架新ホームに移転 | |
1919(大正8)年の、「の」の字運転開始時ではないだろうかと考えたが、渋谷区教育委員会発行の『渋谷の記憶』に「1920年に移転」とあった。 |
地図D 1921年:新渋谷駅に移転後の状態 | ||||
南 | ![]() 1909(明治42)年測図 1921(大正10)年 第二回修正測図 三田 に加筆 | 北 | ||
駅付近では貨物駅や留め置き線のスペースを使い、原宿側も山手線の外側に増線された。しかし新線2線だけが描かれており、複々線にはなっていない。 ホームは6両編成(120m)に対応したもので、高架駅とするためにさらにレベルを上げ、駅の前後にはふたつの架道橋▼が設けられた。○が新駅舎。 |
渋谷駅 二代目駅舎 |
![]() ハチ公前広場 青ガエル観光案内所内の展示より |
現在のハチ公前広場に建てられた立派な駅舎。左後方にホームへの階段屋根と、ホーム上の建屋が見えている。 この写真は大正末期のものという説明があった。トロリー式の市電が、宮益架道橋をくぐって山手線の外側まで延長されているので、地図Eの頃の写真である。 |
ここで、造成工事の様子を確認するために、地図Dの部分拡大図を示す。 | |||||
地図D-2 1921年: 地図Dの部分拡大 | |||||
南 | ![]() 1909(明治42)年測図 1921(大正10)年 第二回修正測図 三田 に加筆 | 北 | |||
点滅している・・・・は、ホームの長さ(約150m)を示す。 右側の宮益架道橋以北(原宿方向)では4線分の築堤(黄色の網掛け)が完了しているが、駅付近の旧線部分はまだ進んでおらず、元のレベルのままのところが多い。稲荷橋○ は今でも健在。 | |||||
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この時に山手線の外側に造られた石垣が残っている。現在は、大規模な再開発工事の囲いに閉ざされて見ることができない。 |
複々線化時に造られた石垣:地図D-2 の@より |
![]() |
@から渋谷駅方向を見ている。金網のために見えないが、ここから石垣が始まっている。駅に向けて道は下り坂、線路は上り坂。 |
A:石垣の 開始部分 |
![]() |
B:完全に築堤となった部分 |
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ここで高さは 約2.5 m。 |
1921(大正10)年:玉電が山手線をくぐり抜けて、天現寺橋線が開業 |
1922(大正11)年7月:渋谷 - 原宿間 複々線化完成 |
1923(大正12)年3月:市電が宮益架道橋をくぐって伸延する |
同 年 9月:関東大震災 |
地図E 1925年:複々線化完了前?の渋谷駅 | ||||
南 | ![]() 1921(大正10)年 第二回修正測図 1925(大正14)年部分修正 三田 に加筆 | 北 | ||
玉電は駅の真下をくぐり、市電が宮益架道橋の先まで延びている。 地図が修正されたのと同じ年の11月には、山手線の環状運転が開始されるのだが、この地図の旧線部分は地図Dとまったく変わっていない。複々線化が完了していなくても、この状態で環状運転することも可能だが・・・。 |
複々線化が3年前に完成しているはずの原宿側 (地図Eの点滅部分・・・・)も未記入なので、修正が不十分なまま発行されたものと考える。 |
1925(大正14)年11月:山手線 環状運転開始 |
3.三代目駅舎 | 1926年〜1937年 |
1927(昭和2)年8月:東急東横線 渋谷駅開業 (地図F 点滅部) |
地図F 1928年:東急東横線開業後 | ||||
南 | ![]() 1909(明治42)年測図 1928(昭和3)年第三回修正測図 三田 に加筆 | 北 | ||
ようやく山手線が複々線となっている。 『渋谷の記憶 II』によると、三代目の駅舎○ の竣工は1930(昭和5)年だが、すでに四角い大きな駅舎が描かれている。 |
1930(昭和5)年:三代目駅舎 竣工 | |
2代目駅舎はわずか10年間しか使われなかったことになる。 関東大震災で被害を受けたためではないだろうか。 |
三代目 駅舎 |
![]() 撮影は 1953(昭和28)年 |
ヒカリエの工事現場に掲示されていた写真。 駅の出入り口はハチ公広場側。後ろには、まだ増築されていない玉電ビル。この駅舎は1966(昭和41)年まで使われた。 |
1933(昭和8)年4月:東横百貨店 着工(山手線の内側、駅の北端) | |
1933(昭和8)年8月:帝都電鉄(現 京王電鉄) 現 井の頭線 開業 | |
1934(昭和9)年4月:忠犬ハチ公銅像の 除幕式 | |
同 年 10月:東横百貨店 竣工 |
空中写真G:撮影は 1936年 | |||
南 |
![]() 1936(昭和11)年6月11日 陸軍撮影 / B8-C1-18 / 国土地理院 に加筆 これまでの地図よりも、西側を表示している |
北 |
|
現井の頭線・・・・の開業時は帝都電鉄。玉川電鉄と並走しているが、国鉄渋谷駅からは少し離れた位置に高架駅を設け、発車してすぐに円山町の丘をトンネルで抜ける。 |
東横百貨店 (撮影は1950年代) | ||
銀座線 |
![]() Wikipediaより、出典は日本政府『写真公報(1959年7月1日号)』 山手線の内側、宮益坂上空から |
山手線 |
最初にできたのは点滅する枠内の部分のみ。渋谷川の真上に建てられたため、地下1階を川が流れていた。 |
↓ |
解体前の東急百貨店東館 | ||
![]() |
2012.10.2 | |
外装・内装は変更されたが、躯体は約80年もの長きにわたって使われ、今回の地下鉄駅移転に先立って解体された。 |
4.銀座線の開通 | 1938年〜 |
1938(昭和13)年:東京高速鉄道 青山六丁目 - 渋谷間 開業 | |
現在の 東京地下鉄銀座線。山手線内側の東横百貨店を増築する形で地下鉄が建設された。 | |
1939(昭和14)年6月:玉川線が玉電ビルの2階に移転 | |
玉電ビルは一部3階まで建設した後に、工事が中断。 |
空中写真H:撮影は 1944年 | |||
南 |
![]() 1944(昭和19)年6月11日 陸軍撮影 / B8-C1-18 / 国土地理院 に加筆 写真Gよりも、さらに西側を広げている。解像度が低く 状態が悪い |
北 |
|
銀座線は東洋初の地下鉄だったが、ホームを3階に設けるという妙手で渋谷の谷を横断し、その先の円山町の車庫では再度地上レベルとなる。当初から道玄坂方面まで突き抜けたのは、建設した東京高速鉄道が、多摩川方面への延長を考えていたためである。 | |||
ハチ公前と西口では、駅前広場の整備のために家が無くなっている。 |
東横百貨店増築部 (撮影は1950年代) | ||
銀座線 | ![]() Wikipediaより、出典は日本政府『写真公報(1959年7月1日号)』 山手線の内側、宮益坂上空から | 山手線 |
空中写真I:撮影は 1948年 | ||
南 | ![]() 1948(昭和23)年3月29日 米軍撮影 / M859-115 / 国土地理院 に加筆 |
北 |
段差のある玉電ビルの3階が地下鉄、2階に玉電で、地下鉄降車後は前方の改札口を出てから、階段を降りて地上に出ていた。 屋上には増築端があり、後に増築されて東急会館となる。 |
地下鉄から下りる階段 | ||
![]() |
2013.1.20 |
1940(昭和15)年頃:山手線外回りホームを増設 | |
混雑緩和のために内回り・外回りそれぞれ専用のホームとした。しかし、ホームが大きくカーブしているために電車との間に大きな隙間があり、線路に落下する人が多かったという。 | |
1941(昭和16)年12月〜1945(昭和20)年9月:大東亜戦争 |
5.戦後の発展 | 1946年〜 |
1954(昭和29)年10月:玉電ビルの上に増築する形で東急会館 完成 |
同時に、会館と東急百貨店を結ぶ3層の渡り廊下が、 銀座線の直上に建設された |
空中写真J:撮影は 1956年 | ||
南 | ![]() 1956(昭和31)年3月10日 米軍撮影 / M324-389 / 国土地理院 に加筆 |
北 |
東急会館 | ||
![]() |
2012.10.2 |
カーブした壁面のどてっ腹から銀座線。高さ31mを越えた建物としてはごく初期のひとつで、外壁にはカーテンウォールが採用された。2021年に解体が始まっている。 |
今は無き渡り廊下 | ||
旧東横百貨店 | ![]() |
東急会館 |
2013.5.13 | ||
原宿側から。上3層(5〜7階)で結ばれていたが、今回の銀座線ホームの移転工事に先立って解体された。 |
番外:跨線連絡橋 | 1955(昭和30)年 |
1955(昭和30)年:国鉄と東急電鉄間の跨線連絡橋が造られる | |
山手線の東西をつなぐ通路は国鉄と東横線構内をつなぐ連絡通路はあったものの、あとは百貨店内の渡り廊下と、駅前後の架道橋をくぐるしかなかった。 ここで初めて跨線連絡橋が造られ、山手線の中央改札を出てから東横線改札前を経て、宮益坂側に渡れるようになった。 |
空中写真J:撮影は 1956年 |
![]() 1956(昭和31)年3月10日 米軍撮影 / M324-389 / 国土地理院 に加筆 |
位置は銀座線のすぐ南側で、銀座線からの降車口も設けられた。 |
南側 外観 | ||
![]() |
2012.10.31 | |
内回りホームで原宿方向を見ている。リベットが使われた最後の時期の桁。後ろの緑色の壁が銀座線のホーム。 |
銀座線 降車専用改札口 |
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階段の先に 到着した銀座線の車両が見える。 |
銀座線と跨線橋の位置関係 |
![]() |
斜めの部分が前掲の降車改札への階段。 |
内装は木造 | |
![]() |
![]() |
梁と主要構造は鉄骨だが仕上げは木造で、65年間そのまま使われていた。ただしサッシュはアルミに取り替えられている。 |
中央の桁に付けられた銘板 ▼ | |
![]() |
![]() 4行目に 昭和30年の製作年。 →東急の改札口に出る |
主桁は3本で逆梁であるため、中央の梁は階段を左右に分けて出っ張っていた。 |
5b.戦後の発展 の続き | 1956年〜 |
1956(昭和31)年:東口向かい側に東急文化会館と跨道橋 完成 |
1957(昭和32)年:東横百貨店の南側増築 |
空中写真K:撮影は 1957年 | |||
南 |
![]() 1957(昭和32)年10月10日 米軍撮影 / M1010R1-150 / 国土地理院 に加筆 |
北 |
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画面下中央では、高速道路を伴う玉川通りが工事中。 |
東急文化会館 |
![]() Wikipedia より、撮影は2003年4月 |
跨道橋 | ||
![]() |
2011.6.25 |
中間にはバスのりばに下りる階段があった。うしろに 銀座線の車両が写っている。再開発の準備工事が始まっている。 |
1960(昭和35)年1月より:駒場架道橋・渋谷駅 改良工事 開始 | |
東京オリンピックを目差した国道246号(玉川通り)の拡張に伴って、「駒場架道橋」の架け替え、「首都高速3号線」の架設、渋谷駅構内の線形改良工事など、13年間にもわたる改良工事が行われて、ほぼ 現在の状態となった。 | |
構内線形改良工事のの内容は、@ ホームの曲線を緩和して電車との隙間を小さくする、A ホームの幅を広げる、B 10両編成対応用にホームの長さを
220mとするためで、駅の両側を山手線の外側へ、中央部の一部を山手線の内側に移動した。 この結果、内回り電車の最小半径が 380mだったものが 600mに、ホームの幅員を11mまで拡幅するなどの改良が行われた。 |
|
工事は南から北へと行われ、その一環で造られたのが「駒場高架橋」や「宮益高架橋」である。またそれまで3連だった宮益架道橋の桁の1本が取り替えられ、22m 1スパンの桁となった。 「 」内の橋についてはそれぞれの項を参照。 | |
1973(昭和48)年3月:駅改良工事 完了 | |
1963(昭和38)年:渋谷駅西口本屋 竣工 | |
写真Lの ○印 で、鉄筋コンクリート2階建て | |
1964(昭和39)年4月:東横線ホームが 4面となる | |
ホームはカマボコ型の屋根で覆われた。 | |
1964(昭和39)年10月:首都高速3号渋谷線 暫定部分開業 | |
山手線の上を越す 渋谷4丁目〜道玄坂間が最初に開業した。 |
空中写真L:撮影は 1966年 |
![]() 1966(昭和41)年6月29日 / MKT666X-C7B-4 / 国土地理院 に加筆 |
西口本屋(写っているのは一部)と山手線外回りホーム | ||
![]() |
2011.4.19 | |
首都高速の橋脚がホームの構造体を支えている。西口は今まで通り使われている。うしろの建設中のビルは、ヒカリエ。 | ||
東横線 ホーム | ||
![]() |
6.地下化の動き | 1969(昭和44)年〜 |
1969(昭和44)年:東急玉川線 廃止 | |
1963(昭和38)年から都電の廃止が始まり、基本的には路面電車だった玉川線も廃止されてバス路線となった。 | |
1972(昭和47)年:地下鉄半蔵門線の工事開始 | |
1977(昭和52)年4月:二子玉川園 - 渋谷間の 新玉川線開業 | |
六本木を経由して用賀・東名高速に至る首都高速3号線の地下に建設が進められていた。名称はのちに田園都市線となる。 | |
1978(昭和53)年8月:地下鉄半蔵門線 渋谷-青山一丁目間 開業 東急新玉川線と 直通運転を開始 |
空中写真M:撮影は 1979年 |
![]() 1979(昭和54)年10月20日 / CKT794-C13B-6 / 国土地理院 に加筆 点滅は 相互乗り入れのイメージを表す |
宮益架道橋○は、地下鉄工事のためにスパンの大きいものに掛け替えられた。 |
1980(昭和55)年:貨物の取り扱いを廃止 | |
跡地は住宅展示場として使われた。 |
1996(平成8)年:貨物駅跡地に 埼京線ホームを新設。 |
空中写真N:撮影は 2009年 |
![]() 2009(平成21)年4月27日 / CKT20092-C62-22 / 国土地理院 に加筆 1997 および 2001年の写真は解像度が低いため、10年以上を経たものを使用 |
貨物駅跡は土地の取得や路線変更が不要だが、離れた位置にあったために乗り換えには時間が掛かり、「南渋谷駅」と揶揄された。 |
山手線ホームの南に位置する 埼京線ホーム | ||
![]() |
2012.10.2 | |
山手線内回りホームから恵比寿方向を見ている。 | ||
![]() |
2012.10.2 | |
湘南新宿ライン 15両編成対応のために、ホームは長い。右奥の二階建て部分が 新南口。 | ||
![]() |
2000(平成12)年4月:渋谷マークシティ 開業 | |
2001(平成13)年1月:営団地下鉄第13号線 池袋-渋谷間の工事開始 | |
2002年には 東急東横線との直通運転が決定される。 | |
2003(平成15)年6月:東急文化会館 閉館 | |
2008(平成20)年6月:副都心線 池袋-渋谷間 開業 | |
2009(平成21)年6月:文化会館の跡地で ヒカリエ 着工 |
空中写真N-2:撮影は 2009年 |
![]() 2009(平成21)年4月27日 / CKT20092-C62-22 / 国土地理院 に加筆 |
ヒカリエは着工直前の状態。 |
2011(平成23)年3月:東日本大震災 発生 | |
2012(平成24)年3月:ヒカリエ 竣工 | |
渋谷駅とは新しい跨道橋で結ばれるが、駅側は仮設通路。 |
新跨道橋 | ||
![]() |
2012.10.2 |
2013(平成25)年3月:副都心線と | 東急東横線との直通運転 開始るる |
15日で東急東横線渋谷高架駅の使用が終了。地下化されたのは 渋谷から代官山の直前まで。 | |
同 年 同 月:東横百貨店東館 営業終了、その後 取り壊し | |
2014(平成21)年6月:渋谷スクランブルスクエア(東棟) 着工 |
空中写真O:撮影は 2017年 |
![]() 2017(平成29)年8月23日 / CKT20176-C29-26 / 国土地理院 に加筆 |
東横線 渋谷駅 | ||
![]() |
2012.10.2 | |
↓ | ||
![]() |
2014.7.12 | |
渋谷スクランブルスクエアの工事が始まっている。 |
昔の記憶 | ||
![]() |
2019.2.11 | |
スクランブルスクエアの南側、「渋谷ストリーム」へのデッキに設えられた、旧東横線ホームのデザイン。 | ||
![]() |
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床にはレールの軌跡も残されている。 |
7.銀座線渋谷駅の移設 | 2020(令和2)年 |
2019(平成26)年11月:渋谷スクランブルスクエア(東棟) 竣工 |
2020(令和2)年1月:東京メトロ銀座線の渋谷駅が 移転 |
移転直後の新駅の外観と スクランブルスクエア。 今後、駅の屋根の上に自由通路が設けられる。 新駅の工事の様子は、いずれ まとめたいと思っています。 |
駅名 渋谷 の由来 |
駅が開業した当時1885(明治18)年の付近の地名による。 |
しかし、渋谷区の説明板でも 渋谷の由来は定まっていない。 まず、「昔この付近は入り江で、塩谷の里と呼ばれ、その塩谷が渋谷になった」という説がある、と書かれている。 谷といえども渋谷駅付近の標高は 15m以上有り、縄文海進期でも海は遙かかなただったので、頷けない。。 |
もうひとつは 金王八幡神社の社伝によるもので、「平安の終わり頃 領主であった河崎重家が、京都の御所に入った賊を捕まえたところ、その賊の名が 渋谷権介盛国だったことから、渋谷の姓を賜り、以後
重家の領地である 谷盛庄 が 渋谷 にかわった」という説。 盗賊の名前を与えられるというのは おかしな話だが、こちらのほうが まだ信憑性がある。 |
この項の参考文献 : |
『「東工」90年のあゆみ』東工 第37巻 特集号 / 日本国有鉄道東京第一工事局 『鉄道ファン』連載シリーズ / 小野田 滋 東京鉄道遺産をめぐる 24 / ハチ公が見上げたターミナル 2011年5・6月 同 25 / 駅前広場の思想 2011年7・8月 同 26 / 共同駅とモダニズム建築 2011年10・11月・12月 『渋谷の記憶・ 同 II〜IV』渋谷区教育委員会 Wikipediaの様々な項目 |
脚注、タイトルの地図について : 地図サイズ 299×93 |
明治42年(1909年)測図 大正5年(1916年)第一回修正測図 1万分の1地図 「三田」に加筆 / 大日本帝国陸地測量部/国土地理院 発行 |
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