山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋
神田 → 東京
タイトル地図については 脚注を参照
3. 第2鍛冶町橋 高架橋
 2015.5. 耐震改修の様子を追加掲載

名称は 第2 かじちょうばし こうかきょう。

「はし」が重複している原因は、竣工時の名称である「第2鍛冶町橋」に、機械的に「高架橋」を付け足したためで、本来は「第2鍛冶町高架橋」とすべきものである。
旧名称
 
第1鍛冶町 から 第3鍛冶町 の番号は、東京駅を起点とした「東北本線」の下り方向の順だが、本ホームページでは山手線を外回り方向に進んでいるので、順番が逆になる。

神田駅の項で紹介した「(仮称)旧北口」(下図小さな印)は短期間のうちに使われなくなったが、第2高架橋には 改札口への出入り口がふたつあるため、ほかの項でも重複する写真が出てくることがあるかもしれない。

     第 鍛冶町橋高架橋                 第 鍛冶町橋高架橋
←秋葉原 鍛冶町橋高架橋 新石町橋高架橋↑   東京→

山手線の内側から 以下のような仮称を付ける。
  
  
  
  TX
 : 中央線2線 ・京浜東北北行き 計3線
 : 山手線2線、(旧東北本線1線は撤去)
 : 第三乗降場、京浜東北線 南行き
 : 東北 ・上越 新幹線
 : 1919年(大正8年)開通
 : 1925年(大正14年)
 : 1956年(昭和31年)
 : 1919年(平成3年) 
第2鍛冶町橋高架橋 平面図
TX部分
-----
C部分
-----
B部分
-----
A部分
 3線
-----
  旧北口    コンコース部   ↑一段高かったレベル 
A部分で縦長の壁が残っている所が、1919年(大正8年)開通のオリジナル躯体である。 図の下側、中央線下り線では すべて残っている。 
震災の被害で、どの程度改修されたのかは はっきりしないが、躯体はほぼそのまま使われ、道路側の表面仕上げはレンガタイルが張り直されているようだ。

A部の改札口付近は、コンコースを設けるために1925年(大正14年)開通の増線時に改築された。 


A 部分  3線分
         高架橋本体の竣工時期 : 1919年(大正8年)1月頃
           現 中央線2線は 同年 3月1日開通
           現 京浜東北線部分は 1925年(大正14年)11月開通

山手線内側の様子
↑神田大通橋架道橋 北口 上白壁橋架道橋↑

構造は スラブ式
山手線の高架橋は新橋付近から始まり、 東京-神田間の常盤橋ガードまでのほとんどが、純レンガによる【拱橋】・アーチ構造である。

その後はコンクリートの【拱橋】に加えて、地盤が悪い所では重量の軽い「スラブ形式」が採用された。 高架下の空間を利用しやすい という事も考慮された。  橋脚の形によって「壁式」 と 「単柱式」がある。

神田駅東口を含む本高架橋も 当初はアーチ形式で設計が始まったが、検討の結果、スラブ 【鉄筋コンクリート単版桁】を架ける構造にするのが経済的、との結論になった。 橋脚は壁式である。

第2鍛冶町橋 その他の立面図 ・断面図 (部分)
『東京市街高架線東京万世橋間建設紀要』鉄道省/1920年発行
左上に 本項の「第2鍛冶町橋」立面図、上白壁橋を挟んで右側の「第一鍛冶町」は断面図となっている。 下段のアーチ形式では上部に砂利を充填するために重量が重くなる一方で、基礎の数は半分となるために一箇所あたりの負担が大きくなる。 このため地盤が悪い所では「単柱式」の方が有利でとされた。

スラブ形式橋脚の横断面図 縦断面図

 京浜東北北行き      中央線上り ホーム部   中央線下り

『東京市街高架線東京万世橋間建設紀要』鉄道省/1920年発行
1919年(大正8年)1月頃に竣工した第一期工事は3線分であり、径間15フィート、スパン約 5.3 mの壁が並ぶ。 その壁柱に 厚さ約60cmのスラブを載せている。 柱は現場打ちだろうが、スラブは別の場所で作成して設置したのだろうか?

現在はほとんどが駅舎や店舗の中で見えないが、この壁柱を直接見られる場所があった。 場所は図の 部分。

神田駅 平面図 (第一乗降場)
←秋葉原









東京→
                   第2鍛冶町橋高架橋                 第1鍛冶町橋高架橋

通り抜け通路として使われていた部分        2010.12.21
    地面に接する部分のコンクリートの膨らみなど、昔のまま。

薄暗く 汚くて、女性などはとても入っていけない雰囲気だった。

ここの通路は早くからテナントが退去していたため、耐震補強工事が先行して行われている。

耐震補強工事中           2015.5.18
まだまだ多くのテナントが営業していて、完成までには時間がかかる。
壁は鉄板で補強され、低いレベルに柱をつなぐ鉄骨の梁が 何本も取り付けられたため、以前は中二階があったが改修後はなくなった。 斜めの部分は、中央線ホームへの階段。 竣工当初の位置とは異なる。



大震災による被害
中央線開通から約4年後に起こった関東大震災で、神田駅は火災にも見舞われて、大きな被害があった。
竣工当初の(仮称)北口
『東京市街高架線東京万世橋間建設紀要』鉄道省/1920年発行
(仮称)旧北口。 ホームへの階段下から御徒町方向を見たもので、奥が現中央通りに面していた 。 途中に改札があり、背後にあった階段でホームに上がるメイン通路だった。 上部は トップライト。
(仮称)旧北口の被害
『関東大地震震害調査報告 掲載写真』第二巻 鉄道/土木学会 より
柱型に張ってあったタイルが全部剥がれ落ちている。 1931年(昭和6年)に地下鉄銀座線が開通した時に、左側に連絡階段ができ、奥は最近まで店舗として使われていた。

残っています             2013.3.1
上野 東京ラインに関連した、神田駅の大改修工事で天井が取り払われた。
上部はプラットホームが延長されたので、トップライトは塞がれている。
2015.5.18.
見違えるほど きれいになりました。


タイルによる補修
外壁に張ってあった「煉瓦」も被害を受けたはずだか、現状のものはきれいであるため、震災後あるいは 近年になってに張り直されたものと思われる。

                  一般柱型のタイル張り          2010.8.18
厚みのあるレンガではなく、薄いかっちりとしたタイルである。 
コーナーには オリジナルのデザインを再現した 役物 (やくもの: 特殊な形をしたもの)を使っている。

参考図面 一般柱回り詳細図
『東京市街高架線東京万世橋間建設紀要』鉄道省/1920年発行 に加筆
当初から、コンクリートにタイルを張り付けた仕様だったことがわかる。 それでも 「張付 ”煉瓦”」となっているので、現在のタイルよりも もう少し厚みがあったようだ。

今回の改修工事では古いタイルがすべて剥がされて、色の濃い 新しいレンガタイルで仕上げられる。 



架道橋を載せる橋台部分の柱型には、「張り付け煉瓦」ではなく、より厚みのある レンガが積まれている。

               神田大通り架道橋 橋台のレンガ      2010.12.21

一般的にレンガはタイルよりも焼成温度が低く、多孔質で吸水性があるために凍害を受けやすい。 水が垂れる所は冬期に少しずつ侵されて、剥離してへこんでしまう。 目地モルタルは残っている。
レンガ積み と タイル張り

柱型、ここまでがレンガ↑。        右側はタイル張り。
レンガは形がいびつで 角も丸いが、タイルは直線で 角も鋭角であるため、このように隣同士に並んでいると違いがよくわかる。



B 部 : 1925年(大正14年)11月開通
増設されたのは 第二乗降場、電車線 1線、東北本線2線(当時)

山手線と京浜東北線が共用した「電車線」のうち、高架橋の1線分の建設は一期工事でできていた。 二期工事はホーム1面と電車線のもう1線、および神田を通過する東北本線2線の3線分を新設し、計6線となった。 

現在山手線として使用されている 直線の2線が、この時に造られたB部である。 高架橋の躯体は現在でもほぼそのまま使われている。 詳しくは トピックス「鉄骨造だった神田駅」を参照。

6 線の状態
終戦後 1927年の写真   米軍撮影/国土地理院

 2枚の写真を合成           ↓ここまで 二期工事 B部分 (神田大通橋の下)       2010.7.14
↑D部   と   C部↑。          二期工事で造られた東口のメインの部分は、耐震補強されて
                           今も使われている。

                   改札から一段上がった所に中二階レベルがある           2010.9.24
    天井は改装され、直通エスカレータも設置された。 
    上野 東京ラインに伴う大改修で、この付近はフラットになった。



 
C 部 : 開通時期 :1956年(昭和31年)11月
新設されたのは 第三乗降場、電車線1線、東北本線2線(当時)

6 線の状態が戦後も10年間続き、山手線と京浜東北線は 2本の線を共用していた。 山手線の環状運転開始から約30年を経て、中央線・京浜東北線・山手線・東北本線の8線となった。 

この時、旧東北本線の外側1線は線路や架道橋が撤去されたが、駅舎を含む高架橋はそのまま使われた。 現在残っているのは ホームと 京浜東北線南行き 1線。  

6 線の状態から撤去・新設された部分
終戦後 1927年の写真に加筆   米軍撮影/国土地理院
8線 となった状態
国土画像情報 CKT-74-15/C28A/国土交通省
外側(写真では上)を撤去したのは 第3ホームを新設するためである。
そのための 膨らんだ用地は早くから手当てされていたが、ボリュームからすると戦後の状態からさらに用地を足しているようにも見える。
1線を撤去したために、新設線路は3線となった。

          神田大通橋側の様子   2010.7.14
 ↑-------C部分-------↑          神田大通橋架道橋↑ 
新幹線の下から 山手線の内側方向を見ている。
2本の丸柱がC部分。 撮影している東北新幹線部分に かつてもう2線分の東北本線があったが撤去されて新幹線となった。

       ↓ C部 の下の通路                     2010.10.7
残った1線分↑ 京浜東北南行き              新幹線↑ TX部
上白壁橋の下から秋葉原方向を見ている。 線路がカーブしているので、角柱では柱ごとに角度が変わることになるため、丸柱とした。



TX 部 : 新幹線建造時期 : 1990年(平成2年)頃
        旧東北本線の撤去時期 :1989年(昭和64年)頃

鍛冶町2丁目だけが 新幹線用地の新たな買収に応じなかったため、旧東北本線部分を使わざるをえなかった。

TX部分は三角形の高架橋群の頂部にあたるため、高架橋として山手線の外側に面するところはほとんどない。 また、新幹線は連続橋梁となっている。

             山手線の外側より 神田大通橋架道橋     2010.7.14
   ↑TX部分にあたる店舗。 構造は高架橋とは別で 独立している。


位 置 (終戦後の様子)
中央通り         1947年(昭和22年)の空中写真/国土地理院
      .


→東京駅
         神田駅                      外濠

第2鍛冶町橋高架橋 データ
位 置: 千代田区鍛冶町二丁目
管理番号:
道路名:
線路の数: 計 8 線 (下記 A〜D は仮の呼び名)
A: 3線: 中央線、京浜東北線北行き
B: 2線: 山手線
C: 1線: 京浜東北線南行き
D: 2線: 新幹線
橋 長: 山手線の内側で 約 72 m
スパンの数: 山手線の内側で 18
竣工年: A: 1919年(大正8年)1月頃
B: 1925年(大正14年) 計6線に
C: 1956年(昭和31年)2線増線
D: 1989年(昭和64年)頃
              新幹線のために撤去
D: 1990年(平成2年)頃 新幹線高架橋
備 考:
名前の由来:  旧町名に由来する。
町名の由来: 江戸時代 幕府御用の鍛冶方棟梁(かじかたとうりょう)だった 高井伊織の屋敷があり、周辺に鍛冶職人などが集まっていたため。

タイトルの地図について : 地図サイズ 299×90
昭和5年(1930年)測図、 昭和31年(1956年)第2回修正測図 1万分の1地図
「日本橋」に加筆                  地理調査所/国土地理院 発行

Top Menu へ 山手線が渡る橋・くぐる橋 高橋俊一 上白壁橋架道橋 へ