山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋
有楽町 → 新橋

10. 内山下町橋 高架橋

高架橋内はリニューアルされ、2020年9月に「日比谷OKUROJI」がオープンした。以下は10年以上前の かつての様子 である。

『東京市街高架鉄道建築概要』 の写真に加筆 

新橋駅







1914年(大正3年)12月発行
現状の全景写真は撮れないので 竣工当時の写真を利用する。 後に手前に線路が増設され 外濠も埋められて、この姿は見ることができない。

『東京市街高架鉄道建築概要』は、鐡道院東京改良事務所が新銭座−銭瓶町間の高架線工事の概要として発行したもので、この写真は土橋付近から 北方向(有楽町方向)を撮影している。 高架橋にはすでに4線が敷かれており、右奥に東京駅のドームが写っている。 中央の「内幸橋架道橋」では 堀に橋が架かっていない。

当時の山手線は 新橋(旧汐留)-品川-新宿-田端-上野間の 字型の状態で、この区間が初めての「高架橋」だったため、報告書のタイトルに「区間名」が入っていない。 注)
注 ) : レンガアーチ橋としては初めてではなく、1874年(明治7年)に阪神間、1877年(明治10年)に京阪間の鉄道、また1893年(明治26年)の碓氷峠などで建設されていた。
  小野田滋/『鉄道ファン』 2012年10月/帝都の赤絨毯 新永間市街線2


印より手前(南側)が 内山下町橋高架橋。 山手線の内側から 以下のような仮称を付ける。 






首都高
八重洲線
                       新橋方向↓


TS
: 4線
: 2線
: 2線
: 1910年(明治43)年6月 烏森-有楽町間 開業
: 1942年(昭和17年)7月までに増線
: 東海道新幹線 1964年(昭和39年)開通



A 部分 : 電車線 と 旧東海道本線 計4線分 
 1910(明治42)年 烏森-有楽町間 開業

レンガ造の高架橋としては 最長の 299mで、4線とも 昔のままで使われている。 内山下町橋高架橋が最長となったわけは、トップの写真で見るように、外濠に沿っていて道路がなかったためである。 もし、中央に写っている内幸橋架道橋を計画していなかったら、400 メートル以上の長さとなった。

地盤沈下が激しい区域なので、昭和時代に2回の補強がなされているが、阪神や東北の震災を受けて、再度の耐震補強工事が進められている。

内山下町橋高架橋 北端       2013.4.10
山下橋
架道橋





山手線の内側から。 北端は山下橋架道橋で、もともと 有楽町駅から続く高架下の店舗が終わりになる場所だったが、現在は工事のために移転・撤去されたところが多い。

橋脚のデザイン
新橋駅から第一有楽町橋高架橋までは、ベルリンのSバーンを真似た 同じデザインだが、違うのは 小さなアーチ部分が空洞であること。 地盤沈下を少しでも抑えるために、重量の軽減と材料の節約を兼ねての工夫である。
参考 : ベルリン Sバーン ヤノヴィツ駅
Wikipedia より

開口には簡単な鉄の扉が付けられているが、錆びて取れていた部分があったので、一脚にカメラを取り付けて 内部を撮影してみた。 図面の通り 奥は行き止まりだった。 
断面図 小アーチの内部
表から見える立面部分は丁寧な仕上げだが、アーチの内部はレンガの並べ方も雑だし、当然のことながら 目地も仕上げていなかった。

グループ橋脚         2012.8.20
内山下町橋高架橋では3箇所の橋脚が大きな橋脚となっている。 (写真は新橋側から16番目の橋脚) 基本設計を行った フランツ・バルツァーの論文に、すでにこの大きな橋脚が記載されており、実施設計もそれにならって作成された。 論文中にある ドイツ語の gruppenpfeiler に従って「グループ橋脚」と呼んでいる。
Die Hochbahn von Tokio (1903) より
左は「グループ橋脚」の断面、右が 通常の橋脚の立面図。 スパンは 12m。

内山下町橋高架橋の建設
『東京市街高架鉄道建築概要』 の写真に加筆
新橋方向を見ている。 橋脚の垂直部分ができた状態で、が 前掲写真の新橋側から 16番目のグループ橋脚。 建設現場の左側は「外濠」だが、工事中はほとんどが埋め立てられ、飯場や資材置き場となっている。 竣工後はトップに掲げたように元に戻された。

図面にあるように 橋脚間のスパンは 12mで、ほかの高架橋の8mよりも大きい(第1有楽町橋は同じく 12m )。 このため、荷重を橋脚に伝えるアーチの厚さが厚い。 

レンガは5枚厚 第3有楽町橋高架橋
小口を並べた状態で5枚。 スパン8m の高架橋では4枚である。 黒いレンガが装飾として使われている。

高架橋の高さは 5 〜 6 メートル


新橋−東京間の一部に勾配はあるが、基本的には軌道は水平に造られた。 高さは、架道橋部分で車の通行を確保する寸法で決められた。 歩いて見上げると高く感じるが、ビルに較べればたいした高さではない。

↑左端に写っている開口は、奥に抜けられる通路となっている。

A 部の 内部 ( @ )         2013.4.10
公共通路ではない。 内部は 1971年にコンクリートで補強されている。 奥に見えているのが T部 と TX部 で、T部の項で奥からこちらを見た写真を載せる。

南端部              2013.3.29
再補強のために 空き家となっている。 ここまで来ると、新橋駅まであと ひと息となる。
アーチの 内部            2012.8.20
店舗の場合は、1m半ほど低くしていることが多いが、事務所や倉庫として使われていた部分は、床レベルを道路に揃えている。 



T 部 2 線分 : 1942年(昭和17年)7月 竣工、
                現 東海道本線

T部は柱梁形式(ラーメン構造)で、北側は「インターナショナル・アーケイド」、南側は事務所などとして使われている。 TX部との間に4m弱の通路があり、南部では駐車スペースとなっている所もある。

T 部 北端             2013.3.29
↑新橋方面への通路
山下橋架道橋の下で新橋方向を見ている。 インターナショナル・アーケイドが 東海道本線 T部の高架下。

延々と続く 通路
TX部                     T 部
北側ではこの通路の自動車通行はできない。

A部 @で示した場所
山下町橋高架橋側から 3分の1 くらいの場所で、昔アーケードだった最後の部分は カクヤスの基地となっている。 T部の梁(一部 黒色塗装)が曲線のデザインなのは、A部のアーチを意識したものか?

延々と続く 通路
所々に飲食店が残っているが、やっていけるのだろうか?

T 部 最南部             2013.3.29
山手線の内側(西方向)を見ている。 奥のアーチは A部の第1アーチ。 以前はハイヤーが停まっていたが 現在はコインパークで、料金は 15分 200 円。

内幸橋架道橋の下から 有楽町方向を見る   2013.3.29
内山下町橋高架橋の南端は、内幸橋架道橋の橋台部分。



TS 部分 :東海道新幹線2線:1964年(昭39年)10月
   東京オリンピック開催に合わせて開通

山手線の外側            2014.6.9
新幹線と首都高速の間に 一方通行の狭い「道」がある。 標識の下に小さい字で、「東京高速道路KK の敷地なので 関係者以外の立ち入り禁止」 とある。
首都高 新幹線
元は堀だったせいではないのだが、道は半地下レベルとなっている。 首都高側のための通路で、新幹線高架橋側には はいれない。

一階からの眺め

二階への階段

南側でまた登る           2013.3.29

通路を振り返る



位 置
1948年(昭和23年)3月の空中写真/国土地理院
有楽町駅                               新橋駅
写真サイズ 400 ×135 ドット

内山下町橋 高架橋 データ
位 置: 千代田区内幸町一丁目
管理番号:
道路名:
線路の数: 8 線 (下記 A〜TX は仮の呼び名)
A: 4線: 京浜東北線、山手線
T: 2線: 東海道本線
TS: 2線: 東海道新幹線
橋 長: A部で 987.5尺、約 299 m
『東京市街高架鉄道建築概要』による
アーチの数: A部 21
竣工年: A: 1909年(明治42年)12月
         烏森-有楽町間 開業
T: 1942年(昭和17年)7月までに増線
TS: 1964年(昭和39年)開通
名前の由来: 山下橋の外側に「山下町」ができ、内側は「内山下町」となった。

内山下町 と 山下町
1921年(大正10年)修正地図/国土地理院 サイズ 400 × 300
以南が 内山下町橋高架橋。

タイトルの地図について : 地図サイズ 299×94
明治42年(1909年)測図、 大正5年(1916年)第一回修正測図 1万分の1地図
「日本橋」に加筆          大日本帝国陸地測量部/国土地理院 発行

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