山手線が渡る橋・くぐる橋  - 架道橋 (ガード) ・跨線橋 -

秋葉原 → 神田
4. 神田川 橋梁
高田馬場の鉄橋で一度渡った神田川。 今度はコンクリート製・アーチ橋である。

徳川家康の時代には、この部分に神田川はなかった・・・。

二代目「秀忠」の時代(1605-1623年)に、水害対策として本郷台地(神田台地)を切り裂いて、隅田川に放水するために造られた人工の川である。
どうやら、その時に「神田川」と名付けられたようだ。

全景 (山手線内側から)
奥の新幹線の橋は、後から作られた鋼製の橋である。

工事中の写真
下の図面も、『東京市街高架線 東京上野間建設概要/鉄道省』(1925年)

工事写真からわかる事
左の写真は秋葉原側から神田方向を見たものである。  
もしこれが秋葉原方向なら、遠くに見える橋台は佐久間架道橋用ということなるが、ホームのために分割されているはずの橋台が分かれていない。

つまり、見えている高架橋は「第2柳町橋高架橋」で、左方向が隅田川である。
そして柳原架道橋は、少なくとも橋台だけは当初に4線分作られた事がわかる。

図面や写真を基に検討した結果、神田川橋梁は 最初から6線分すべてが建設されたのではなく、2期に分けて建設された模様だ。  当初は山手線の内側の3線分 幅約15mで、引き続きあとの3線分が造られた。
ただし、6線となった時期は確定していない。

側面図 と 配筋断面図
橋台と要石のデザインはなされているが、神田 東京駅間の「外濠橋梁」に較べると、仕上げも質素でシンプルな橋である。
鉄筋コンクリートのアーチの上には砂利が詰められているようだ。


遠景 (山手線の内側 萬世橋から)
新幹線の桁の下に見える 青い橋が 和泉橋である。
東北縦貫線が完成すると、この景色も変化してしまう。

近景 (山手線の内側から)

遠景 (山手線の外側から)
和泉橋から。  手前の歩行者専用の橋と新幹線の桁に遮られて、アーチ橋はほとんど見えないが、川面に一部が映っている。  (奥のアーチは万世橋)

歩行者専用の橋の名は「神田ふれあい橋」。  
狭い橋の上で「ふれあい」とは変な名前だが、橋を渡って神田駅まで続く道の名が「神田ふれあい通り」であるために、この名が付けられた。

なお、東北縦貫線工事で橋の前後の高架橋は造り直されるが、神田川橋梁は壊さずに残されるようだ。  恐らく、新幹線のような巨大な桁で 橋の上をひとっ飛び ということになるのだろう。


位 置 (終戦後の様子)
1947年(昭和22年)の空中写真/国土地理院
  高田馬場駅     神田川                               目白駅
神田川 橋梁 データ

位 置: 千代田区神田佐久間町一丁目、須田町二丁目
 東京より 1K 850M 程度
管理番号:  -
川の名称: 神田川
線路の数: 6本: 山手線、京浜東北線、計4本
    東北縦貫線2本 (工事中)
支 間: 32.92 m (108フィート)
空 頭:  -
竣工年: 1925年(大正14年)
備 考: 位置は前後の架道橋から推定したもの。
東北縦貫線の2線分は、神田川橋梁の上空に桁が架けられる模様。
名前の由来: 渡っている川の名称による。




上水の語源
Wikipedia によれば、日本最古の上水は「小田原早川上水」で、16世紀の中頃に、北条氏が支配した小田原城下に 早川の水を引き入れたものである。

飲み水としても使われたために、「早川上水」や「小田原水道」の呼び方もあるようだが、小田原市の呼称は「小田原用水」となっているそうだ。

「用水」は飲料水だけでなく、灌漑など その他の目的に「用いる水」である。
「野火止用水」や「愛知用水(現代)」が有名だ。


農業用などの用水ではなく、生活用水・飲み水のための用水を区別したのが
上水」の始まりのようだ。 水を流すという意味の「下水(カスイ)」という言葉があり、そこから汚水のことを「下水(ゲスイ)」として、 これに対する言葉として きれいな水・飲み水を 「上水」として区別した、 という考え方である。

私はさらに、神田上水 本体(後述)や玉川上水の構造から、次のような語源説を付け加えたい。

「上水」とは、”生活水として使うために 人工的に水路を造り、本流から分岐した水を流した水の道” である。  遠くまで水を引くために、水路はほとんど水平であり、本流に較べて高い位置にある。
すなわち「上(高い所)を流す水」 「上水路」 「上水道」 が起源である。


1883年(明治16年)測量の 5,000分の1地図では、文京区江戸川橋から上流が「神田上水」、中間が「江戸川」、水道橋あたり以降を「神田川」と表現している。

1901年(明治34年)に 神田上水による給水が廃止された以降の 1万分の1地図には、その上流域には 「旧 神田上水」と書かれている。


神田川の歴史

神田川は無かった?
もし中世に神田川があったとしても、本郷台地の湧き水などの小さな川だった、ともいわれている。
江戸時代以前 :
神田川の基となる川の名は平川で、今の水道橋あたりから南へ流れ、当時の日比谷入江に注いでいた。
平川の名残は 今の日本橋川の一部と馬場先濠である。
1590年 家康入府 :
太田資長(道灌)が1450年頃に築いたという江戸城を中心に生活用水の確保と洪水を防ぐために堀の整備を始める。 道三堀や平川の排水路としての外濠である。
上水の工事 :
家康は 大久保藤五郎に江戸の生活水の整備を命じた。
初めに手がけたのが「小石川上水」である。 小石川上水は平川に合流していた谷端川の下流域を整備したものと思われるが、正確な記録がないようで、上水として整備されたのかどうか確定していない。
現在の小石川一丁目と二丁目の間の道、コンニャク閻魔で知られる 源覚寺の前を開渠で通している。 後に「小石川大下水」と呼ばれた。
1605年 二代将軍秀忠  ~1623
洪水対策と、平川の一部を堀とするため神田台地(駿河台)に堀割を通して、平川を隅田川につなぐ。(写真部分)
「江戸川」 と 「神田川」の名称はこれ以降に付いたようだ。
平川を付け替えた 神田川
国土画像情報/国土交通省 CKT-89-3 C5            山手線  日本橋川
: 平川、  : 平川迂回路(外濠)、  : 平川付替え(神田川) は台地部分

東京のグランド・キャニオン
人工の川、神田川。

新たにできた「神田川」 を 「小石川上水」(谷端川)が渡った場所が、「水道橋」だと思われる。 水道橋の由来である。
小石川上水 ではなく、当初の「神田上水」を通したもの、という説もある。
水道橋とその横の掛け樋
橋の手前に「渡り樋」がある。  Wikipedia より、出典『江戸図屏風』部分

水道橋のレベルでお城側に渡ったのでは標高が低い。そのため 大久保藤五郎は引き続き 「神田上水」の整備を行い、少しでも高い位置で神田川を渡すためだと思うが、水道橋の少し下流に木製の「懸け樋」を作った。 神田上水は 慶長年間 (1596-1616年)に着手され、寛永年間 (1624-44年)には完成したという。

神田上水の説明には、井の頭池・善福寺池・妙正寺池からの水を集めて、などという文言が付きものであるが、マクロ的に地図を見る限りでは、人工的(直線的)に作られた形状は見受けられない。 
もともと平川が「井の頭池の湧水」を水源とした神田上水のベースのはずだ。

もちろん 流域を石垣や土留めなどで整備したことは間違いないないであろう。

神田上水 万年樋
計画のポイントは、できるだけ高い位置でお城側に引き込むこと。
できれば駿河台の中腹といいたい所だが それは無理なので、その少し下、サイカチ坂の所で神田川を渡した。 
神田川の空中を横切る上水路。 神田上水の名を象徴する懸樋(かけひ)、通称「万年樋」 である。 標高はおよそ5m。
万年樋の位置
       水道橋           懸樋
1883年(明治16年)測量の 5,000分の1地図/東京北部
図中の 破線--- は、地中埋設配管を示している。

懸樋 の模型
サイカチ坂のビルのショーウィンドウに展示されているもの。
谷の深さがとても浅い。 現在の川が当時より深くなっているのは確かだが、明治期に撮影された実物の写真を見ると この通りだった。 ただし、両側の土手がもっと高い。
水道橋からは「お茶の水坂」の地中深くに導水管を設け、神田川の土手っ腹を通している。 そうまでして わざわざ下流の位置に樋を設けた理由は、
水道橋の対岸レベルが低かった?
 というよりも、
前出の水道橋の絵のように 地表近くを渡すのではなく、しっかりとした地中の導水路を 水道橋の位置に造ると、レベルが低くなってしまう。
という事だろう。

ここを目差して 文京区関口の大洗堰の高さを決めたはずだ。 取水口の標高は 約6mであるから、落差は1mで 水路はほぼ水平と言ってよい。 
しかし伊能忠敬の100年も前に、地図や測量技術は進んでいたのだろうか?

神田上水路 
大洗堰 取水口 (イメージの復元)
出土した石材で、イメージを復元したもの。 江戸川公園。

取水口から 神田川を渡すまでの流路 (● ● ● 印)
  大洗堰      江戸川橋                 大曲       後楽園  現 白山通り         東大
1916年(大正5年)修正の地図/国土地理院 を合成・加筆
上水路の完成に伴って、関口から上流の呼び名も「神田上水」とされた。
上水の清潔度を保つために、民衆の意識を高めるためにも「上水」という名称を付けたのだと思われる。

地図中の大きな赤丸が、上記 「万年樋」の位置である。

小さい赤丸の所では、小石川上水と思われる水路とここも立体交差させている。

神田「上水」










後楽園                         旧 小石川上水?

大堰で取水したあと、等高線に沿って小日向の台地の南側を東へ。 現在はそのまま道路となっている。 昔 知識がない時にこの道を通って、不思議な道だと感じたものだ。
小日向水道町や小日向水道端の地名が起こり、現在も「文京区水道」として残されている。

水道端の古い石垣
傾斜地を削って上水路を作ったことがうかがえる。 (この石垣の年代は不明)

上水路は開渠で 敷地出入り口には石の蓋(橋)が架けられていたが、明治時代に暗渠とされた。

その遺構が 本郷二丁目の「本郷給水所公苑」に復元されている。

神田上水路 (出土したオリジナルで復元)

1653年 : 玉川上水完成
1666年 : 上水奉行が設置される
 
1892年(明治25年)~1898年(明治31年): 改良水道の工事
        玉川上水を利用して「淀橋浄水場」で水道水をつくる
1901年(明治34年) : 神田上水の使用を止める

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