山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋 | ![]() |
新橋 → 浜松町 |
14. 浜松町 架道橋 |
2024.11.15 掲載 |
タイトルが水色の写真は、10年以上前の撮影(過去の様子)であることを示す。 |
貨物輸送がさかんな頃は、計14線の橋が架かっていた。 桁の架け替えが複数回、貨物線の廃止、架け替えに伴う桁の移設などが行われ、浜松町駅の改修に伴って現在も工事中で、その歴史は一筋縄ではいかない。 |
遠景 山手線の内側から 2024.10.26. |
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架道橋付近にいると気がつかないが、遠くから見ると、道路が掘り下げられたことがよくわかる。右の囲いの中に建っていた世界貿易センタービルは、2021年8月に解体工事が開始されたが、1階フロアへは階段を上っていた。これも、道路が下げられたことによるものだった。跡地では二代目が建設中。 |
架道橋の手前にある水色の歩道橋の手摺りはガラス製。線路よりも高いレベルに架かっている。 |
近景 山手線の内側から 2024.10.26. |
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歩道橋の上から。架道橋の桁下の高さ制限は 3.7m。 |
架道橋と歩道橋の位置関係 |
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工事中なので、現在は駅方向へは行けない。新しい駅ができると、歩道橋を渡ってからさらにもう1階分上って、3階レベルの改札口(JRとモノレールの北口)に行くことになる。 |
線路の上では 北口自由通路も工事中。 |
工事現場に掲示されていた完成時の様子。○が JR 北口。南北共に線路を跨ぐ自由通路が新設される。 |
近景 山手線の外側 2024.10.26. |
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東側は、港方向への竹芝ポートデッキ(左上のスカイウォーク) の建設に伴って線路際に昇降スペースができ、さらに北側自由通路ができると地上に下りずに改札口に行けるので、架道橋を歩く人の数は大幅に減ることになる。 |
少し古い写真だが、次のように 記号を付ける。 |
← 新橋 | ![]() 2010年12月5日 旧貿易センタービルの上から |
浜松町駅 |
・旧Fは 貨物線が通っていたところ ・T部、TS部(新幹線) は元の位置に移設後 (架道橋の歴史 6. 参照) ・A4は移設前 |
初期A部 | :1線 :2線 :3線 |
:1872(明治5)年 旧新橋 - 横浜間 単線開業 :1876(明治9)年 旧新橋 - 品川間 複線化 :1899(明治32)年 旧新橋 - 品川間 3線化 |
A部 | :3線? :4線? |
:1909(明治42)年12月 品川-烏森間 開業 浜松町駅 開業 :1914(大正3)年12月 東京駅開業 4線開通 |
いつ4線化されたかがはっきりしない | ||
T部 TS部 | :2線 :2線 | :1942(昭和17)年7月頃 開通 :1964(昭和39)年 東海道新幹線 開業 |
2024年10月 の現状 |
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前掲写真とは逆に、東側から西を見ている。 第4線 京浜東北線南行きは、元の位置・・・・から、空いていたA4とTの間 (東方向) に移動され、さらに 側径間(歩道部分)の桁が架け替えられて長くなった。 |
架道橋 |
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次の写真ともに 南方向を見ている。奥が浜松町駅の改札口。 |
計 8線分の架道橋 | |||
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A1 |
車道と奥の歩道の間に、RC造 柱梁形式の橋脚がある。 |
駅側の歩道、側径間 2010.8.27. |
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奥が海側。新幹線や東海道線のように 一気に長い桁を架けられなかったのは、右側が駅への入口であり、別の場所に新しい改札口ができるまでは、北口を現状のまま使う必要があるからで、やむなく、車道上の長い本設桁(右側)をコンクリートの橋脚で受け、右側の既存橋台との間に「仮設」の短い桁を架けてある。 |
仮設といっても、もう20年も使っているが、数年後には右側の現改札口が建て直され、側径間は10mとなって歩道が広くなる。 ただ、広がったスペースがガード下の店舗となる可能性もある。 |
浜松町架道橋の歴史 |
目 次 | |
1. 最初の鉄道 2. 初めての架橋 3. 東海道線の増線 4. 新幹線の開業 5. 汐留貨物駅の閉鎖 6. 再度の架け替え 7. 第4線の移設 |
1. 最初の鉄道 | :1872年(明治5年) 新橋 - 横浜間 開業 |
年 | 電車線 | 東海道 | 貨物線 | 合計 | 備 考:参考地図・写真番号 | |
1872(明治5) | 1 | 1 | 旧新橋 - 旧横浜間 開通、踏切 | |||
1873(明治6) | 1 | 共用 | 1 | 貨物営業開始 | ||
1876(明治9) | 2 | 共用 | 2 | 旧新橋 - 品川間 複線化:地図B | ||
まず、江戸時代末の切り絵図を見てみる。 |
地図A:『江戸切絵図 / 芝愛宕下絵図』1849-1862(嘉永2−文久2)年 |
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現在 芝離宮となっている場所は、幕末には紀州徳川家の下屋敷となっていて、その西側(図では下側)は水路だった。鉄道が開通したのは、切絵図刊行後 わずか20〜30年ほど後のこと! |
次に地図Bをチェックする。鉄道が開通してから15年後の姿。 |
地図B:1887(明治20)年 |
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縮尺は5千分の1で、柵や庭木の位置までも詳細に示している(地図Aとは範囲が異なる)。現在の竹芝通りは まだ線路までで、海側には埋め立て地の間の水路が残っている。 |
新しい鉄道を、なるべく人の住んでいない場所に通そうとしたはずなので、次のように点滅しているライン、水路を埋め立てて通したのではないだろうか? |
切絵図Aとは角度が違っている。 |
地図A2:部分拡大 |
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この地図の「築堤の表現」はほとんどが同じ幅で、地盤との高低差を推測することが難しい。海側の軍楽隊や芝離宮に行くために通路が必要だが、踏切の記号は無い。 |
▲部分で土手が凹んでいて架道橋のようにも見えるが、海側は土手が続いているので架道橋ではなく踏切だったようだ。 ▲の右横の土塁にある●は、高輪でも見つかった「信号機」だと思われる。 |
2. 初めての架橋 | :1909(明治42)年 品川-烏森間 開業 浜松町駅開業 |
年 | 電車線 | 東海道 | 新東海道 | 貨物線 | 合計 | 備 考:参考地図・写真番号 | |
1899(明治32) | 1? | 2 | 共用 | 3 | 旧新橋-品川間が3線化された | ||
1909年以前は踏切だったと考えられる | |||||||
1909(明治42) | 1 | 2 | 共用 | 3? | 現新橋駅まで開通、最初の架橋4線 | ||
12月 | 浜松町駅開業:地図C、写真D | ||||||
1910(明治43) | 2? | 2 | 4? | 烏森-有楽町、続けて呉服橋まで開通 | |||
1914(大正3) | 2? | 2 | 共用 | 4? | 東京駅開業、旧新橋→汐留駅に | ||
:写真F | |||||||
電車線が2線となった正確な年月は 不明。 |
『東京市街高架鐡道建築概要』1914(大正3)年発行 の架道橋の概要。この時4線分が架けられたが、その幅(径間)は隣の 新銭座と同じ 20尺 約6mと狭く、通行の重要性が低かったことがわかる。「桁の種類」 が「版桁」となっているが、詳しい形式はわからない。 |
地図C:1909(明治42)年 |
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1899(明治32)年にすでに3線となっていた。明治42年の地図に測量の日付が書かれていないが、発行は 43年3月なので、浜松町駅は開業している。 |
「架道橋」であるからには 当然 海側に抜けていたはずだが、芝離宮の一般公開は 1924(大正13)年からなので、この時点では軍楽隊関係者などの特定の人だけが通行していたと思われる。 |
駅部分の線路の西側(図では下側)に盛り土による空き地(黄色)が造られているが、ホームの西側には線路が無い。1916(大正5)年の地図でも同様であるため、電車線は1線だけで運用したことになる。 |
写真D:初代 浜松町駅 | ||
土盛り |
![]() 工事現場に掲示されていたもの。撮影日、出典不明。 |
開業前の浜松町駅で新橋方向を見ており、向かってくる汽車は東海道線の下り列車。「開業前」とする根拠は、電車線用の架線・支柱が駅および手前部分には無いため。 ホームの西側には土盛りがあり、線路が敷かれていない。前掲の地図C/1909(明治42)年の駅の状態と合致している。 |
開業当初は隣の烏森駅までしか開通していないので、1線だけで運用したものと考えられる。 |
写真E:初代 浜松町駅 |
![]() 『東京市街高架鐡道建築概要』より |
現在の竹芝通りから南方向を見ている。看板は「浜松町停車場入口」。ホームの西側(山手線の内側)にも線路が敷かれており、電車▲が停車している。築堤の高さはさほどではない。 |
『東京市街高架鐡道建築概要』の発行は 1914(大正3)年であり、その時までには電車線が複線になっていたことになる。1910 (明治43) 年には 呉服橋駅まで開通しているので、そのタイミングかもしれないが、正確な2線開通の時期はわからない。 |
中央にアーチカルバートがなぜか2つ写っている。さらになぜか、右下にわざわざ?子供を座らせている。歩き出して後ろの溝に落ちたら危険だ! |
Eの部分拡大:濱松町停車場 入口 |
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架道橋部分を拡大したが、いくら明るくしても内部は写っていない。入口の庇に看板が載っていてそのすぐ後ろに線路がある。庇の下に架道橋の桁が写っているはずだが、これも暗くてわからない。橋台部分は新銭座架道橋と同じような石積みだったのだろう。 |
階段およびホームは第1線と2線の間にある。架道橋部の上部には背の低い切り妻屋根が架けられている。上部に高窓の付いた階段でホームレベルまでのぼり、右に写っている駅舎内に出札口や改札があったものと思われる。 |
地図F:1916(大正5)年 |
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上記の記述と矛盾するのだが、1万分の1地図では 1916(大正5)年になっても、まだ西側の線路が無い。 |
新橋寄りの位置の西側では市街地が少し削られて、線路増設のための石垣▲が造られている。駅前の市電車庫その他の建物形状も修正されており、駅構内だけが修正されなかったという可能性は低い。 |
↓ |
地図G:1921(大正10)年 |
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ようやく 西側(図では下側)に線路が記入された。『東京市街高架鐡道建築概要』の発行年 1914(大正3)年の写真Eと地図とが食い違っているのだが、その原因は未解明である。 |
3. 東海道線増線 | :桁の架け替え、道路の盤下げ |
年 | 電車線 | 東海道 | 新東海道 | 貨物線 | 合計 | 備 考:参考地図・写真番号 | |
1927(昭和2) | この頃 芝浦線の工事開始 | ||||||
1936(昭和11) | 2 | 2 | 2 | 6 | 東海道線の増線工事開始:写真H | ||
1937(昭和12) | 架道橋の架け替え工事竣工 *)注 | ||||||
1941(昭和16) | 4 | 2 | 2 | 8 | 架道橋の改良工事後:写真I | ||
1942(昭和17) | 4 | 2 | 2 | 8 | 現東海道本線開通 (参考写真J) | ||
*)注:土木学会関東支部技術研究発表会講演概要集 Vol: 31-6 (2004) / 工藤晃一、田淵哲也 「長大間合いでの浜松町架道橋架替工事 」による |
1909(明治42)年に旧東海道本線2線が開通してから30年近くが経ち、東海道線と横須賀線を運行するには2線では線路容量が足りなくなった。このため、1936(昭和11)年11月に増線工事が始まって、1942(同17)年までかかって完了した。 |
『「東工」90年のあゆみ』による |
写真H:1936(昭和11)年の状態 |
![]() 1936(昭和11)年6月11日 / B29-C2-32 / 国土地理院 |
1936(昭和11)年は、新しく東海道本線2線を増線する工事が始まった年である。写真の解像度が悪いが、埋め立て地へとカーブする「芝浦線」▼は昭和の初めから工事が始まっていて、すでにできている。港から汐留へは、浜松町駅の東側でスイッチバックしていた。 |
写真H2:1936(昭和11)年 部分拡大 |
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架道橋はまだ架け替えられておらず、計6線。現竹芝通りの西側(写真では下側)は拡張されているが、架道橋部分は昔の狭い道のままである。 |
写真I:拡幅工事後 1941(昭和16)年の写真 |
![]() 工事現場に掲示されていたもの。出典不明。 |
架け替えられた架道橋。中央の看板には「浜松町橋」。 ・2線追加、 ・ホーム2面に このため、線形が海側に膨らんだ。架道橋は桁下を高くするために道路が掘り下げられ、左側の歩道と段差がついている。 |
なお 当初は列車線2線、京浜線の急行電車用に2線を使う計画だったが、戦時のために急行電車の運行は取り止めとなり、終戦まで 6線のうち第3線・4線は使われなかった。 |
1944年の空中写真は状態が悪いため、敗戦後の 1947(昭和)で状態を確認する。 |
参考写真J:1947(昭和22)年 |
![]() 1947(昭和22)年8月1日 / USA-M385-16 / 国土地理院 |
戦後の計8線の写真。ただし ほかの架道橋と同じで、第4線の桁が無く、第2ホームは使われていない。 海側2線は貨物線。スイッチバックはまだ生きている。 |
1956(昭和31)年までには第4線に桁が架けられ、京浜東北線と山手線の分離運転が始まる。 |
4. 新幹線 | :東海道新幹線2線:1964(昭39)年10月 東京オリンピック開催に合わせて開通 |
年 | 電車線 | 新東海道 | 新幹線 | 貨物線 | 合計 | 備 考:参考地図・写真番号 | ||
1947(昭和22) | 2 | (2) | 2 | 2 | 8 | 敗戦時:写真J | ||
貨物線の増線 | ||||||||
1963(昭和38) | 4 | 2 | 6 | 12 | 新幹線 工事中:写真K | |||
1964(昭和39) | 4 | 2 | 2 | 6 | 14 | 新幹線開通 :参考写真L | ||
K:増えた貨物線 1963(昭和38)年 |
![]() 1963(昭和38)年6月26日 / MTK-C10-20 / 国土地理院 |
写真Jからの15年の間に、芝離宮に食い込む形で貨物線が6線も建設されている。それらの架道橋は既存のものよりも径間が少々長い。 |
新幹線開通の1年ちょっと前で、ほかでは部分的に高架橋ができはじめているがここは未着手で、予定地には、写真Jで一番海側だった貨物線2線(第7・8線)の桁がまだ残っている。 |
翌年には東海道新幹線とモノレールが開通する。1966年、71年の白黒写真の精度が悪いので、10年後の写真を。 |
L:新幹線開通後 1975(昭和50)年 |
![]() 1975(昭和50)年1月19日 / CKT7415-C31A-43 / 国土地理院 |
新幹線2線が更新され、ほかは変わらずに計14線である。 浜松町駅付近は大きく変わり、貿易センタービル(1970 竣工)、モノレール駅舎、線路を跨ぐモノレール(1964 開業)、高速道路(1964 開通)ができている。 |
架道橋工事の工事囲いにこの頃の駅南口の写真が掲示されていた(掲示されていたものを撮影したのは 2010年のこと)。 |
M:昭和50年頃の南口 |
![]() 工事現場に掲示されていたもの。出典不明。 |
写真Eとほぼ同じアングルである。 左側に写っている「浜松町架道橋」の構造は、歩道部分を側径間とする3径間だった(写真I)。架道橋は、駅と周辺の再開発に向けて2005年に架け替えられた。 |
南改札口は架道橋の最初の架け替え時、1941(昭和16)年に同時に完成したと思われる「浜松町高架橋」の中にあり、現在(2024 年11月時点)も変わっていない。しかし、まもなく取り壊されて新しい建物となり、改札口は高架レベルになる。 |
5.汐留貨物駅の閉鎖 | :1986(昭和61)年 |
年 | 電車線 | 新東海道 | 新幹線 | 貨物線 | 合計 | 備 考:参考地図・写真番号 | ||
1986(昭和61) | 4 | 2 | 2 | 6 | 14 | 11月、汐留駅 廃止 | ||
1989(平成元) | 4 | 2 | 2 | 6 | 14 | 桁は残っている:写真N | ||
1992(平成4) | 4 | 2 | 2 | 0 | 8 | 桁が外されている:写真O | ||
写真N:何も無くなった 1989(平成元)年 |
![]() 1989年10月10日 / CKT893-C7-30 / 国土地理院 |
空中写真の関係で、範囲と角度が異なっている。 1988年1月にはまだほとんどの線路が残っていたが、架道橋以北の線路は 88年〜89年の間にすべて撤去されて、この1989年には ほぼ更地になった。一部が住宅展示場に使われている。 |
写真O:貨物線部の桁が無くなる 1992(平成4)年 |
![]() 1992年10月10日 / CKT921-C10-36 / 国土地理院 |
写真Nから丁度3年後。F部の橋台は残っているが桁は外されている。駅東側は、1990年末から1994年夏まで カートレインの乗降場として使われた (Wikipediaより)。 |
6.再度の架け替え工事 | :1990代年末頃から ? |
年 | 電車線 | 新東海道 | 新幹線 | 仮設線 | 合計 | 備 考:参考地図・写真番号 | ||
(1997年は まだ元の位置のまま) | ||||||||
2001(平成13) | 4 | 2+2 | 8 | 3月には4線とも移設済み | ||||
同 | 4 | 2+2 | 8 | 10月:写真P | ||||
架け替え工事 | ||||||||
2004(平成16) | 新 4 | 新2 | (2) | (10) | 新幹線以外の架け替え完了 | |||
新幹線の桁移動は2005年 | ||||||||
2006(平成18) | 新 4 | 新2 | 新2 | (2) | (10) | 全ての本設桁工事完了後:写真Q | ||
工事の開始時期がわからないが、浜松町駅の改良を目指して架道橋の二度目の架け替え工事が行われ、現在も最終形とはなっていない。 |
驚くべきことに、 |
作業スペースを作るために新幹線と東海道線の軌道を変えて、一時期「仮線」を通していたことがわかった。 |
普段 利用も通過もしない駅だったこともあって、まったく知らなかった。その架け替え手順を簡単に述べると、 |
@ 旧貨物線部分に新幹線・東海道線 4線分の仮設軌道を敷く 無軌道(開床式)の仮設桁を架け、切り替えを行ったのちに、 既存の桁を撤去。 仮設線の範囲▼は 次の 写真P参照 A 電車線4線の架け替えを行う。 B 東海道本線の本設桁を架け、線路を切り替える C 東海道本線の仮設桁を撤去 D 新幹線の本設桁を架け、線路を切り替える |
写真P:仮線移行後 2001(平成13)年12月 |
![]() 2001年12月31日 / CKT20015X-C6-12 / 国土地理院 |
新幹線・東海道線4線分が東側(写真では上方向)に移動し、間に大きなスペースができている。スピードを落とさずに旧線に移るためと、作業スペースを設けるために、仮線の長さを大きく取っている。 |
A部の桁はまだ 1937(昭和12)年のまま。東海道線の桁の長さが新幹線の桁よりも短いので、これも仮の桁のようだ。 |
↓ |
参考写真Q:東海道線復帰後 2006(平成18)年5月 |
![]() Wikipedia より |
新橋方向を見ている。すでに東海道線は以前の位置に戻っているが、新幹線は仮設線の状態。 |
↓ |
参考写真R:架け替え工事終了後 2006(平成18)年 |
![]() 2006年11月10日 / CKT20064X-C7-3 / 国土地理院 |
新幹線の仮橋はまだ残っているが、2004年にA〜T部、2005年には 新幹線部の桁の架け替えも終わっている状態。現在は仮線の築堤もなくなって、架道橋以北は道路となっている。 |
写真R2:部分拡大 |
![]() |
旧貨物線部の南側橋台 2013.2.18. |
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海方向を見ている。右手前まであったのだがワイヤーソーでカットされている。もとは貨物線6線が架かっていた橋台で、新幹線や東海道線の仮設桁が載っていた。ここには現在、自由通路のための昇降タワーが建っている(次の写真)。 |
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道路の向こう側中央に 前掲写真の橋台があった。 |
このあとの工事はあいだが空き、第2ホーム北側を広げるために 2022年に A部第4線が移動される。 |
架道橋架け替えの詳しい手順は、次の項目で掲載している。 |
7.第4線の移設工事 | :2022年5月 |
移設前 |
![]() google map より。画像は2024.11.14 取得 |
A4と東海道線の間に、新しい線路と これまでよりも長い 新しい側径間の桁▼が架けられて、準備が完了している。2022年5月21日(土)から23 日(月) にかけて、京浜東北線南行きを山手線外回りを使う臨時ダイヤで走らせて、移設工事が行われた。 |
↓ |
移設後 (旧線部分は黒く塗りつぶしている) |
![]() |
約 5.6m の横移動、0.98度 の回転後に新しい位置にジャッキダウンされた。現在 旧線部は桁が外されて空が見えている。 この工事の結果、第二ホームの北側が最大 3.6m 拡張された。 |
以前 A4 の桁が載っていた場所 | ||
![]() |
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浜松町高架橋(前掲写真の▼部)で、中央に旧第4線が載っていた。左奥にあるのが移設後の第4線の側径間で、約10m の桁が新設された。現在でも第1〜第3線の橋台として使われている。 | ||
橋上の新しい北口が開設されればこの橋台は取り壊され、すべての側径間が長いものに交換されて、2028年には歩道の幅が倍増する予定。 | ||
新橋側の 第4線跡 | ||
A3 |
![]() |
A4 |
橋台部分は桁を外したままで、バラストが見えている。 歩道部分は広がったが、実際に使われているのは昔と同じ幅。 |
位 置 |
1948(昭和23)年3月の空中写真 / 国土地理院 |
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新橋駅 浜松町駅 |
■ 浜松町 架道橋 データ | |||
![]() |
位 置: | 港区海岸一丁目 | |
管理番号: | 16 (東海道) | ||
道路名: | 竹芝通り (都市計画道路幅 27m) | ||
線路の数: | A:4線:京浜東北線、山手線 | ||
T:2線:東海道本線 | |||
TS:2線:東海道新幹線 | |||
かつての貨物線:最大6線 | |||
橋 長: | 初代A:6.06 m (20尺) 2代目A:5.1+19+5.1=29.2m 現A1〜A3:30.1+5.1=35.2 現A4:30.1+10.2=40.3 T:約 35m TS: 同 上 | ||
竣工年: | A:1909(明治42)年12月 品川-烏森間 開業 | ||
T:1956(昭和31)年 開通 | |||
TS:1964(昭和39)年 開業 | |||
名前の由来: | 建設当時の付近の町名「浜松町」 による。 |
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浜松町の由来: 『町方書上』[50] 芝町方書上 7ページ (右図)によると、「遠江濱松出生権之□?なる者名主役を勤□ 御?濱松町と改□ゆえ ・・・」とある。 まず名主の名前(赤線部)が読めないのだが、「権兵衛」ではなさそうだ。 |
![]() |
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次に町名だが、「芝浜松町」ではなく「御濱松町」ではないだろうか?「芝」ではないことは、前ページの文字と較べれば明らかである。 左側が「芝」、右側が当ページのもの。ただし、「御」だという確信はない。 |
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『江戸切絵図』 芝愛宕下絵図 (部分) |
![]() 出版:1849-1862(嘉永2−文久2) / 国立国会図書館 蔵 |
○が架道橋のおよその位置。濱松町は一丁目から四丁目まで、旧東海道の両側に広い範囲を占めている。この時点では架道橋付近は大名屋敷で、町名はなかった。 |
『東京五千分之一』1887(明治20) |
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地図の範囲は切り絵図とほぼ同じ。大久保加賀守の屋敷跡と森越中守の半分ほどが浜松町に加えられ、その横に鉄道が通された。この22年後に ○の位置に架道橋が架けられた。 |
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