山手線 が 渡る橋 ・くぐる橋
池 袋 → 大 塚
地図については 脚注参照

池 袋 駅

品川線開通時 1885(明治18)年には 目白駅と板橋駅の中間で、何もなかった・・・。
約20年後、1903(明治36)年開通の旧称豊島線(池袋−田端)を どこに敷設するかについては、何度かのルート変更があった。
初めは目白と池袋の中間に「雑司ヶ谷駅」を作る案で仮免許を受けたが、実地測量してみると、できたばかりの「巣鴨監獄」にあたってしまう。
そこで目白の少し北を分岐点とし、監獄の南端付近を湾曲しながらかすめる案で本免許を取得した。
図  「日本鉄道田端目白間鐵道敷設ノ諮問 第参拾壱號ノ一 」
『東京市区改正委員会議事録 第10巻』 1899年 に加筆
ところが、
 ・



巣鴨監獄に近すぎるという意見が出された
開業時には誘致に積極的だった目白が、分岐線の設置に関しては住民の反対があった
目白駅は谷間・掘割りの駅であり、拡張が難しい
池袋は平地で広く、住宅も少なかったので新駅を作りやすかった
などの事情で、最終的には池袋に新駅を作って分岐された。結果的には大正解で、池袋は大きなターミナル駅として発展した。
田端との間の中間駅は、小石川と王子を結ぶ 王子道、現折戸通りに大塚駅、中山道に巣鴨駅の二つだけで、駒込駅(当初 妙義駅の説有り)は 後になってから開業した。
豊島線 第二次案


メトロポリタン 口
駅の南西側の2階レベルにある改札口。
東武百貨店入り口だけでなく道路にも下りていける。
南から 北方向を 見る
「東が西武で 西 東武」というデパートの配置。駅よりもさらに長い壁に挟まれている。左端の線路がは東武鉄道池袋駅。奥の煙突は豊島清掃工場。
西から 西武を見る
 
駅名 池袋 の由来

池袋駅の名前は付近の地名、池袋 によっている。

近世 1772(明和9)年の『武蔵国豊島郡雑司谷村絵図』によると、雑司ヶ谷の北側に位置する池袋村の範囲は、想像よりも北に偏っていた。池袋村の中心となる集落は駅から1kmも北側で、現在の池袋本町の中心辺りだった。
どうやら池袋駅の所在地は 池袋村と雑司ヶ谷村の境だったようだが、ぎりぎりのところで池袋村の範囲だったのだろう。

 
池袋の地名の由来
現在の住居表示しか確かめていないのだが、東京の地名は「山と谷」、「川・堀 と橋」が多くて、「池」は極めて少ない。
昔は「溜池」などいくつもあったのだろうが、「溜める」ことよりも「流す」ことに重点が置かれたために池が少ないのかも知れない。
文句なしは不忍池の「台東区池之端」、あとは洗足池に関係している「大田区池上」などと「同区 南および北千束」、「目黒区洗足」、「練馬区大泉」関係である。
これらの地名は池の名前が由来だが、池袋は「袋池」ではないことがポイントのような気がする。
つまり、固有名詞ではなく状態を表しているのではないだろうか。そっくりの地名として、中野区の「沼袋」がある。
メトロポリタンホテルの駅寄りに小さなスペース「元池袋史跡公園」があり、そこには「池袋地名ゆかりの池」という立派な石碑がある。
解説板は 【このあたりにあった池が地名の起こりとも伝えられている。】という あいまいな表現で断定はしていないのであるが、あたかもここが ゆかりの地 と思えるような石碑である。
元池袋史跡公園
「元池袋史跡公園」は、すぐ西隣にあった「元池袋公園」を移転整備したもので、そこにあったとされるのが「丸池」である。
このために、地名ガイドの中には「丸池が 袋の形 をしていたので 池袋 となった」という説も見受けられるが、どうやらそれは誤りでのようだ。
丸池の空中写真 1947(昭和22)年
国土地理院、撮影は米軍、写真サイズ 400 × 295
         ビックリガード        明治通り
白円の中に小さく見える。
貨物ヤードでは、汽車が煙を吐いている。

下図は明治42年の地図の上に、当時の巣鴨村大字池袋の範囲を示したものである。 
凡例:水色:川、黄土色:大字境、黄色:古地図にある道
豊島区地域地図第三集 参考図/豊島区立郷土資料館 に彩色
「資料特別利用許可書」提出済み
大字池袋(以前の池袋村)は 西・北・北東部を谷端川に囲まれた、池袋台(仮称、正式名は未調査)に広がる畑作中心の村だった。
先にも述べたが、本村は図の北部に位置する集落である。
豊島区立郷土資料館がまとめた古地図やその解説によると、池袋の名は、今から450年前 室町時代末期の 1559(永禄2)年に北条氏康が作成させた『小田原衆所領役帳』に、雑司ヶ谷 その他の地名と共に確認されているという。
地名の由来については ふたつの記述がある。
まず一つ目は、近世の地誌として内容についての評価が高いとされる 『新編武蔵風土記稿』で、1810(文化7)年から1828(文政11)年の作成である。 そこには、
「池袋村は地 高くして 東北の方のみ水田あり。その辺り 地 窪にして 地形袋の如くなれば、地名起こりしならん」
とある。池の形ではなく、地形が根拠である。
また、「ならん」であるので断定ではなく 推測となっている。
上図では現在の埼京線沿線、板橋に向かう川の周辺の事である。
二つ目は同じ頃、小日向の僧侶 津田大浄が著した紀行文『遊歴雑記』 1829(文政12)年で、
「当村を池袋と号けし事は、往古 夥しき(おびただしき)池ありしによってなり。中古より段々埋まりしかど、今もなお三百余坪もあらんや。此の池の西の果は池袋と雑司谷村との境ひにありて、常に湧き出し流る。此の池 今は雑司谷村の内に属す」
とあり、これもまた 池の形を由来とはしていない。
その 丸池と思わしき池については、「今は雑司谷村に属す」 と記されている事から、昔は別の村 池袋村?に属していた可能性が残される。
とにかく、大きな池があったのではなく 数が多かったわけで、そんなにたくさんの池があったのなら、「池づくし」、「池どころ」、「池ばかり」 などの言葉が浮かんでくる・・・。
付近はローム層の丘であり、自然に池ができる地形ではないので、畑作あるいは下流の稲作のための 「ため池」の可能性もある。
また、雨が降った時だけにできる 「遊水池、一時的な水たまり」もあっただろう。
そういった池が袋状の窪地に数多くできている「状態」を表したのが、池袋なのではないだろうか。
いずれにせよ、結論は出ない。
 
池フクロウ の石像
地下道内にある待ち合わせ場所。
渋谷のハチ公には遠く及ばないが、池袋での待ち合わせに使う人もいる。屋内なので、寒さを避けられる点はまさっている。

実は、元池袋史跡公園にもたくさんのブロンズ製「フクロウ」が飛んでいたり、ミミズクがとまっていた。洒落のつもりで思いついた人には申し訳ないが、どうも馴染めない。
隣村 雑司ヶ谷に伝わる郷土玩具のことが頭にあったのだろうが、そちらは「ススキミミヅク」で、耳のように突き出した羽毛が付いている種類である。 
モリフクロウ ワシミミヅク
写真は Wikipedia より

 
番外. 池袋跨線橋(仮称)
地上駅である池袋の当初の姿は、木造の跨線橋で左の駅舎と二つのホームをつなぐものだった。
開業当初の池袋駅 / 鉄道博物館のパネル展示より

大塚へ       北から分岐点を見た写真       板橋へ

西武百貨店のもととなった「菊屋デパート」は戦前から始まる。
戦後にビル化すると駅にも「地下道」ができ、「跨線橋」とは長い間無縁だったが、西側南部に東武百貨店とオフィス・スペースを含む21階建てのメトロポリタン・プラザが増築されたのに伴って、1992(平成4)年に改札口も新設された。
 
跨線橋 目白側から
発車した 内回り電車。右側のホームは 埼京線・湘南新宿ライン

跨線橋 内部 内回り 6番線より

通路幅は広く、トップライトで明るい

目白方向を振り返る。 外回りは右隣の7番ホーム


脚注、タイトルの地図について : 地図サイズ 299×93
明治42年(1909年)測図 大正5年(1916年)第一回修正測図
 1万分の1地図 「早稲田」 /大日本帝国陸地測量部 / 国土地理院 に加筆

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