山手線 が 渡る橋 ・くぐる橋
渋 谷 → 原 宿

2. 駒場 架道橋

遠 景 (山手線の外側から)     2011.4.19

現在の駒場架道橋は駅の下。 道は六本木通り(奥)から 玉川通り(手前)へと続き、「駒場」とは縁が無いように思える。 なぜここが「駒場架道橋」か。 今回は 名前の由来から入っていきたい。

開通当初、山手線のレベルは現在の地面とほぼ同じだったが、現在よりも恵比寿寄りの場所に踏切があった。 仮称を「駒場道 踏切」とする。

(仮称) 駒場道踏切
西








 








地図サイズ
400 × 300
1916年(大正5年)修正 1万分の1/国土地理院
・・・が駒場道、 黄色 ● ● ● は およその現在の道。

「駒場道」と呼ばれていたのは、渋谷から 現在の東大裏門側に出て西に進み、その後北に向かって 幡ヶ谷で甲州街道に出る道である。 大山街道と甲州街道を結ぶ道で、渋谷から駒場までは登りがあるものの、全体としては なだらかなルートとなっていた。
駒 場 道
西
1880年(明治13年)測量の2万分の1/国土地理院
 (前掲の地図とはスケールが異なる)

起点ははっきりしないが、旧踏切はその通り道にあたる。
         今も残る 旧駒場道 (山手線の内側)


渋谷川の稲荷橋から。 
突き当たりが 旧踏切の位置。
高架線は 東急東横線。 まもなく
地下駅ができて ここは無くなる。
 

仮称 駒場道踏切 があった場所 (山手線の内側)
東横線の下から。 現渋谷駅を高架にした時、複々線化時に線路は3m近く盛り土された。 右に行く道は 山手線に沿った道で、新南口に出る。
近いうちに新しい駅ができて、ここに埼京線のホームができる予定。

仮称 駒場道踏切 があった場所 (山手線の外側)



駒場架道橋 の 歴史

1885年(明治18年) : 日本鉄道 品川 - 赤羽間 開通
               現 埼京線部分で、駅の北側に踏切があった
1905年(明治38年)10月 : 日本鉄道品川線 渋谷 - 新宿間 複線化
複線化後の状態 (再掲)
1916年(大正5年)第一回修正 1万分の1/国土地理院
1909年(明治42年)測量の最初の1万分の1地図は、購入したコピーが荒れているので、状況の変わっていない 大正5年版を示した。
まだ 踏切の状態 である。

1916年(大正5年) : 複々線化工事 開始
1919年(大正8年) または 1921年(大正10年): 恵比寿 - 渋谷間複々線化
前者が正しいようだが 未確認

複々線化完成前の渋谷駅
1921年(大正10年)修正 1万分の1地図/国土地理院
新線は 山手線の外側に造られた。
 ・ 踏切 が廃止され、すぐ北の現在地にガード がある
 ・ 駅も現在の位置に移転済み。 築堤上の高架駅となる
 ・ 宮益坂の踏切も 宮益架道橋となった

この地図では旧線部分が空白となっており、原宿方面の複々線化はまだ完成していない。 渋谷貨物駅までは複々線化 という事だろう。

架道橋を元の踏切の位置に造らなかったのは、別の位置に高架新線の架道橋を造ってから道路を切り替え 踏切を閉鎖した方が、工事が楽で安全だから。 同じ位置でやってできないことはないが、もう一つの理由は 現在地の方が築堤の高さが高くなるので、桁下の確保がしやすいためである。

1922年(大正11年)7月: 山手線 渋谷 - 原宿複々線化
1923年(大正12年)9月: 関東大震災
1927年(昭和2年) : 東急 東横線の開業

複々線化後の状態
1928年(昭和3年)第三回修正 1万分の1地図/国土地理院
4線とも完成した状態。 
駅の下にはガードがあって市電も通り抜けている。 東急線の東側にはお稲荷さんがあったので、次の架道橋は、稲荷橋になった。 

1933年(昭和8年) : 現在の 京王 井の頭線が開業
1937年(昭和12年)以降: 玉川電鉄と 東側の天現寺線が分離される
1938年(昭和13年) : 地下鉄銀座線が開業
1940年(昭和15年)頃 : 山手線外回り用にホームが増設され、既存の
                ホームは 内回り専用となる


終戦後の様子
1947年(昭和22年)9月/米軍撮影空中写真/国土地理院
架道橋部分の拡大。 写真のサイズはともに 400 × 300 ドット。
            渋谷川
渋谷川に橋が架けられて、東西が一本につながれている。
稲荷の社は敷地内で建て替えか?


1961年(昭和36年)より : 駒場架道橋、渋谷駅の 大改良工事
国道246号(玉川通り)の拡張に伴って、「駒場架道橋」の架け替え、「首都高速3号線」の架設、渋谷駅構内の線形改良工事など、11年間にもわたる改良工事が行われて、ほぼ現在の状態となった。

高速道路、架道橋、駅のホームは互いに関連している。
首都高の橋脚にホームを載せるなど、同時期に工事を実施したおかげで実現した、協力関係が見られる。
高度成長した渋谷の街並み
西



1974年(昭和49年)
の空中写真
/国土交通省







終戦後の写真からは 約 30年。



東横線の下から (山手線の内側)     2011.2.26
山手線の内側には東急東横線のホームがあるため、東口の方からは高架橋が見えない。 昔の山手線の高架レベルでは 大型車両の通行に支障があるために、道路は掘り下げられている。 左に登る階段は線路際にあり、昔の踏切の場所に出る。
階段の上から (山手線の内側)
上部の鉄骨は 埼京線のホームへの連絡通路。 構造が違うが、下のコンクリートの桁のサイズが小さい。 実は仮設用に使っていた I 型鋼をそのままコンクリートに埋め込んだ、鉄骨鉄筋コンクリート造となっているため。
コンクリート桁の下面に 帯状のラインが何本もあるのが I 型鋼で、むき出しの鉄骨に塗装したものである。

原宿側の橋台 (山手線の内側から)
鉄筋コンクリート ラーメン構造、4本の柱で 4線分が一体となっている。
右端の方持ち梁部分に 銘板が埋め込まれている。
着工は 1962年(昭和37年)1月、竣工は 1964年(昭和39年)9月。 オリンピックの 丁度1ヶ月前である。


恵比寿側の橋台 (山手線の外側から)   2012.10.2
恵比寿側の橋台もラーメン構造で、店舗がはいっているが ラーメン屋ではない。 橋台に続くのが 「駒場高架橋」。

ここから 外回り用ホームが始まる

山手線内回りホームの下から
恵比寿方向を見ている。 内回りホームは 架道橋の先まで続いている。
改修時に線路の位置を変えることで、ホームのカーブ 曲率を小さくした。

電車を走らせながら 同じ位置での架け替え、しかも大幅に道を広げるという難工事だった。

原宿側の橋台 (山手線の外側から)
原宿側は、内回り用ホームと 外回りの線路で ひとつの橋台となっている。
橋の下には たくさんの人が住んでいる。 


位 置 (終戦後の様子)
写真サイズ
400 × 115
1947年(昭和22年)9月の空中写真/国土地理院

駒場架道橋 データ

位 置: 渋谷区渋谷三丁目〜桜丘町
  品川より 約 7K
管理番号:  13
道路名: 玉川通り ( 国道246号)
線路の数: 計 4 本 (下記 A B は仮の呼び名)
A: 2線: 埼京線、湘南新宿ライン
B: 2線: 山手線
支 間: 27. 3 m
高さ制限: なし
竣工年: 当初は踏切
 B初代 : 1919年(大正8年)頃
 A初代 : 1921年(大正10年)頃
 二代目 : 1964年(昭和39年)
備 考:
名前の由来:  元の踏切が「駒場道」にあったため

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