山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋
新橋 → 浜松町

5. 芝口町橋 高架橋
タイトルが水色の写真は、10年以上前の撮影(過去の様子)であることを示す。

芝口町橋高架橋の当初の平面形(A部 黄色の網掛け)は小さな三角形で、旧東海道線の2線だけが通っていた。新幹線部分は既存部とは違って架道橋が長く、高架橋(緑)は変則的な位置にある。
山手線の内側から 以下のような仮称を付ける。 
A部
T部
TS部
:2線
:2線
:2線
: 1909(明治42)年12月 品川-烏森間 開業
: 1942(昭和17)年7月までに増線
: 東海道新幹線 1964(昭和39)年 開通



A 部分 :旧東海道本線 2線分 
  1909(明治42)年 品川-烏森間 開業

高架橋A部の 概略平面図
黄色の部分が当初開通したA部の高架橋で、開通した4線のうちの 第3・4線が通っていた。アーチはひとつだけ(1径間)で両側とも橋台のため、メダリオンは無かった。
橋台のコーナー      2024.1.22.
三角形の頂部。左面が日陰橋架道橋の橋台、右が芝口橋架道橋の橋台であるため、どちらにも「芝口町橋高架橋」の名称板は無い。
橋台の様子
左面の日陰橋架道橋側はさほどではないが、右側は火災の被害を受けたようで、花崗岩の表面が崩れている。またレンガ面も痛んだようで、レンガタイルが張られていた。
コーナー部も上から下まで補修されている。
小野田氏の記述 (『帝都の赤絨毯 -新永間市街線 その6-』鉄道ファン 2013年7月) によると、このコーナーにアンカーされた「柱」が芝口橋架道橋の桁の一カ所を支えていたそうだ (下図の赤丸あたり)。それは建設当初、ふたつの桁が特別な位置関係にあったため、橋台に掛からない部分があったためである。

戦後にすべての桁が架け替えられたので、今は無い。



T部 2線分 :1942(昭和17)年7月 竣工、現 東海道本線

T部北側 日陰橋架道橋の橋台   2024.1.22.
浜松町方向を見ている。構造は柱梁形式(ラーメン構造)で、北側では第5線・6線の橋台がそれぞれ独立。左側のの隙間から、高架橋の東面を見ることができる(次の写真)。
T部東側の北部 高架橋の名称板


日陰橋架道橋の下から見た T部高架橋の東面。
その左側は 新幹線の高架橋で、両者のあいだの通路は極狭い。
作業がやりにくいにもかかわらず、柱はしっかり補強され、名称板も張り直されている。
 
左:A部南側、右:T部南側 の橋台 T部南側 源助橋架道橋の橋台 2024.1.22.
次は高架橋の南側。ともに北方向を見ている。
南側の第5線・6線は特殊で、ふたつ先の「源助橋架道橋」の橋台となっている。戦前に東海道本線が増線された時、第二源助町橋高架橋部分は増設せずに、ここまでの長大な桁を架けたためである。詳しくは源助町橋の項で。
T部東側の南部 T部東面の南部   2024.1.21.
左写真は北方向、右写真は西方向(山手線の外側から内側)を見ている。
左写真:新幹線の高架下に、都営地下鉄浅草線の入口がある。普段利用しないので、こんな所に入口があるのを知らなかった。しかも、建物の陰になっていて見えづらい。
T部の高架橋は上部の手摺りもコンクリート製。
三角形の底辺にあたる東側は比較的短く、半分が新幹線の高架橋に遮られている。右写真はその南側の様子で、ここにも名称板が付けられている。

高架橋には 東海道線のホームの一部が乗っている。ただし現在は使われていない部分である。
東海道線のホームから






使われていない
 ホーム南端
T部はコンクリートの手摺りの部分で、前掲写真にその南側が写っている。手前は日陰橋架道橋のT部。
右奥の使われなくなったホームの一部は、芝口町橋高架橋の上に乗っている。



TS部分 :東海道新幹線2線:1964(昭39)年10月
   東京オリンピック開催に合わせて開通

山手線の外側(東側)
中央部から左側にかけてが新幹線の高架橋部分。


位 置
1948(昭和23)年3月の空中写真 / 国土地理院
新橋駅                     浜松町駅

芝口町橋 高架橋 データ
位 置: 港区新橋三丁目
管理番号:
道路名:
線路の数: 6線(下記A~TS は仮の呼び名)
A: 2線:京浜東北線、山手線
T: 2線:東海道本線
TS:2線:東海道新幹線
橋 長:  不明、T部で 20 m 程度か?
アーチの数: A部 1径間
竣工年: A:1909(明治42)年12月
      品川-烏森間 開業
T:1942(昭和17)年7月までに増線
TS:1964(昭和39)年10月
名前の由来:  建設当時の付近の町名「芝口町」
 による


芝口町の歴史
江戸期からの町名。





江戸時代以前 付近は海(日比谷入江)だった。
関ヶ原の戦い後、家康が定めた当初の東海道の起点は、日比谷入江の南西に位置する「本芝」だった。
その後 日比谷入江を埋め立て。残した汐留川に「新橋」を架け、東海道を日本橋まで延ばした。
江戸城築城に際して、日比谷御門の造営のために、現在の日比谷公園内から、後の芝口二・三丁目に町屋が移転。日比谷町と称していた。







1707(宝永4)年、芝口御門建設のための立ち退きの替え地として、芝口一丁目(・・・印)西側町(切り絵図 緑の網掛けの西側)があてられた。
1707(宝永4)年に、日比谷町二・三丁目は 芝口町二・三丁目に改称。「芝口」とは、新橋以南の「芝」地域への入口の意。
1710(宝永7)年に、南の「札の辻」にあった門を新橋の北詰に移築し、枡形の城門とした。芝口町と向かい合う位置にあったために「芝口門」と呼ばれるようになり、橋の名も「芝口橋」となった。

嘉永3(1850)年発行 江戸切絵図 愛宕下之図 に加筆
1724(享保9)年 門は焼失。やがて石垣も撤去され、橋の名は 新橋 に戻されたが、芝口の町名は残った。
東京市芝區全図

『東京市芝區全図』東京郵便局 / 明治40(1907)年1月調査
切り絵図から 約60年。江戸時代の町名がそのまま受け継がれている。が 高架橋で、芝口町三丁目の南西の角にあたる。
この項の参考 URL :
 『江戸町巡り /【芝/芝口】』、
 『写真でひもとく街のなりたち』三井住友トラスト不動産、 
 『国立国会図書館デジタルコレクション』江戸切絵図、

タイトルの地図について : 地図サイズ 299×94
明治42年(1909年)測図、 大正5年(1916年)第一回修正測図 1万分の1地図
「新橋」に加筆         大日本帝国陸地測量部/国土地理院 発行

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