山手線 が 渡る橋 ・くぐる橋
渋 谷 → 原 宿

10. 宇田川 架道橋

品川線開通時の 渋谷-原宿間は、標高約15mの渋谷駅から 標高約30mまで、当時の最大勾配である 100分の1で登っていく区間である。 地形の関係で 前半は築堤高架、後半は切り取り堀割状態となっているが、水無橋以外の道は、青山通りも含めてすべて踏切だった。

この宇田川架道橋も 当初は踏切だが、早い時期に架道橋とされた。
原宿村、穏田村から上渋谷村を通って青山通りに出る、主要な道路だったためである。 渋谷川とほぼ平行していた。

現在の橋は二代目で、山手線が複々線化された1922年(大正11年)に架け替えられたと思われるが、銘板がないので あくまで推定である。

               遠 景 (山手線の内側から)       2011.7.19
明治通り 神宮前6丁目交差点から。 
宮下公園に渡る歩道橋があって 架道橋が見えにくい。
 
近 景 (山手線の内側から)
橋の手前に吊り構造の横棒がある。 初めは水道管かガス管かと思っていたが、高さ制限を超えた車が ガードに衝突するのを防ぐ「防護桁」であった。

                              防護桁                       2011.6.25
渋谷駅方向を見ている。 宮下公園の改修が終わって、それまで入れなかった所から、防護桁の端部に取り付けられた「銘板」が見えた! しかし、1967年(昭和42年)と新しいものであった。 本体にもボルトが使われているので、後から設置されたもののようだ。
防護桁の銘板


ガ−ドの下から (原宿方向)
4線すべてがひと続きの 5主桁下路プレートガーダ、歩道部分に橋脚が立ち、3径間となっている。 
建設当初は単独の柱であったが、後につなぎ材とブレースで補強されている。

ガ−ドの下から (渋谷方向)

                 遠 景 (山手線の外側から)           2011.2.1
電力館前交差点。 
架道橋にする時に、少し道路を切り下げたようだ。 内側の方が標高が低く、ガード下の道路は水平。 道路が広げられたために、現在の架道橋は二代目。


宇田川架道橋 の 歴史

1885年(明治18年) : 日本鉄道 品川 - 赤羽間 開通 (現 埼京線部分)

単線時代 1897年
1897年(明治30年)修正の2万分の1地図/国土地理院
鉄道がが斜めに通ったので、道なりに土手を上り下りする踏切だった。

1905年(明治38年)10月   : 日本鉄道品川線 渋谷 - 新宿間 複線化

複線化後
1916年(大正5年)修正測図の1万分の1地図/国土地理院
  青山街道                              渋谷川
初めて発行された一万分の一地図 1909年(明治42年)版ですでに架道橋となっている。 同版は購入コピーが荒れているので、状態が変わっていない 1916年(大正5年)修正版を載せる。
複線化の時に、架道橋を設けたものと思われる。 の位置にあった踏切は生かしながら工事を行うので、別の場所(ここでは渋谷寄り)に造る必要があった。        (前掲地図とはスケールが異なっている)

1906年(明治39年)9月23日 : 代々木駅 開業 (中央線のみ)
            10月30日 : 原宿駅開業、恵比寿駅旅客営業開始
1909年(明治42年) : 山手線と改称、 山手線に代々木駅停車開始
 
1912年(明治45年)7月 : 明治天皇 崩御


1920年(大正9年) : 明治神宮が創建される

複々線化 工事中の状態
1925(大正14)年部分修正、1921(大正10)年の1万分の1地図と同じ
図示されているのは山手線の外側を広げて新設した電車線で、内側(図では下側)の旧山手線部分が白紙状態となっている。すなわち旧線部分を立体交差化している状態と考えられる。
この地図からも、複々線開通前から新線を使い始めていたことが伺われる。 新線を仮設線として使えば、旧線の架道橋の工事が格段にやりやすくなる。

1922年(大正11年)7月: 山手線 渋谷 - 原宿複々線化
旧一万分の一地図 三田では、1921年(大正10年)に修正測図が行われ、1925年(大正14年)に部分修正が行われている。 後者の場合、ほぼ3年前に複々線化されているのだから、当然反映されていないとおかしいのだが、1921年(大正10年)の工事中のままの図となっている。 恐らく、山手線に関しては図の修正が行われていなのだろう。 (前の地図)
1923年(大正12年)9月: 関東大震災
震災は複々線化の完了後に起きている。
前掲の地図でも、新設電車線の架道橋は 幅の狭いものとなっている。

複々線化 と 架道橋の架け替え
1928年(昭和3年)修正測図の 1万分の1地図/大日本帝国陸地測量部
二代目の架道橋は 初代のすぐ隣、もとの踏切の位置に造られた。 これも旧架道橋を使いながら工事したためだ。初代の痕跡は残っていない。

 不明な事項
現在の架道橋は複々線化の時に架けられたのか、それとも 震災後に拡幅された神宮通り(現 明治通り)の開通時に架け直されたのか。

宇田川架道橋の橋脚
半球面軸受けを内蔵した橋脚。 同じようなデザインを探してみると、1927年(昭和2年)製作の「平永橋架道橋」があった。

平永橋架道橋 (秋葉原-神田 間)
ここも 補強プレートは後から付けられたもの。
1925年(大正14年)11月の 山手線環状運転開始時は、ここの道路はまだ狭く、一度は 14m程度の架道橋が架けられた。 大震災後まもなく靖国通りが通されることになり、現在の架道橋には1927年(昭和2年)製作の銘板がある。

残念ながら 宇田川架道橋に銘板が残っていないため、竣工年は特定できていない。 神宮通の工事年がわかれば、ほぼ特定できよう。



位 置 (終戦後の様子)
1947年(昭和22年)の空中写真/国土地理院
写真サイズ
400 × 115
   渋谷駅                渋谷川   明治通り  原宿駅

宇田川架道橋 データ

位 置: 渋谷区神宮前六丁目〜神南一丁目
  品川より 7K 678M 00
管理番号:  17
道路名:  −
線路の数: 計 4 本 (下記 A B は仮の呼び名)
A: 2本: 埼京線、湘南新宿ライン
B: 2本: 山手線
支 間: 4m 42 + 17m 78 + 4m 42
 合計 26m 62
空 頭: 高さ制限 3. 9 m
竣工年: 初代 A部のみ: 1905年(明治38年)頃 
二代目 4線: 1924年(大正13年)頃?
         あるいは昭和初期?
備 考:
名前の由来:  付近を流れる川 あるいは 付近の地名であ
 った宇田川を採用した

次善の策の命名
品川線開通数年後 1888年(明治21年)の五千分の一地図によると、踏切の場所は「南豊島郡上渋谷村 字豊澤耕地 と 字町裏」の境界である。 下って、1911年(明治44年)東京逓信管理局発行の地番図では、「豊玉郡渋谷町大字上渋谷 字豊澤 と 字上渋谷町裏」の境界で、字宇田川とは少し離れている。

宇田川が線路を横切っていたのは「宮益坂架道橋」の場所で、地名ともなっていたので、本来ならそこを「宇田川架道橋」とすべきであった。
大字名であった「上渋谷」「中渋谷」の名前も、別の架道橋(当初はすべて踏切)に使っているので、苦肉の策としての「宇田川踏切」の採用で、宇田川に至る踏切の意味であった。

駅名でさえ、離れた場所の地名を付けることがあったので、ここはそれほど目くじらを立てることもないと言えよう。


宇 田 川

宇田川は山手線の西側(外側)を流れる渋谷川の支流のひとつで、現 宮益架道橋のところで渋谷川に合流していた。 流域は、旧玉川上水以南・旧三田用水以東・現青山通り以北・現代々木公園(旧代々木練兵場・ワシントンハイツ)以西であった。
現在はすべて暗渠化されている。 

次の空中写真はその流域の一部。 カーソルを載せると表示される。  は暗渠化以前の流れ。
 
終戦後の 宇田川 の様子
1947年9月米軍撮影 / 国土地理院 (著作権は切れている)
渋谷駅  青山通り              渋谷川  明治通りのベース           原宿駅

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