山手線 が 渡る橋 ・くぐる橋
原 宿 駅
地図については 脚注参照
2011年2月 掲載、同 3月改訂、同 5月19日修正、同7月21日再加筆
2014年2月 再加筆、同 5月12日 再修正。


1906年(明治39年)10月 日本鉄道の駅として開業。
それまで貨物駅だった恵比寿も 同時に旅客営業を開始した。
また 甲武鉄道の代々木駅が開業したのも同年9月である。

                    以前の 表参道口           2010.11.6
休日には大変な人出となる。

見た目には建設当初と同じイメージだが、色々と改修されている。

タイルの目地は 覆輪目地
かまぼこ型に出っ張った形の目地。 オリジナルだと思われる。 
明治神宮の玄関駅として、ていねいな仕上げがなされた証拠である。 東京駅丸の内駅舎にも残っているが、1414年(大正3年)の竣工だから、原宿駅の方が10年弱 遅い。 サッシュは取り替えられている。


原宿駅 の 歴史

1885年(明治18年) : 日本鉄道 品川 - 赤羽間 開通 (現 埼京線部分)
1905年(明治38年)10月   : 日本鉄道品川線 渋谷 - 新宿間 複線化
1906年(明治39年)9月23日 : 代々木駅 開業 (ホームは中央線のみ)
            10月1日 : 甲武鉄道 国有化
            10月30日 : 原宿駅開業、恵比寿駅旅客営業開始
            11月1日 : 日本鉄道 国有化
1909年(明治42年) : 山手線と改称、 山手線に代々木駅停車開始

開業当初の駅の位置 
1909年(明治42年)測量の 1万分の1地図/日本帝国陸地測量部
緑の長方形が現在のホームの位置。 赤丸は後の宮廷ホームの位置。
初めの駅は現在のホームのすぐ北側の埼京線部分にあった。 北部乗降場(通称宮廷ホーム)よりも南で、丁度神宮の南池の東側である。

 1912年(明治45年)7月 : 明治天皇 崩御


 1915年(大正4年)10月7日 : 明治神宮の造営工事開始、 地鎮祭
この時 原宿駅は当然のことながら 旧停車場である。
『明治神宮叢書』に地鎮祭の案内図が載っている。

「地鎮祭祭場其他案内図」 (部分)
『明治神宮叢書』第13巻 造営編2 より、次の図も同様
駅のすぐ南にあった踏切を渡って神宮側に出ていた。 
自動車のほかに 馬車、人力車の文字が見える。

1920年(大正9年) : 初代神宮橋が完成
 1920年(大正9年)11月1日 : 明治神宮完成、 鎮座祭
鎮座祭に間に合わせるように 原宿 新駅を造ったのではないかと考えたが、違っていた。

「鎮座祭案内図」 (部分)
「神宮橋」は完成しているが、駅舎はいまだ 「旧停車場」で、当然 旧線の状態である。 地鎮祭では使われていた「踏切」は無い。 新駅舎は、恐らく建設中だったのだろう。

 明治神宮完成時には、新原宿駅はできていなかった。

では、新原宿駅にはいつ移ったのか?

筆者は 明治神宮完成後 まもなくだったと推定している。 推定の根拠は 大正10年修正測図の 一万分の一 地図である。

明治神宮造営 と 新駅









1921年(大正10年)修正 の1万分の1地図/日本帝国陸地測量部
が旧駅      発行は 1923年(大正12年)5月
一万分の一 地図は、意外と細かいところまで読み取れる。
新駅舎(印)は渋谷寄りの新しい場所となっている。
線路の東側(図では下側)が白く空いている。
そこは旧山手線で、複々線への移行期間であるために、この時点では使われていない事を示している。
 
図の右側では逆に西側が空いており、代々木方面では まだ旧線を使っている事を示している。(上図 ←矢印部分) つまり、 この区間で新線と切り替わっていることを示している。
この地図の印刷・発行は 一年半程度後の1923年(大正12年)5月なので、その間に原宿まで複々線化が完了する事が織り込まれているのかもしれない。 このため、「大正10年末時点には 新駅が使われた」という根拠にはならないかもしれない。
また、仮設ホーム、仮設駅舎という可能性もあるため、現 原宿駅舎の開業と直結するものでもない。
なお、後の宮廷ホームの場所には 発電所の記号(印)ができている。 これは旧鉄道院 原宿変電所で、その後、跡地に宮廷ホームが造られた。 『大正浪漫の駅 -原宿駅-』/鉄道ファン 2011年2月号に、宮廷ホームと合わせて 詳しい記事が載っている

もうひとつ参考図面がある。 前掲の案内図が載っていた『明治神宮叢書』第13巻 造営編2 に最終的な神宮全体の平面図があり、その周辺図として原宿駅も載っている。 

これが完成後の「現況図」かどうかは明記されていない。 「計画図」の可能性もあるので、あくまで参考にしかならない・・・。

明治神宮 全体平面図 (部分)
『明治神宮叢書』第13巻 造営編2 より




旧線
      神宮橋     新 原宿駅                       旧 原宿駅
そして、1921年(大正10年)修正の地理院地図とは矛盾点もある。

それは、原宿駅ホームが 「旧線の位置」に線路を広げて造られている事。

「神宮橋の位置」では、竣工当初 旧線の2線が使用されていたことは、鉄道ファン 2011年1月・2月号『大正浪漫の駅 -原宿駅-』に載っている写真で明らかであり、矛盾はない。

すでに新線建設が決まっており、しかも旧駅とは別の場所に増線するのに、わずか数年の使用のために仮設ホームや跨線橋を造ることは、常識的には考えられない。 駅舎とホームは独立して考える必要があるが、営業を続けながらの増線であるから、新駅舎・新ホームを完成させてから移転するのが当然だろう。 しかも、神宮側にはすでに新線用のスペースが確保してある。

「駅の形」も新駅とは異なるので、あくまで「明治神宮の計画図」と考えるのがひとつの解釈である。 園内部分は、新旧の区別を付けた、非常に詳しい図面となっている。

別の解釈としては、「鎮座祭」には間に合わなかったものの、できるだけ早い時期に「新原宿駅」を参拝者に提供して便宜を図るために、旧線部分に仮設ホームを設置して新駅を使い始めた、という考え方がある。 明治天皇のためであれば、たとえ短期間しか使わなくても 神宮橋の近くに駅を移した可能性がある。 
しかし、現況の線路敷き幅から考えて、ここに 仮設ホームと本設ホームを平行して2面設ける余裕はなさそうだ。


小野田氏による 原宿駅の記事
鉄道の専門家である 小野田 滋氏が、鉄道ファンの連載記事、2011年1月・2月号に 『大正浪漫の駅 原宿駅』 というタイトルで、原宿駅の歴史を書いている。
それによると、
原宿駅の竣工は震災後の 大正13(1924)年6月となっており、1月号138ページには、はっきりと ”現在の駅本屋は複々線化の後、しばらくして完成したことになる.” と書かれている!

   しかし、この記述には納得できない部分がある。

1月号137ページ「原宿駅の新築」の項は ”現在の原宿駅本屋は,山手線複々線化工事にあわせて” で始まっている。
しかも、
複々線の使用開始について、次号 2月号の「注」に、”渋谷-原宿間の電車専用線の送電は,大正11(1922)年7月24日に開始されたので,新駅の乗降場はこの際に使用を開始したと考えられる.”  と記載されている。 これは 渋谷 - 原宿間が複々線化された時である。

前記「1924年の使用開始」とは 2年もの差があり、矛盾が生じているが、駅舎と乗降場とが別々に竣工したことが考えられる。

つまりプラットホームは1922年から使われたが、駅舎の完成は 1924年、という事かもしれない。 駅舎が完成していないとホームも使えないので、仮駅舎で営業してしのぎ、現在の駅舎は遅れて完成したことになる。 あり得ないことではない。

1月号136ページ 写真5 は 完成した神宮橋の絵葉書で、電車が山手線の内側を走っており、説明書きには ”この時点で電車線はまだ工事中で、山手線は汽車線(貨物線)を走っていた” とある。
新山手線部分はまだまったく整備されていないので、この絵葉書は神宮橋の竣工 1920年(大正9年)9月および 11月の鎮座祭後間もない時期のもの、と思われる。

2月号142ページ 写真23 は 同じく神宮橋の絵葉書で、1月号の写真5よりも後のもの。 説明書きの最後に ”右端に新しい原宿駅の八角塔がわずかに見える” とある。 しかし、電車は相変わらず 山手線の内側を走っている。
「駅舎ができているのに、電車が山手線の内側を走っている」という事である。


ここで、事実だけを整理すると、
 1920年(大正9年) : 初代神宮橋が完成
 1920年(大正9年)11月1日 : 明治神宮完成、 鎮座祭
    駅は 旧駅を使用

    橋の竣工後、一定期間は山手線の内側(汽車線)を使っていた。
    山手線の内側使用時に 新駅舎の塔が完成していた。
 参考 : 1921年(大正10年)修正測量の地図 :
    複々線化に向けて、山手線の外側に新線、駅舎も現在の位置に
 1922年(大正11年)7月 : 渋谷 − 原宿間 複々線化
 1923年(大正12年)9月 : 関東大震災
 1924年(大正13年)12月 : 原宿 − 新大久保間 複々線化

以上より、
私の結論 : 新 原宿駅、少なくとも 新ホームは 山手線複々線化に合わせて、
        1922年(大正11年)7月に使用開始された。

       一万分の一地図の正確性からすると、1921年(大正10年)から
       使用されたことも考えられる。
まず 根拠にはならないのだが、
1920年(大正9年)11月の鎮座祭後には、神様となった明治天皇を祀る 明治神宮に参拝するために、全国から多くの人が訪れたと思われる。 その玄関駅としての原宿駅は、何を置いても開業を急いだはず。

次に、
1921年(大正10年)修正 の1万分の1地図では、原宿駅付近は 翌年の複々線開通に向けて すでに新線部分が使われており、駅の位置、「地図の記号」も現在の位置に移っている。 複々線化工事では、旧線で営業を続けながら 新線部分(山手線の外側)に新駅を建設し、完成してから切り替えるのが通常の手順である。

1921年(大正10年)修測量正 の1万分の1地図 (再掲)
「三田」の部分/ 地図サイズ 317 × 276 ドット 「四谷」の部分/ 400 × 276 ドット/日本帝国陸地測量部
原宿以南は 山手線の外側(図では上側)の新線が使われている。
原宿までの複々線化は 1922年(大正11年)7月。 印以北は、まだ旧線のままである。(複々線化は 1924年12月)


もしも、「駅舎は 1924年(大正13年)6月に開業」が正しい、と仮定した場合の推論は、
複々線開通時の1922年(大正11年)7月時点では 仮設駅舎と本設ホームで使用開始し、新駅舎も建設していたのだが、完成直前に 1923年(大正12年)9月の関東大震災に遭い、竣工が遅れてしまった。



駅の歴史の 続き

1922年(大正11年)7月: 山手線 渋谷 - 原宿間 複々線化。 
1923年(大正12年)9月 : 関東大震災
1924年(大正13年)6月 : 新駅舎 竣工か ?
1924年(大正13年)12月: 原宿 - 新大久保間 複々線化 完了
1925年(大正14年)10月: 北部乗降場(宮廷ホーム)完成
              山手線 環状運転開始

複々線化 と 宮廷ホーム
1928年(昭和3年)修正側図の 1万分の1/大日本帝国陸地測量部
旧線が 貨物線として使われるようになる。 現在の埼京線・湘南新宿ラインである。
 
第二次世界大戦
駅舎は戦時中に複数の焼夷弾の直撃を受けたが、いずれも不発だったために類焼を免れたそうだ。 (Wikipedia より)


終戦後の 二代目駅舎の様子
  南池から流れ出した渋谷川の支流↑  竹下通り
1947年(昭和22年)9月の空中写真/国土地理院
これまでの地図とはスケールが違って、駅部分をアップにしている。 
ハーフ・ティンバー風の駅舎は当初 長方形の部分だけで、現在は様々な増築がなされている。  注目印 ホームへの跨線橋である。

当初(初代の跨線橋)は駅舎に直接 付属していた。
現在は 駅舎から離れた位置の跨線橋まで、スロープでのぼっている。

旧跨線橋があった 位置
跨線橋があったところは増築で完全に新しくなっているので、昔の痕跡はまったく無い。

1939年(昭和14年)12月: 山手線の外側(明治神宮側)に臨時ホームと
                 改札が設けられる。 
          (前出『大正浪漫の駅』/鉄道ファン 2011年2月号 による)
『タイムスリップ山手線』によると 昭和20年代後半ということだが、これは戦後に再開された時期かも知れない。

1956年(昭和31年)3月〜1957年(昭和32年)10月 の間に
           現在の跨線橋に架け替えられる。
           現在の古レールによるホーム上屋も この時 同時に
           建て替えられた。 
     (国土変遷アーカイブ空中写真 の比較による。 下記参照)
国土変遷アーカイブ空中写真 閲覧システムによると、
  1956年(昭和31年)3月10日 米軍撮影の USA-M324-391
    には、旧跨線橋が写っている。
  1957年(昭和32年)10月10日 米軍撮影の USA-M101R1-150
    には、新しい跨線橋とホームの屋根が 白く写っている。
写真は購入していないので、掲載は差し控える。


架け替えられた跨線橋
1989年(平成元年)/国土画像情報/CKT-89-3 C7/国土交通省
が昔の跨線橋の位置。 平成元年の この時点ではす、でに神宮橋も新しいものに架け替えられ、竹下口もできている。 竹下口の開設時期は不明。

竹下口



駅名 原宿 の由来

駅が開業した当時1906年(明治39年)頃の付近の地名による。

1897年(明治30年)修正の 2万分の1地図では、南豊島郡原宿村であり、1909年(明治42年)の1万分の1地図では、豊玉郡千駄ヶ谷町大字原宿である。
ただし、ホームの位置は隣村の「大字代々木」だったようだ。

地名 原宿の由来は「原っぱの宿」とされるが、原宿全体の地形は 玉川上水から分水された渋谷川本流と、千駄ヶ谷や御苑からの支流が流れる谷あいの傾斜地である。 (川沿いの平地には田もあった。)


脚注、タイトルの地図について : 地図サイズ 299×93
明治42年(1909年)測図 大正5年(1916年)第一回修正測図 1万分の1地図
「四谷」に加筆               大日本帝国陸地測量部/国土地理院 発行

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