山手線が渡る橋・くぐる橋  − 架道橋 (ガード) ・跨線橋 −

神田 → 東京
9. 千代田町橋 高架橋

神田駅から少し離れた高架橋。 関東大震災の被害があった部分は補修されているが、オリジナルが残っている部分も多い。


補修された部分が崩れ落ちて、中のオリジナル部分が露出している橋脚。
アーチのレンガ部分はオリジナルのようだ。  詳しくは 本文で。

山手線の内側から 以下のような仮称を付ける。 
  
  
  C部

  
 : 中央線 2線
 : 山手線・京浜東北の4線
 : 旧 東北本線

 : 新幹線
 : 1919年(大正8年)開通
 : 1925年(大正14年)増線
 : 1956年(昭和31年)増線
          その後撤去
 : 1991年(平成3年)開通


A 部分 : 中央線2線 1919年 3月1日開通。

                           山手線内側の様子                    2011.6.2

西今川橋架道橋↑
神田駅西口までさほど離れていないのだが、飲食店はここまで。

構造は コンクリート拱橋式 (アーチ形式)
高架橋は新橋付近から始まり、 東京-神田間の常盤橋ガードまでのほとんどが、純レンガによる【拱橋】・アーチ構造であった。

その後はコンクリートの【拱橋】に加えて、地盤が悪い所では重量の軽い「スラブ形式」が採用された。 高架下の空間を利用しやすい という事も考慮された。  スラブ式には橋脚の形によって「壁式」 と 「単柱式」がある。

市街線橋梁立面図 (部分)

下図の
下段に
続く

『東京市街高架線東京万世橋間建設紀要』鉄道省/1920年発行
スパン(橋台面間長)は 32フイート、約 9.7m 。 
図面上部に 上白壁橋と第1鍛冶町橋。 最下部右側に隣の西今川橋。

アーチ形式では基礎の数が半分であるし、砂利を充填するために重量が重くなり、地盤が悪い所では不利となる。

一期工事 竣工時の写真 1919年(大正8年)
『東京市街高架線東京万世橋間建設紀要』鉄道省/1920年発行
千代田町橋高架橋↑      ↑千代田橋架道橋       新石町橋高架橋
山手線の外側から 東京駅方向を見ている。 内側(写真とは反対側)は道路に面しているのでレンガで化粧したが、外側はすぐに二期工事が始まって見えなくなるので、モルタル塗り仕上げである。

道路側から見ると、レンガ造りと間違える人もいるかも知れないが、「常盤橋架道橋」以北はコンクリート製アーチであり、図面や実物の内部を見れば 一目瞭然である。

                 アーチの内部 (車 庫)         2011.6.2

断面図 (設計時)
『東京市街高架線東京万世橋間建設紀要』鉄道省 / 下図も
2線分の橋の幅は27.5 フィート 約 8.4m。
道路側(図の一番右)のレンガ積みは、アーチとアーチの中間の 「橋脚」を意匠的に作っている部分で、レンガ一枚分を積んだ仕上げとなっている。 この図に立面はないので、別の場所の立面図を下に示す。

立面図 (黒門町橋高架橋)

神田駅付近の高架橋では火災などの被害で、震災後に補修されていると思われるが、このオリジナルの仕上げの様子がきれいに残り、しかも断面が見える所がある。  ここから もっと東京駅寄りの「常盤橋架道橋」で、中央線高架化工事のためにワイヤソーで切断された部分である。

                     レンガ仕上げの断面 (常盤橋架道橋)            2009.12.10
約100年前の構築物、このきれいさには感激!  レンガ一枚分を 小口積みにしているのがよくわかる。 レンガとコンクリートが一体になっているので、れんがを積んだ後にコンクリートを打ったのだろう。
 
一方で、アーチ型の壁の部分は 初めからレンガタイル張りだったと思われる。 下図は アーチ部ではなく、スラブ形式(柱・梁形式)部分の詳細図である。
スラブ形式】部分の断面図
『東京市街高架線東京万世橋間建設紀要』鉄道省
壁の仕上げは「張付煉瓦」となっている。 煉瓦と(磁気)タイルの違いは焼成温度にある。 煉瓦の方が温度が低くて多孔質であるために水を吸いやすく、そのため東京でも凍害を受ける。


大震災による被害 と 補修
中央線開通から約4年後に起こった関東大震災で、神田駅は火災にも見舞われて、大きな被害があった。

線路際の道路幅は 建設当時 2間(3.6m)しかなかったので (『東京市街高架線 東京上野間建設概要/鉄道省』による)、隣接する木造家屋が燃えた場合にも、すぐにその影響があっただろう。

被害の様子 現在の様子(トップの写真と同じ)
『関東大地震震害調査報告書 第二巻 鉄道・軌道之部』1923年/土木学会 より
掲載許可 取得済み

石材部分の補修については容易に判断できる。 御影石(花崗岩)は結晶水を含んでいるので火に弱く、火災に遭うと弾けてしまう。 補修部分は石の粒をモルタルに混ぜて塗る 「擬石仕上げ」となっている。

一方で 煉瓦積み および 煉瓦タイル張りの部分は、現状を見て その部分が
オリジナルなのか、震災後に改修されたものなのかの、判別が難しい。

筆者は、エッジがシャープで硬質なタイルの部分を「補修」と考えている。

オリジナルと思われる レンガ
削いだように割れている部分がある。 破損は凍害だけではなく 物がぶつかって壊れたケースもあろう。

補修に使われたと思われるレンガタイル
タイルの質が異なる。 厚みは 20mm (〜18mm)。 撮影はすべて 2011.7.26
割れたタイルから 厚みがわかった。

補修された 石材部分
駅に近い 千代田ガード の橋台。 元 花崗岩だった部分は擬石仕上げで補修されている。 橋台部分のレンガ仕上げは、オリジナルなのか補修なのかはわからない。 恐らくオリジナル。

駅から離れるほど被害は小さかったようで、千代田町橋高架橋の南の端には
オリジナルの石材が そっくり残っている。

オリジナルの花崗岩
西今川ガード 橋台のコーナーで、千代田橋架道橋よりも東京駅寄りの場所である。 神田方向を見ている。
このコーナー柱(化粧)は、すべて オリジナルの花崗岩が生きている。 

    ↑補修されたボーダー と オリジナルの石材↑
ここは前掲のコーナーの左側に続く橋台部分。 目の高さにまわっている「ボーダー」の左ふたつ、茶色く くすんでいる部分がオリジナルのままである。
レンガが黒っぽくくすんだ部分は、火事で煤けたせいか 補修後なのか、判断が難しい。


大震災による被害 と 補修 - 2

さて、冒頭の写真の場所は 全部で10本(9スパン)ある柱の南から3本目である。
付近では、ほかの高架橋も含めて山手線の内側の壁はすべてタイルが張られているのだが、ここだけが モルタル塗り。
推測では、
   震災直後はなんとかオリジナルを生かしたのだが、いつのときか、柱型の
   レンガが剥がれてしまった・・・・。
ベース部分は薄いレンガと擬石仕上げで補修したものが、やはり壊れてきた。


張り付けてあるレンガの厚みは 45mm。 赤い色がオリジナルのレンガ。



B 部分 計 4 線、 :1925年(大正14年)11月開通
現在の山手線と京浜東北線の4線で、構造はA部と同じくコンクリート・アーチ式で密着しており、アーチの開口も同じ位置である。 開通当初は 山手線と京浜東北線は2線を共有、あとの2線は東北本線であった。

                千代田橋架道橋の下          2010.8.18
    新設第1線(現京浜東北線北行き)             中央線2線 
    ↑B部分(二期工事)            ↑A部分(一期工事)

2010.12.21                 B部を 山手線の外側から見る                 2011.6.2
    東京駅方向                    神田駅方向
経費節減のために、山手線の外側は一期工事よりもさらにシンプルなモルタル仕上げとされた。 この高架橋が竣工してから 三期工事完成の1951年(昭和26年)まで、 太平洋戦争を挟んで約25年間はこの外観が見えていた。

山手線の外側から (新幹線の下から)
↑西今川橋架道橋 
その後 山手線と京浜東北線 完全分離のために全8線となり、ここには旧東北本線2線(C部)があったが、新幹線建設時に撤去された。 撤去は次の「西今川橋架道橋」までであった。

C 部分 計 2 線、 :1951年(昭和26年)竣工
        旧東北本線の撤去時期 :1989年(昭和64年)頃
        新幹線建造時期 : 1990年(平成2年)頃
山手線と京浜東北線を完全分離するために、すでに確保してあった外側の敷地に2線が増線する工事が、1949年(昭和24年)11月に開始され、千代田町橋高架橋までが完成した後は、東京駅の引上げ線として使われた。 
1956年(昭和31年)に 田町・田端間の全線が増線され、「東京縦貫電車複々線」が一度は完成したのだが、東京駅ホームの数が少なかったために、東京発の東北本線は ほとんどなく、その後も もっぱら東海道線の折り返し、引きあげ線として使われた。

            神田駅に向かって曲がっていく新幹線      2011.9.2
↓左側に食い込んでいく新幹線
神田方向を見ている。
東北新幹線の建設時、この付近までは新幹線用地の新たな買収に応じた地域である。 この先、買収ができなかった神田駅付近を目差して左側に曲がっていく新幹線が、旧東北本線部分(C部分)に掛かってくるため、ここから北側は2線が撤去された。

二階建ての高架は 足場が取れた東北縦貫線。 
東海道線と東北線直通運転の「悲願達成」までにはまだ時間が掛かる。


D 部分 新幹線 : 1990年(平成2年)頃

              山手線の外側 東京駅方向を見る      2011.6.21
山手線の内側は倉庫だが、「神田ふれあい通り」には飲食店が続く。

            山手線の外側 神田駅方向を見る      2011.6.21
←西今川橋架道橋



位 置 (終戦後の様子)
龍閑川               1947年(昭和22年)7月の空中写真/国土地理院
       神田駅                外濠                               東京駅

千代田町橋高架橋 データ


位 置: 千代田区鍛冶町一丁目
管理番号:
道路名:
線路の数: 計 8 線 (下記 A〜D は仮の呼び名)
A: 2線: 中央線
B: 4線: 山手線、京浜東北線
D: 2線: 新幹線
橋 長: 山手線の内側で 約 83 m
アーチの数:
竣工年: A: 1919年(大正8年)1月頃
B: 1925年(大正14年) 計6線に
C: 1956年(昭和31年)2線増線
   1989年(昭和64年)頃 撤去
D: 1990年(平成2年)頃 新幹線高架橋
備 考:
名前の由来:  旧町名に由来する。
町名の由来: 「千代田」の意味は永劫に続く田 であり、開通当時は神田区千代田町 であった。

この地であったかどうかは不確かだが、江戸時代から千代田村の名はあり、江戸城の別名が「千代田城」であった。

このため、戦後に神田区と麹町区が合併する時には、「千代田区」とすることで異議な くすんなり決まったようだ。


Top Menu へ 山手線が渡る橋・くぐる橋 高橋俊一 西今川橋架道橋 へ