山手線 が 渡る橋 ・くぐる橋
渋 谷 → 原 宿

6. 宮益 架道橋

開通当初は踏切だったものを、複々線化時に 築堤を行い 道路を少し切り下げて立体交差化したもの。 その後の掛け替えは、渋谷駅や営団地下鉄半蔵門線の工事が 関係している。
渋谷駅のホームが延長された結果、架道橋に掛かってしまっている。

全 景(山手線の内側から)

遠 景(山手線の内側)          2011.6.25
宮益坂の上から。 架道橋まで坂が続いている。 実質片道1車線。

全 景 (山手線の内側)         2011.6.25.
休日の渋谷はいつでも人であふれている。
昔、中央 水色の車の位置に、渋谷川の「宮益橋」が架かっていた。

石造りの 宮益橋 1901年(明治34年)
ヒカリエ工事現場の展示より/出典は渋谷区教育委員会「渋谷の記憶」
前掲写真とは直角方向 下流から新宿方向を見ているが、川幅は意外に広い。 撮影年は 日本鉄道 品川線開通から 15年、いまだ単線の時期で、左端が踏切と思われる。 

現在ここには東急百貨店が建っているが、東急線の地下化後に再開発される予定だ。

近 景 (山手線の内側から)

全 景 (山手線の外側から)       2011.2.26.
手前が ハチ公前のスクランブル交差点。

近 景 (山手線の外側から)
桁の手前に化粧板があって 銘板は見えない。 地下に 幅 約 20mの 半蔵門線の渋谷駅がある。 その工事に関連して 26mの長い桁を架けたのだが、道路は広がっていないので、ガード下を貸し店舗としている。
                   埼京線 2線
山手線外回り             山手線内回り

2線3主桁 下路プレートガーダ

山手線外回りホーム先頭部 から



宮益架道橋 の 歴史

1885年(明治18年) : 日本鉄道 品川 - 赤羽間 開通 (現 埼京線部分)

単線の状態
1897年(明治30年)修正 2万分の1地図/国土地理院
新宿の甲州街道とともに、大山街道も 初めは踏切だった。

1905年(明治38年)10月 : 日本鉄道品川線 渋谷 - 新宿間 複線化

複線化後の状態
1916年(大正5年)第一回修正 1万分の1/国土地理院
1909年(明治42年)測量の最初の1万分の1地図は、購入したコピーが荒れているので、状況の変わっていない 大正5年版を示した。
まだ 踏切の状態である。
すでに、旧渋谷駅付近に部分的な複々線や 引き上げ線が造られており、駅付近の用地は確保されていたようだ。

山手線とは関係ないが、渋谷川 宮益橋のすぐ南に 早くも建物が建っている。 前後は延々と川のままである。 暗渠化される何十年も前から、川上の居住権?が発生していたようだ。

1916年(大正5年)頃 : 山手線の複々線化工事が始まる

複々線化 工事中の状態
1921年(大正10年)第二回修正 1万分の1地図/国土地理院
新たな2線は 旧線 ・・・・外側(図では上側)に増線された。 すでに現在の山手線はできており、渋谷駅も新駅に移動している。
旧線部分の地形は まだ昔のままのように見える。

1万分の1地図は細かく見るといろいろな所まで表現されている。
前図の部分拡大
同 上/国土地理院 使用サイズは400 × 290 ドット
初代架道橋は 1919年(大正8年)にはできていた。 増線された西側(図では上側)は、石垣あるいは擁壁 ができている。 旧線部分には まだ架道橋ができていない。 まず外側の2線で営業しながら築堤を行って複々線化したので、時間差があったということだ。

宮益坂下に記されている渋谷川の標高は 16.8 m で昔と変わっていない。 以前はここが一番低かったが、架道橋の下を く ぐるために 線路部分は掘り下げられたことになる。
印が 新しい渋谷駅舎。
渋谷駅前
この写真は 1923年(大正12年)以後の撮影

1922年(大正11年)7月: 山手線 渋谷 - 原宿複々線化
1923年(大正12年)9月: 関東大震災
1927年(昭和2年) : 東急 東横線の開業

複々線化後の状態
1928年(昭和3年)第三回修正 1万分の1地図/国土地理院
4線とも完成した状態で、市電がガードを く ぐって外側の玉川電鉄とつながっている。

1933年(昭和8年) : 現在の 京王 井の頭線が開業
1937年(昭和12年)以降: 玉川電鉄と 東側の天現寺線が分離される
1938年(昭和13年) : 地下鉄銀座線が開業


終戦後の様子
1947年(昭和22年)9月/米軍撮影空中写真/国土地理院
ホームは1940年(昭和15年)頃に1面増設されて、内外それぞれ専用のホームとなった。 
渋谷川の上に東急百貨店のビルが建っている。

1955年(昭和30年)の写真 山手線の内側から
ヒカリエ工事現場の展示より/出典は渋谷区教育委員会「渋谷の記憶」
宮益坂下交差点から。 架道橋は 1919年(大正8年)と そのすぐ後に完成したもの。 3スパン、全長 22 m(4m+14m+4m)の ゲルバー式 下路ガーダーで、貨物線は 2線3主桁だった。

上の写真ではわかりにくいが、ガードには 2本の柱が立っていたことになる。 拡大すると、右側の一部が写っている。 
前掲写真の部分拡大
奥を走る都電が柱の陰に隠れている。


1965年(昭和40年)より : 渋谷駅北側の 改良工事
線路の曲率を緩くする 駅改良工事のために線路の位置が変わって、宮益架道橋の桁も1本だけ取り替えられ、22m 1スパンの桁となった。 改良工事の竣工は68年(昭和43年)
 
1969年(昭和44年) : 東急玉川線 廃止
 
1972年(昭和47年) : 地下鉄半蔵門線の工事開始
1973年(昭和48年)10月: 宮益架道橋地下の半蔵門線渋谷駅工事開始
駅は 架道橋から道玄坂方向に 約 210m、宮益坂方向に 約 90m、幅 約 20m で、地下 約 16m の位置にある。

宮益架道橋をそのままにして工事すると 架道橋の仮受け期間が長く、電車の運転保安上の規制が必要となり、また道路でも歩道が使えなくなるなど実現は難しかった。
そこで架道橋の全面掛け替えのあとで地下鉄の構造物を造ることになり、山手線外回りの桁に関しては わずか 10年での掛け替えとなった。 それが現在の桁で、2代目+3代目となる。

原宿側の 橋台・擁壁
原宿側は既存の橋台の外側、写真では手前側に新しい橋台を造ってから、桁をかけ直した。 橋台が竣工したのが 1976年(昭和51年)3月だったので、桁の施工も同じ年だろう。
擁壁に張られた工事記録

地下駅の工事竣工は1977年(昭和52年)3月だった。

1977年(昭和52年)4月 : 二子玉川園 - 渋谷間の 新玉川線開業
1978年(昭和53年)8月 : 地下鉄半蔵門線 渋谷 - 青山一丁目間 開業
                  東急新玉川線と 直通運転開始


位 置 (終戦後の様子)
1947年(昭和22年)の空中写真/国土地理院
写真サイズ
400 × 115
   渋谷駅                渋谷川   明治通り  原宿駅

宮益架道橋 データ

位 置: 渋谷区渋谷二丁目〜道玄坂二丁目
  品川より 7K 238M
管理番号:  14
道路名: 青山通り
線路の数: 計 4 本 (下記 A B は仮の呼び名)
A: 2本: 埼京線、湘南新宿ライン
B: 山手線 内回り
C: 山手線 外回り
支 間: 26. 5 m
高さ制限: なし
竣工年: 当初は踏切
 BC初代: 1919年(大正8年)
 A 初代 : 1921年(大正10年)頃
 C二代目 : 1967年(昭和42年)頃
 現在の桁: 1976年(昭和51年)頃
備 考:
名前の由来:  旧地名 または 坂の名に基づく。
宮益 の地は、坂の途中にある「御嶽神社」の門前町であり、大山街道の休憩地であったが、周囲は田畑だった。
宮益と呼ばれるようになったのは江戸時代中期で、御嶽権現にあやかったもの。 また、それ以前の宮益坂は 富士見坂と呼ばれていた。

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