山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋 | ![]() |
新橋 → 浜松町 |
13. 新銭座 架道橋 |
2024.10.31 掲載 |
タイトルが水色の写真は、10年以上前の撮影(過去の様子)であることを示す。 |
現在8線の新銭座架道橋について調べたところ、汐留貨物駅の入口に位置することから、日本の貨物輸送の盛衰を物語るものであることがわかった。最盛期には 約24線もの線路をくぐっていた。 |
本項でも、グレー地の記述はこれまでと同様に「推定」に基づくものである。 |
まず 上から見た全体像を。 10年以上前の写真だが、A〜TS部は現在と同じ状態である。 |
海側(TS部の左側)道路の拡張工事中 2010.12.16. |
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A部 | :2線 | :1872(明治5)年 旧新橋 - 横浜間 単線開業 :1876(明治9)年 旧新橋 - 品川間 複線化 |
旧A部 | :計6線 | :1909(明治42)年12月 品川-烏森間 2線開業 架道橋は貨物用も含めて 計6線 架けられた :1914(大正3)年12月 東京駅開業 4線開通 |
現A部 | :現在は4線 | |
T部 TS部 | :2線 :2線 | :1942(昭和17)年7月頃 開通 :1964(昭和39)年 東海道新幹線 2線開業 |
ゆりかもめ から 2012.7.1. | ||
← 浜松町 |
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→ 新橋 |
手前の道路 補助313号線の拡張工事中の写真。右下の道路に埋まっているのは、架道橋内を通る RC造の雨水排水管。 |
新幹線の桁の長さが、A部・T部の3倍近い。それは、ここの道路 港区画街路第5号線の計画幅が 16 m となっているためで、線路の内側(写真奥)は拡張済み。しかし交通量が少ないので、当分のあいだ 架道橋を広げることは無いだろう。 |
近 景 (西側) 2024.2.8. |
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山手線の内側。海へ向けての一方通行で、高さ制限は 2.2m と低く、トラックなどは通れない。このため もし拡幅工事をする時は、掘り下げることになろう。 |
近 景 (東側・海側) 2024.2.8. |
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開けた感じがするのは、将来拡張する時のために「翼壁」の位置に余裕があるため。桁下は新幹線部分も大して変わらない。 |
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工事前の東側 2010.1.3. |
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変則的な名称 ? |
まず初めに、本架道橋の名称は 次の「浜松町架道橋」とともに、これまでの架道橋とは異なることに気が付いた。 |
架道橋・拱橋名 一覧『東京市街高架鐡道建築概要』(1914) | |
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それは「橋」が付かないこと。拱橋(高架橋)の旧名には「橋」が付かないが、架道橋のには必ず「橋」が付き、現在の名称は旧名に「架道橋」を付け足して「汐留橋架道橋」などと呼んでいる。 |
これは不思議でもなんでもなく、本架道橋が「高架橋」の途中に位置するのではなく、築堤をくぐる架道橋だからだった。上野以南はずっと高架橋が続いていたので「橋」の付く名に慣れてしまっていたためで、通常は町名や地名の架道橋名を付けることを忘れてしまった。 | |
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それよりも、前掲の架道橋一覧表や次の縦断面図では「新銭座町」となっているので、本来は「新銭座町架道橋」となるはずなのに、現地の公式名称は「新銭座架道橋」で「町」が抜けている。 |
この理由はわからない。 |
もう一つ気になるのは、『東京市街高架鐡道建築概要』の路線縦断面図に「踏切」の名称があること。 |
東京駅に向けての「新永間 市街高架鐡道」では、前掲の一覧表にあるように、架道橋であって踏切ではないことは確かなのだが、なぜ工事報告書に「踏切」の名があるのか、それが不思議である。工事前にはここが踏切だったということだろうか。 |
新橋-横浜間、初めての鉄道が開通した後の『東京五千分之一』/1887(明治20)年発行の地図を確認したが、特に踏切の記号は記されていなかった。 |
A:『東京五千分之一』/ 1887(明治20)年 部分 |
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海側に「海軍軍楽隊」の敷地入口があるので横断は必要で、土手を少し上って踏切があったものと思われる。 |
A2:同図 部分拡大、踏切かどうか? |
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両側に柵の記号はあるが、踏切が横断しているようには表現されていない。架道橋の記号もない。なお、この道は両側に側溝があった。 |
線路数の変遷 |
地図や空中写真などで 線数を確認できたもの、その変化を一覧とした。 |
・項目番号をクリックすると、その項に移動する。 |
項目番号 | 年 | 電車線 | 東海道 | 新東海道 | 新幹線 | 貨物線 | 合計 | 地図・写真番号:備 考 | |
1. | 1872(明治5) | 1 | 1 | A:旧新橋 - 旧横浜間 開通、踏切 | |||||
1876(明治9) | 2 | 共用 | 2 | 同:複線化 | |||||
2. | 1909(明治42) | 2 | 2 | 2 | 6 | 現新橋駅まで開通、最初の架橋 | |||
(現A部) | 1913(大正2) | 2 | 2 | 2 | 6 | B:『日本鉄道史/鐵道省』の平面図 | |||
1914(大正3) | 2 | 2 | 2? | 6? | 東京駅開業、旧新橋→汐留駅に | ||||
1927(昭和2) | この頃 芝浦線の工事開始 | ||||||||
3. | 1936(昭和11) | 2 | 2 | 5〜6 | 9〜10 | C:空中写真、ただし解像度不良 | |||
踏切? | 東海道本線増線工事の開始 | ||||||||
1942(昭和17) | 4 | 2 | 3? | 9? | 東海道本線 2線増線 | ||||
1944(昭和19) | 4 | 2 | 3? | 9? | :空中写真、貨物線も架道橋に | ||||
4. | 1947(昭和22) | 2 | (2) | 2 | 6 | 12 | D:空中写真、電車線2線は不使用 | ||
A部の桁は 現在の間隔に | |||||||||
1956(昭和31) | 桁の架替えか | 2 | 6 | 12 | 源助橋架道橋 架け替え | ||||
山手・京浜東北分離、4線使用 | |||||||||
1961(昭和36) | 4 | 2 | 7 | 13 | 芝浦線向けの1線増線? | ||||
1962(昭和37) | 芝浦線の短絡線が開通 | ||||||||
5. | 1963(昭和38) | 4 | 2 | 14 | 20 | E:空中写真、新幹線の工事中 | |||
1964(昭和39) | 4 | 2 | 2 | 14 | 20 | 東海道新幹線開通 | |||
1975(昭和50) | 4 | 2 | 2 | 16 | 24 | F:空中写真 | |||
6. | 1986(昭和61) | 4 | 2 | 2 | 13 | 21 | 汐留駅 閉鎖 | ||
1989(平成元) | 4 | 2 | 2 | 2 | 10 | G:空中写真、線路は撤去 | |||
1995(平成7) | 4 | 2 | 2 | 2 | 10 | ゆりかもめ開業 | |||
7. | 2010(平成22) | 4 | 2 | 2 | 0 | 8 | 都道補助313号拡張工事開始 | ||
現在 | 4 | 2 | 2 | 0 | 8 | ||||
1. 最初の鉄道 | :1872年(明治5年) 新橋 - 横浜間 開業 |
地図A と次に示す 地図B との比較により、我が国最初の東海道線の位置は、現在のA部の東寄り、第3線・4線あたりだったことがわかる。 |
地図A:1887(明治20)年 | 地図B:1913(大正2)年 | |||
![]() | → | ![]() |
このABは ほぼ同スケール。線路の東側で水路が雁行しているが、その形状が変わっていない。 |
2. 最初の架橋 | :1909(明治42)年 品川-烏森間 開業 |
前図の位置関係から、旧線(ほぼ地上レベル)で列車を運行しながらまず西側に築堤し、2線以上の架道橋を設けてから、次に海側の部分を完成させたものと考えられる。 |
『東京市街高架鐡道建築概要』の架道橋一覧表から、ほかは 電車線2線、東海道線2線の 計4線だが、本架道橋だけが6線分架けられたことがわかる。径間は 20尺(6.06 m)。 |
その理由は、 |
初めの2線は踏切で、今回の増線で 貨物線2線・のちの東海道線2線・電車線2線 の6線が必要となったため。 |
架道橋・拱橋名 一覧 (再掲) |
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「桁の種類」が「版桁」となっているが、現在の桁は架け替えられたものと考えられ、当初の桁の詳しい形式はわからない。 |
『日本鉄道史 / 鐵道省』(1921) の平面図を見てみると、 |
B:汐留駅詳細図 1913(大正2)年現在 |
![]() 『日本鉄道史 / 鐵道省』(1921) に加筆 |
B2:部分拡大 |
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架道橋・暗渠もその形状がはっきりとわかる。 線路はすべて土手(築堤)の上で、確かに6線ある。 |
この時点では A・B線が汐留駅に接続されているが、このあとすぐに 第B・C線部分は東海道本線用となって東京駅に向かうことになる。 |
図B3:『東京市街高架鐡道建築概要』1914 |
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青の2線が旧東海道線、赤の4線が増線された。 |
それはともかく、最初に造られた架道橋は現状のどの部分か? |
筆者の推定は、現在 4線の電車線が架かっている「レンガ橋台部分」である。 |
推定の手掛かりは、 |
・架道橋内で道路が曲がっている。 ・その手前がレンガ、海側がコンクリート造である。 ・元は6線だったため、現在の4線の桁の間に余裕がある。 |
屈曲する道 | ||
東海道線 新幹線 | ![]() | 電車線 →計4線 |
▲が屈曲点。この後 電車線 D・Eを動かすことなく、しかも敷地を所有している海側に貨物線を増線するのは当然のことである。 |
山手線の内側 (再掲) 2024.2.8. |
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南側 (浜松町側)の橋台 2024.2.8. |
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架道橋の幅を測ってみると 5.98m で、架橋時の径間 20尺(6.06 m)と一致するため、幅は広げられていない。 |
北側(新橋側)の橋台 左:築堤の石垣、 右:隅石 同上. | |
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明治末の石垣。白く塗装されているが、隅石の段の間にはレンガが見えている。このため、架道橋北面(歩道側)の化粧パネルの内部には、全面的にレンガが残っているはずである。 |
架道橋の北面 (新橋側) |
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3. T 部 | :新東海道本線 |
:1936(昭和11)年 増線工事開始 | |
:1942(昭和17)年7月 開通、現 東海道本線 | |
:2005(平成17)年頃 現在の桁に架け替え |
1909(明治42)年に旧東海道本線2線が開通してから30年近くが経ち、東海道線と横須賀線を運行するには2線では線路容量が足りなくなった。このため、1936(昭和11)年11月に増線工事が始まって、1942(同17)年までかかって完了した。 |
『「東工」90年のあゆみ』による |
その時の桁の仕様はわからない。 |
なお 当初は列車線2線、京浜線の急行電車用に2線を使う計画だったが、戦時のために急行電車の運行は取り止めとなり、終戦まで 6線のうち第3線・4線は使われなかった。 |
C:1936(昭和11)年の状態 |
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1936年、新しく東海道本線2線を増線する工事が始まった年である。写真の解像度が悪いが、すでに海側には数線分の貨物線が敷かれている。 |
元々6線だったA部(写真下側)に注目すると、内側の4線はあるが、外側2線の桁が取り外されていて白い道路○が見えている。 |
新線が増設されたのはその外側と考えている。この時点では元の桁は移動されていないように見える。 |
なお 貨物線部分の線路が土手の下で、いまだに「踏切」だった可能性もあるが、踏切小屋などが無いようなので、すでに架道橋になっていたのではないだろうか。 |
奥のコンクリート部とレンガ部の境目 |
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現在の東海道本線の第5線は、増線したコンクリートの橋台ギリギリのところから架けられている。 |
D:敗戦直後 1947(昭和22)年 | ||
新橋 ← |
![]() 1947(昭和22)年8月1日 / USA-M385-16 / 国土地理院 |
写真Cよりも拡大している。▼が屈曲点で、その海側に東海道本線が増線された。 |
その橋台が、 |
・1942(昭和17)年以前に すでに貨物線用に造られていた ・1942(昭和17)年 東海道本線建設時に、初めて延長された |
のどちらだったかが、判明していない。前者の場合は、当然既存の橋台をそのまま使っただろう。 |
現在の桁 |
![]() |
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2005(平成17)年製作の桁に架け替えられている。亜鉛どぶ付けで塗装無し。近年の小規模な桁ではこの仕様が多い。 |
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4. A部の桁の更新時期 | :1927(昭和2)年 頃 ?? |
現状、桁の銘板を見ることができるのは第3線だけだが、10年前には第4線も見えていた。現在はサイドカバーのために? 見えなくなっている。 |
第4線 1927(昭和2)年 2010.1.3. |
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第4線はのものは比較的鮮明だったので、1行目の先頭の「昭和二年」がはっきりと読めた。 |
架道橋の幅(径間)が変わっていないので、使える部材はいつまでも使う国鉄のモットーからすると、1909(明治42)年に架けた桁をわずか20年弱で理由もなく架け替えるわけがなく、また第4線は戦中に取り外されていたので、保管していた昭和2年の桁を再利用したのは間違いない。 |
八幡製鉄所製のI形鋼 高さ 600mm 幅 190mm の2主桁による開床式上路架道橋で、繋ぎ材はリベット留め。 |
![]() |
第3線の銘板 |
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一方 現在見えている第3線は、文字が潰れているうえに「材料」の並びが4線のものとは異なるのだが、1行目の製作年は同じ「昭和二年」である。 |
第3線 部分拡大 |
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また、桁は4本とも鋼材のサイズやリベットの造りなどは、見た目に同じであるため、 |
同時期に架け替えられた可能性が高い。 |
ではいつ架け替えられたのか、を考えてみたい。 |
繰り返すが、グレー地の記述は筆者の推定に基づく。 |
写真C から約10年後の 写真Dを較べると、大きな違いがある。 |
C:1936(昭和11)年 | 1942(昭和17)年 | D:1947(昭和22)年 |
![]() |
東海道本線増線線 | ![]() |
空中写真の解像度の関係で、CとDは スケールが異なる。 ▼が 屈曲点。 |
戦後の写真D では、 ・1942(昭和17)年までに、現 東海道本線が開通 ・貨物線部も架道橋であり、6線が架かっている。 ・A部の桁が移動されていて、間隔が広い。 ・第4線が取り外されている。 しかし写真からは、これが現在の桁かどうかはわからない。 |
桁の取り外しに関しては、これまでも 新橋駅北側の「二葉橋架道橋」など、各所で同じ第4線が無い写真を見てきた。 |
使われていなかった第4線の桁が、戦時の金属類回収令で供出されたのではないだろうか。そこに、昭和初期に作られた古い桁が再利用されたと考えられる。 |
筆者の推定架け替え時期のは、源助橋架道橋が架け替えられた 1956(昭和31)年 頃、である。 |
その根拠は、 | |
・ | 源助橋架道橋架け替え時には、空頭(桁下寸法)を大きくするために道床レベルを高くした。 |
・ | 開通当初は水平だった 浜松町-新銭座間だが、現在は150mほど手前から新橋方向に向けて、 3.6‰ の勾配がついている。 |
浜松町駅 | 新橋駅 | |
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源助橋のレベルを上げるためには、本架道橋を過ぎてから、大きな勾配で登れば済みそうなものだが、何らかの理由、例えば部材が痛んできたためなどで、桁を取り替えて成を高くして、道床レベルを上げたのではないだろうか。 |
もうひとつ、架け替えの副次的な理由として挙げられるのは、1956(昭和31)年から 山手線と京浜東北線が分離され、それまでの2線から 4線を使うようになったこと。その前なら、2線ずつ交換すれば工事の手間を省くことができるため。 |
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5.TS部分 | :東海道新幹線2線:1964(昭39)年10月 東京オリンピック開催に合わせて開通 |
E:長くなった架道橋 1963(昭和38)年 |
![]() 1963(昭和38)年6月26日 / MTK-C10-20 / 国土地理院 |
ほぼ直線だった架道橋が長くなり、曲がった形で海側の道につながっている。横断する線路の貨物線は14線にもなり、山側の6線と合わせて20線。真っ直ぐにしなかった理由は不明。 |
昭和初期に日の出埠頭が建設されて芝浦線と芝浦駅が開設された後、芝浦埠頭・竹芝埠頭も建設されて貨物輸送が活発になり、汐留貨物駅が最盛期を迎える。 建設当初、芝浦線へは浜松町駅横でスイッチバックしていたが、1962(昭37)年に 汐留-芝浦への短絡線▼ が設けられた。 |
翌年には東海道新幹線が開通する。1966年、1971年の白黒写真の精度が悪いので、10年後の写真を。 |
F:新幹線開通後 1975(昭和50)年 |
![]() 1975(昭和50)年1月19日 / CKT7415-C31A-44 / 国土地理院 |
写真Eと同じスケール。新幹線の架道橋○は将来の道路拡幅を考慮した長さで造られているが、通路幅は従来通り。短絡線の同じ位置に▼印を付けてあるが、踏切のまま変わっていない。 |
新幹線部分の桁 2010.1.3. | ||
貨物線部 | ![]() | |
既存の橋台に架けられているのでなにげなく見上げると、2本ひと組のコンクリートの桁がふた組。これが驚くべき構造だった。 | ||
新幹線上り 部分 | ||
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骨太のT型コンクリートのそれぞれの両端に2本の鋼製桁を載せた、開床式の4主桁上路プレートガーダである。開床式は、恐らく新幹線の桁としては珍しいもの。 | ||
距離標 | 桁の銘板 |
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橋台を嵩上げしたコンクリート部に「JR東海」の距離標、桁には新幹線特有の N型銘板 があり、製作年は開通の前年の 1963(昭和38)年である。 |
山手線の内側から 2010.11.30. |
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新幹線はほかの6線よりもレベルが高いが、コンクリート部分はよく見えない。上からの写真を再確認した。 |
ゆりかもめ から (再掲) 2012.7.1. |
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架道橋部は3分の1なので、下からだけではこの長さを確認できない。せっかくこの長さで造ってあるのだから、架道橋を拡張する時には、そのまま使えるようになっているのだろう。あらかじめ橋台まで仕込んであるのかどうかは不明。 |
TS部の現状 2024.2.8. |
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コンクリート部は保護の上 塗装されている。桁の間が塞がれているので、開床式の様子は確認しづらい。 |
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6.汐留貨物駅の閉鎖 | :1986(昭和61)年 |
写真G:何も無くなった 1989(平成元)年 |
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1988年1月にはまだほとんどの線路が残っていたが、88年〜89年でほぼ更地になった。架道橋部東側(写真の上側)には 2線が残さているような気配がある。 |
道路拡張前の状態 2010.1.3. |
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草が生えている部分が残された部分だが、わかりにくい。 |
改修前の架道橋東側 |
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海側に長く続いていた橋台(朱色)が、無造作に取り壊されてコンクリートで補修されている(紫色の斜め部分)。 中央に「むくり」の付いたPCコンクリート版が床版として載せられている。これが延々と続いていたはずである。 |
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7.最後の改修工事 | :2010(平成22)年11月〜 |
工事開始 2010.12.5. |
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海側、旧貨物駅跡のシオサイトには、何本もの高層ビルが並んでいる。ゆりかもめの足元、線路側を道路にする工事が始まっている。▼が本架道橋の位置。 |
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浜松町までの築堤が取り除かれて新たに2車線ができ、ゆりかもめを挟んだ形の道路となった。 |
完成した東側 2018.10.9. |
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翼 壁 2018.10.9. |
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将来の拡幅時のために、土手の翼壁の位置は広げられている。 遠くに見える「貿易センタービル」は、今は無い。 |
使えるものは使う 2018.10.9. |
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新幹線横の点検通路のために、貨物線時代のPC版が1枚だけ残された。きれいに仕上げないのは、歴史を残すための意図的なものだろう。 |
位 置 |
1948(昭和23)年3月の空中写真 / 国土地理院 |
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新橋駅 浜松町駅 |
■ 新銭座(しんせんざ) 架道橋 データ | |||
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位 置: | 港区東新橋一丁目 | |
管理番号: | 15 (東海道) | ||
道路名: | 港区画街路第5号線 | ||
線路の数: | A:4線:京浜東北線、山手線 | ||
T:2線:東海道本線 | |||
TS:2線:東海道新幹線 | |||
かつての貨物線:最大16線 | |||
橋 長: | 初代A:6.06 m (20尺) | ||
現A部、T部:ほぼ 同上 | |||
TS:A部の3倍近い | |||
竣工年: | A:1909(明治42)年12月 品川-烏森間 開業 | ||
T:1956(昭和31)年 開通 | |||
TS:1964(昭和39)年 開業 | |||
名前の由来: | 建設当時の付近の町名「新銭座町」 による。 |
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新銭座町の由来: | 1638(寛永15)年に、常陸水戸の鳴海兵庫が、網干し場だった所を拝借 し、江戸初の貨幣鋳造所を設けて「寛永通宝」を鋳造したという。その後 町屋ができた時に「新銭座町」と称した。本所・深川の銭座と区別するた めに「芝」を付けて「芝新銭座町」とした。 |
『江戸切絵図』 芝愛宕下絵図 (部分) |
![]() 出版:1849-1862(嘉永2−文久2) / 国立国会図書館 蔵 |
○が架道橋のおよその位置。 |
『東京五千分之一』1887(明治20) |
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地図の範囲は切り絵図とほぼ同じ。江戸時代よりも町域が広がっている。 |
番外. 新銭座町 暗渠 |
報告書の縦断面図には、架道橋のすぐ脇(浜松町側)に暗渠が書かれている。しかし 項目を独立させるほどの遺構が無いため、ここに付録として掲載しておく。 |
径間は8尺(2.4m) なので小さくはなく、小さな側溝ではなかったことは地図からも想像できる。 | ||
←新橋 | ![]() |
→ 浜松町 |
山手線の内側から 2024.3.3. |
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昔の川の上で 暗渠跡を見る (縦断面図とは逆向き)。 |
旧 暗渠 |
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暗渠部分はコンクリートで塞がれている。内部は空洞のまま残っているかもしれない。 |
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