山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋 目白 → 池袋
− 架道橋 (ガード) ・跨線橋 −

目 白 駅
2010年10月掲載、2020年10月改定

線路脇のJR敷地内に残されていた「謎の階段」が、2020年に撤去され、代わりにエレベータが設置された。そこに目白駅の歴史についての区の案内板が建てられ、古い駅舎の写真も公開されたので、その写真を利用したいと考えた。また、平岡厚子氏による『目白駅駅舎の変遷に関する考察』(生活と文化 研究紀要第24号/豊島区立郷土資料館/2014) によって、初代橋上駅の竣工年が違っていることが判明したため、同書も参考にして全面的に改定を行った。
本文では同書を『目白駅舎の変遷/平岡』とし、 の地で引用
する。また本項で筆者の推定に基づく記述部分は、グレー
.の地としてある。



目白通りから後退した位置に建つ 五代目駅舎
2000(平成12)年 現在の駅舎に改築すると共に、駅前の目白橋も拡張された。手前にあった旧駅舎部分が適度な大きさの駅前広場となり、余裕ができた。左の建物はJR系のホテル「メッツ」。



目白駅の歴史

本ページは 次のような構成となっている
・開業前の状況 1880(明治13)年
・地上駅の駅舎 1885(明治18)年3月16日
・二代目の地上駅
・初代 橋上駅舎 1922(大正11)年 夏
初代 橋上駅の建設手順
・二代目 橋上駅舎 1928(昭和3)年8月
 全面的に建て替えられた 二代目 橋上駅
■ はたして階段は造り直されたか?
・三代目 橋上駅舎 2000(平成)12年
駅名 目白 の由来
目白不動 の由来
現在の 目白不動



1884(明治17)年1月 :日本鉄道品川線 工事着手
まず、開業前の様子を見てみたい。

開業前の状況  1880(明治13)年

目白駅の位置

東京近傍中図 / 陸地測量部 1880(明治13)年測量/本図は2万分の1 に着色加筆
地図は90度回転してある。
神田川の崖線は極めて急で、駅の東(図では下側の範囲外)の豊島区高田二丁目には、現在都内で一番急な道路といわれる「のぞき坂・別名 胸付き坂」がある。
品川線が南側から目白駅に進入している位置は、目白臺にできていた支流群の中でも一番大きく奥深い 「金久保沢」で、新宿から板橋を目指すルートは、「ここしかない!」という究極の位置である。汽車が牽引する貨物列車も走っていたため、勾配は1/100 を限度としていた。神田川の低地は「盛り土」で横切り、目白駅付近とそこを過ぎてからは「切り土」で凌いで、池袋に向かって上り続けている。

1885(明治18)年3月1日 :品川 - 赤羽 単線開通
 品川・渋谷・新宿・板橋・赤羽の各駅 開業
同月 16日3
:目白駅・目黒駅 開業

畑地で人家も少なく、乗降客の見込めない目白になぜ駅が設けられたか? それは、工事着手後の1884(明治17)年2月に、高田村・高田千歳町・雑司ヶ谷村など 付近の5町村の総代と、高田村など5町村 および長崎村など 近隣8カ所の戸長連名による「設置願」が出されて、認められた結果である。
もう一つの理由と考えられるのが将来計画で、すでに開通していた東北本線の田端駅と結ぶために、目白駅で分岐するという考えが、品川線の計画当初からあったのかもしれない。

参考  「日本鉄道田端目白間鐵道敷設ノ諮問 第参拾壱號ノ一 」

『東京市区改正委員会議事録 第10巻』 1899年、 に加筆
この案で営業のための免許を取得したが、その後変更され、池袋で分岐されることになった。


地上駅の駅舎
当初は地上駅であり、駅舎があったのは山手線の外側、現在のホームがある位置だった。初めは単線であるから、駅舎(改札)を出ればホームがあり、その間に線路は 無かったろう。

1903(明治36)年4月 :目白 - 池袋間 複線化 (開通の8年後)
 池袋 -田端間 開通ももももももももももも
:目白駅で貨物の取り扱い開始
1904(明治37)年11月 :新宿 - 目白間 複線化

地図A:1909(明治42)年 複線化後の状態

国土地理院 / 大日本帝国陸地測量部 1909(明治42)年測図 に加筆
印が駅舎。開通後24年を経て目白通り沿いの町並みが揃い、お屋敷も建っている。学習院はこの前年の1908(明治41)年に移転してきた。学校内の溜池は現在も残っている。
駅の池袋側に道路が二本あることに注目。図で赤く点滅する下の道は踏切だったのだが、これについては次の項 「番外 旧目白踏切」で考察する。


二代目の地上駅  
『目白駅舎の変遷/平岡』にある参考図2の3、東京鉄道管理局による『停車場平面図』(1915/大正4年) を見ると、複線化後は初代とは異なる位置に駅舎があり、跨線橋で島式ホームに渡っていた。
この図から、地上駅に「二代目」があったことになる。

1916(大正5)年5月 :複々線化(山手線と貨物線の分離)工事の開始
工事は、おおむね 品川から田端に向けて行われた。
1920(大正9)年11月1日 :複々線工事 第六工区(新大久保-池袋) 起工

地図B:1921(大正10)年の状態

国土地理院 / 大日本帝国陸地測量部 1909(明治42)年測図 / 1921年第2回修正測図 に加筆
まだ地上駅のままであり、これを確認していれば、「橋上駅の竣工が1919(大正8)年」は、間違いであることに気付いたはず。
複々線化に向けて、駅の西側が買収されている気配がある。地図Aからわずか10年余りの間に、田んぼが無くなり宅地化が進んでいる。



初代 橋上駅
初代 橋上駅

1923(大正12)年11月2日撮影 / 提供:日本女子大学 成瀬記念館
掲載許可取得済み
竣工から約1年後、震災の2ヶ月後に撮影された写真。日本女子大学の資料で、撮影日がはっきりしており、極めて貴重な写真である。
学生が本所へ向けて救援活動に出発するところで、右側に 完工している二代目の目白橋の欄干が写っている。駅舎にはほとんど被害が無かったそうだ。

1922(大正11)年 夏
:国内初の橋上駅(第1代) 竣工
竣工年は『目白駅舎の変遷/平岡』による。目白駅に伝わる手書きの『目白駅史』の写しに、「大正11年、8年 起工中ノ本屋及線路模様替 竣工ス」とあり、また『開業80周年記念』写真集の年表にも「大正11、本屋改良工事竣工 (現在位置)」とあって、そのほかの資料からの考察とも矛盾しないので、1922年としてよいのではないか。と結論づけている。

1923(大正12)年 :二代目目白橋(当時の東京市担当) 完工
1923(大正12)年9月1日 関東大震災
1923(大正12)年11月2日 前掲写真の撮影 (日本女子大学提供)
1924(大正13)年9月 :新大久保 - 池袋間 複々線化完了
注目点は、この付近の複々線化完了よりも1年以上前、さらに新目白橋の完工前に駅舎が竣工していたこと。
複々線化は目黒-恵比寿間で貨物線を乗り越して以降、山手線の外側に増線された。目白駅でも新しいホームは西側に造られたが、駅の前後の「本線」は相変わらず「旧線」が使われていたことになる。
それを示すものとして、次の地図が挙げられる。

地図C:1924(大正14)年前後の地番入り地図

東京府下高田町戸塚町全図 / 1925(大正14)年4月発行 文化地圖普及會
駅の部分だけが複々線で前後は複線の状態を示しており、新ホームが複々線化に先駆けて完成していたことを裏付けるものとなる。ただし、橋上の駅舎は表現されていないので、何本かあった貨物引き込み線を表したものかもしれない。
踏切の下の道は東西ともに無いが、測量に基づいた地図ではなく、道路形状も不正確であるためにそのままは受け取れない。


初代 橋上駅の建設手順
複々線化以前に新駅舎が竣工したのには理由がある。
なお、以下には推定に基づく記述を含む。
大きな要因として、次の二点が挙げられる。
  ■ 増線予定の場所 (地図A・・・) に旧駅舎がある
  ■ 当時、踏切を無くす努力が為されていた
営業を続けながら工事を行う必要があるため、一般的には別の場所にホームと駅舎を新設し、そっくり移転するケースが多い。目白でも、高田馬場寄りに造ることは可能だったろう。
しかし、目白通りからさらに遠くなり、踏切を廃止すると階段経由となってしまう。発展している大通りからのアクセスを重視して橋上駅舎を選択したわけだが、この発想は突飛なものではなく、同時期に少し遅れて開業した鶯谷新駅も、線路の上に駅舎を計画している。また巣鴨・駒込・田端など、高い位置の駅舎からホームに下りる形も多い。

■建設手順の推定:
 1万分の1地図を利用して、推定した建設手順を説明する。

地図A:工事着手前の状態

1921(大正10)年第2回修正 / 大日本陸地測量部 / 国土地理院に加筆、以下同様
大きなが駅舎で、新駅舎ができるまでは取り壊せない。小さなは貨物駅舎。赤の点線・・・は「下の道」、踏切で線路を横切っている。
点滅する緑の点線・・・が 計画中の新線の位置。

・用地の買収:紫色の点線の範囲
西側は主に住宅地、駅舎の建設用地は目白橋の袂の三角形部分。東側貨物ヤードのために学習院の敷地も含めて広範囲に買い取った。

1919(大正8)年 :新駅舎 着工
地図B:橋台・土台の建設

・駅舎の土台の建設:点滅する 青色
何もない三角形の空き地、新線(山手線外回り)を跨ぐ位置にコンクリートの土台を造る。
踏切は 可能な限り残して使ったのではないか?
後に初代の駅舎はそっくり建て替えられたが、西側の橋台まで造り直す必要はないため、現在も残っている次の写真の台形のコンクリートではないかと考える。
2020.10.4

隣接する目白橋も、2線分の木造の橋だったものが、貨物線を含めて5線を跨ぐ3スパンのコンクリート造にかけ替えられた。竣工は駅舎の約1年後なので、工事は同時進行していたはずだ。

1922(大正11)年夏頃 :新駅舎 竣工
地図C:1922年 橋上駅舎と仮設跨線橋 の完成
プラットフォームはまだ旧線のままなので、そこに渡るための「仮設の跨線橋」が必要となる。これで初めて、使っていた地上駅舎を取り壊せる。
翌年には目白橋も竣工し、踏切は無くなったと考える。西側には、複々線化するための用地がすでに確保されているはずだ。

1923(大正12)年9月1日 関東大震災
1924(大正13)年9月 :新大久保 - 池袋間 複々線化完了
地図D:第1代橋上駅舎と複々線化 の完了

1929(昭和4)年第3回修正 / 大日本陸地測量部 / 国土地理院 に加筆
複々線化が完了して、新設したプラットフォームを使うようになる。東側(図では下側)には崖を切り取って広い貨物ヤードが確保された。学習院横の「椿坂」は、複々線化と同じ年、震災後の1924(大正13)年に使われ始めたそうだ(『目白駅舎の変遷/平岡』)。現在はホテルメッツやオフィスビルなどが建てられている。
初代 橋上駅
1925(大正14)年頃 / 豊島区の掲示板より / 元の写真は鉄道博物館蔵

新設された
目白橋
↑元のプラットフォームの位置



二代目 橋上駅

第二代 橋上駅

1929(昭和4)年頃 / 豊島区の掲示板より / 元の写真は個人蔵

1928(昭和3)年2月 :駅舎改築工事 着工
1928(昭和3)年8月
:第2代橋上駅 竣工
上記は『目白駅舎の変遷/平岡』にある『目白駅史』による。
6年後の全面改築。これは異例のことで、常に長期計画がしっかりしている国鉄としては「大失態」である。しかも、増築ではなく全面建て替えのようだ。
まず原因として考えられるのは、竣工翌年に起こった「関東大震災」による被害だが『目白駅舎の変遷/平岡』によると、
鉄道省が1927年に発行した『鉄道震害調査大正十二年』には、- 中略 - 「駅本屋の最近改築されたるものは悉く木造スレート葺であったが 何れも損害頗る軽微であった」
とあり、日本女子大学提供の初代駅舎の写真でも、被害は感じられない。とすれば、震災後に山の手に移住する人が増え、予想外に乗降客が増えたため、が主因と考えられる。
国鉄は、当然 将来駅舎の拡張を考えていたはずだが、人口の増加が桁違いだったのだろう。

全面的に建て替えられた 二代目 橋上駅
わずか6年前に竣工した駅舎がそっくり建て替えられたのは、ほぼ間違いない。さらに筆者の推定では、貨物線の上に増築した後に既存部分を壊して建て替えたのではなく、まず旧駅舎を取り壊してから全体を造り直したものと考ている。
それらについて、いくつかの根拠を示してみたい。
・新旧の建物を比べると、その階高・プロポーションが異なる
左が初代橋上駅舎で、正面待合室の上部に明かり取りの窓があり、平屋だが階高が高い。窓の上まで4m以上あるだろう。
一方、右の二代目橋上駅舎を見ると、階高はさほど高くない。建物右側の同じ位置に旧駅舎があった (1998(平成10)年以前の写真、両者のスケールは異なる)。
この比較から、旧駅舎の躯体は再利用されなかったものと考えられる。
・仮設の改札口が造られたと考えられる
『目白駅舎の変遷/平岡』で引用している『目白駅史』に注目すべき記述がある。
昭和3年8月12日 目白駅本家改築其他工事ノ件 竣工ス
   出札改札 8月11日 バラックヨリ移転
 以下 略
もし工事中の営業に既存旧駅舎の改札口を利用していたなら、「バラック」から移転したとは書かないだろう。別の場所に仮設の改札が造られていたからこそ、この表現になったものと考えられる。
できて間もないホーム上屋をなるべく壊さずに利用するなら、東側貨物ヤードの高田馬場寄りに改札口と跨線橋を設け、ホームの南側から出入りすればよい。
・二代目駅舎の工期が短い
『目白駅舎の変遷/平岡』で引用している『目白駅史』によると工期はわずか 6ヶ月である。前項と関連することだが、もし、初代駅舎を使いながら1期工事として貨物線の上に新設し、その後既存部分を取り壊して2期工事として建て直したとすると、とても半年では済まないのだろう。
またその場合、改札の移転は竣工の前日ではなく、工期の半ばとなる。竣工間際の改札の移転も、ほかの場所に改札があったという証となる。
 ■ はたして階段は造り直されたか?
初代 橋上駅

1925(大正14)年頃 / 豊島区の掲示板より
元の写真は鉄道博物館蔵

第二代 橋上駅 (右は部分拡大)

1929(昭和4)年頃 / 豊島区の掲示板より
大勢に影響は無いのだが、設計の仕事をしているので気になることがある。二代目の階段は、初代の時のままか? それとも造り直された階段か?である。
階段に続く、建物の中央を支える構造体が造り変えられているように見える。初代(上の写真)では一面壁のように見えるが、二代目では連続アーチ構造(下右の写真)となっており、現在でも使われている。
1922年+1928年 の構造物 ?
中央に連続アーチ。左がホームの池袋寄りの端部で、昔はここに階段があった。奥は目白橋で、現在は中間に柱がない大スパン構造。
筆者の結論は、階段はそのまま再利用した、である。アーチ壁は構造補強のためと考える。二代目駅舎ではこの上部左側が小荷物室で、荷物用のエレベータの開口を作るために、既存のT型コンクリート梁が切断された。また右側に新たに床ができることもあって、補強したものではないだろうか。
旧 エレベーター・シャフト
現在は 再度塞がれている荷物用エレベーターの位置。上部は駅前広場となっている。
初代駅舎では待合スペースの床だったが、補強のための鉄骨梁4本を、2本の角柱に渡したH形鋼で受けて穴が開けられ、二代目駅舎で昇降装置が設置された。


階段の増設

国土地理院 / 1963(昭和38)年6月26日撮影 / MKT636-C6-16
階段一つでは混雑がさばけなくなり、少し高田馬場寄りから渡り廊下で駅舎と繋げられた。

長く使われた 二代目 橋上駅舎



渡り廊下
駅前にある「旧目白橋高欄」の記念碑 / 東京都第四建設事務所 より
短かった初代の分を取り戻すべく、二代目駅舎は 72年間も使われた。道路からの引きはほとんどなく、特に東端では歩道橋の階段が大事な場所を占めていて、歩道が極めて狭かった。学習院大学や川村学園があり、目白小学校や旧高田中学では越境通学が盛んだったために学生・生徒が多く、特に朝の登校時には混雑した。


三代目 橋上駅

大きくなった 駅舎
2010.1.6
2000(平成)12年7月開業。新駅舎は旧駅舎を営業しながら、その裏側に新設され、旧駅舎の取り壊した跡が「駅前広場」となった。幅は少し狭くなったが奥行きが長く、2階建となってテナントスペースもできた。

駅舎の裏側
池袋方向を見ている。階段二箇所の他に、エレベータとエスカレータが設置された。



 
駅名 目白 の由来

目白駅の名前は地名ではなく、「目白不動」にちなんだといわれている。ところが、開業当時に目白不動が祀られていた「新長谷寺」は江戸川橋の近くであり、駅から直線距離で 約2.3kmも離れていた。 
高田馬場 と 高田馬場駅との距離 約1kmどころではない。
目白駅(右端) と 旧目白不動(枠内) の位置関係
 目白駅  学習院  明治通り          椿山荘  旧「新長谷寺」↑

日本鉄道品川線は、それまでにできていた「新橋−横浜」間の品川と、「上野−熊谷」間の赤羽とを結び、輸出のために桐生・群馬の生糸を横浜港運ぶなど、貨物線の要素が大きかった。
上野と新橋を結べばわずかの距離で済むものを、わざわざ大廻りして「山の手コース」を選んだのは、火の粉や騒音をまき散らす汽車の線路を、下町の木造市街化区域に通すことには反対が多く、困難が予想されたためである。
上野-新橋間が全線開通したのは 1925(大正14)年で、何と、品川線開通の40年後だった。 
目白駅の開業は1885(明治18)年3月で、途中駅は 宿場町の「板橋」「新宿」は当然として、ほかに「渋谷」と「目黒」、そして駅の誘致に積極的であったという目白の5カ所 だけである。
渋谷川があり、それに沿って上渋谷・中渋谷・下渋谷の各村があった「渋谷」と、目黒川があり、上目黒・中目黒の村名があった「目黒」を駅名とすることは自然である。
しかしその目黒駅を「上大崎」に作らざるを得なかったのも、品川駅が「品川宿」を外れた位置なのも、すべて住民・農民の反対運動の結果 といわれている。
そして目白であるが、目白不動付近でさえ地名にはなっておらず、はるか離れた場所にあったお不動様の名前を採用したのは、「目黒とセット」で考えたものと思われてならない。
たまたまであろうが、「目黒」 「目白」の両駅は、山手線の開業日3月1日から半月遅れの、3月16日に同時に開業している。
 
目白不動 の由来
江戸時代初期の1618(元和4)年に、奈良の長谷寺の能化秀僧生によって中興された「新長谷寺」には、不動明王像が伝わっていた。
寛永年間(1623〜39年)には、三代将軍 徳川家光によってこの本尊に「五不動」のひとつとして「目白」の名が送られ、目白不動と呼ばれるようになった。
この地は江戸の北西に位置し、練馬方面から関口台の背を通る「清戸道」 (現目白通り)は農作物を運ぶ交通路となっており、御不動参りの人でもにぎわった。 また高台にあって音が行き渡るためか、「刻」を告げる鐘もあったという。

目白不動 (長谷寺)の位置
 神田川大堰       「寺谷長」(目白不動)      目白坂   江戸川橋
復刻古地図 東京五千分之一 東京西北部 に加筆 / 人文社、掲載許可取得済み
元版 / 1883(明治16)年測量の地図 / 参謀本部陸軍部測量局

300年以上続いた新長谷寺だったが、第二次世界大戦の空襲で本堂は燃えてしまったために廃寺となってしまった。さいわいにも 不動明王像は無事であった。
その後、目白不動は、豊島区高田2丁目にある「金乗院」の一画に移され、結果的には、目白駅まで 約 900m の位置まで近づく結果となった。

              
終戦後 1947(昭和22)年頃 の様子
   新長谷寺        目白坂    江戸川橋

国土地理院/撮影は米軍
三角形の敷地に本堂の跡が残っている。現在はマンションとなっている。下を流れるのは神田川。

現在の目白不動
金乗院 境内にある 目白不動堂

不動堂は本堂の右手にある。

本尊は自分の左手を自ら切り落として、そこから炎が上がっている姿である。 ただしこれは レプリカ。
目白不動の小さなお堂があるが、本尊は金乗院本堂内の厨子に納められていて、秘仏となっている。
目白に関連する名称としては、旧新長谷寺の前の坂道が古くから「目白坂」と呼ばれ、現在でも名前が残っている。
現在の目白坂

高田馬場と同じく駅名の影響は絶大で、現在は豊島区内の目白駅近辺が「目白」、雑司ヶ谷と関口の間が「目白台」の住居表示となっている。


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