山手線 が 渡る橋 ・くぐる橋
巣 鴨 → 駒 込
− 架道橋 (ガード) ・跨線橋 −

1. 染 井 橋

そめいばし。
山手線 池袋-田端間が開通した時にできた橋。2005(平成17)年に架け替えられた。
全 景 (駒込駅側 山手線の内側 より)
取材協力:芥川製菓 株式会社
左奥が巣鴨駅。巣鴨-駒込間は直線区間で 距離も700mと近いために、隣の駅に電車が来た様子がよくわかる。
近 景 (巣鴨駅側 山手線の内側 より)
特急「きぬがわ」。
山手線の内側から
街灯は2本。 親柱の上にも照明がある。JR東日本東京支社の設計で、シンプルだが適度に装飾性があって 良い。

親柱
欄干のデザインは、やはりサクラ。
しかし、子供たちにとっては、電車がまったく見えない。
 
架線を吊る碍子とローラー
ちょっと 機能美 なので。


位 置 (戦後の様子)
1947年(昭和22年)8月の空中写真/国土地理院
     巣鴨駅                    駒込駅
染井橋 データ
位 置: 文京区本駒込六丁目
  〜豊島区駒込三丁目
管理番号:  −
道路名: 染井通り
橋 長:
幅 員: 約 7 m
竣工年: 初代:1903(明治36)年
   木製か? 未確認
先代(二代目か?):1925(大正14)年
   複々線化時
現在の橋:2005(平成17)年3月15日
跨ぐ線路: 4線 : 山手線、湘南新宿ライン
名前の由来: 付近の地名による
地名の由来: 谷戸川の水に布を浸すと、ロームの土の関係で色が染まるところから、という説を見かけた。
「染衣」が「染井」に変化した可能性もある。


橋からの眺め

次の駒込橋
巣鴨橋の次が染井橋。その間隔は600m以上あるが橋が無い。その理由は、現六義園やいわゆる大和村を含む広大な「岩崎邸」の敷地の脇だったために、道が少なかったため。
ところが、ここから駒込橋まではすぐ・・・。あまりにも近いのがちょっと不自然だ。
そのわけは、山手線が岩崎邸の敷地の一角を横切ることになって時に、「了解する条件として橋を架けるように要求されたため」 ということのようだ。
それなら、と付近の住民から日本鉄道に対して、「巣鴨との間に第二染井橋を作れ」という要求が出たそうだが、立ち消えとなってしまった。
地図を見ると、ほとんど人家がないので仕方あるまい。
1909(明治42)年の地図に加筆
豊島区地域地図 第四集 / 豊島区による復刻版 / 元版は陸地測量部作成
赤丸が 染井橋。1910年開業の駒込駅は まだ記載されていない。赤の点線は岩崎邸の境界線。

複線化後に 染井橋付近から 巣鴨方向を見た写真
『巣鴨総攬』/ 1925年 より(元の資料は鉄道博物館)

1910(明治43)年の山手線複線化後の写真で、筆者にとっては、とても貴重な資料である。
同じ高さが続く切取り(掘割り)で、直線、ほぼ水平、しかも橋がない。ほかには山手線にこのような場所は無い。
染井橋あたりで、山手線の内側の橋よりも低い位置から巣鴨方向を見たものだ。
右上の林が、前の地図で「切り取られた岩崎邸の三角の敷地」である。左側にも木の一部が見える。
現在の様子
同じ視点までは下りられないので、橋の上から写したもの。
1925(大正14)年完成の複々線化の時は、山手線の外側を新たに購入して4線とした。
左の石垣は 果たして100年前のものか・・・・。
地震で崩落か ?
その石垣の現状の姿である。このように一部が欠けて、しかも使い続けているのであるから、地震が原因で崩壊したのではないかと考えている。


周辺の情景

芥川製菓の行列
染井橋のたもとにあり、橋の写真撮影に協力してくださった芥川製菓。もっぱら業務用チョコレートの製造と卸売りをしているために、芥川ブランドでは小売りされていないらしいのだが、年に一・二回、いわゆる感謝セールが行われ、整理券が出るほどの盛況、行列となっていた(現在は、ここでは行われていない)。
染井墓地
染井橋から 染井通りを行くと突き当たりが 染井墓地。
東京都の霊園としては、ほかに青山・多磨・雑司ヶ谷など7つがある。お骨を持っている都民が応募できるが、染井墓地は募集をしていない。
染井通りから染井霊園をそのまま通り抜けると、日蓮宗の慈眼寺(じげんじ)に突き当たる。明治になって深川から移転してきたそうだ。
語呂合わせではないのだが、芥川龍之介の墓を訪ねた。

慈眼寺 芥川家の墓
芥川龍之介の墓
本家の墓石(右側)に比べて背の低い安定したフォルムである。龍之介が自分でデザインしたもので、愛用の座布団と同じ寸法だそうだ。命日は 1927(昭和2)年7月24日。
これなら 地震でも倒れないだろう。

Topへ 山手線が渡る橋・くぐる橋 高橋俊一 駒込橋 へ