山手線 が 渡る橋 ・くぐる橋
原 宿 → 代々木
地図については 脚注参照

1. 裏参道 架道橋

表参道跨線橋(神宮橋)は 原宿駅から明治神宮へのメインの道であるために、立派な橋が架けられた。 
これに対して「裏参道 架道橋」はいわゆるガードであるため、ほかと変わらぬプレート・ガーダーではあるが、橋台は土手の「翼」部分共にレンガ造で、端部にはちょっとした親柱が付いている。  当初は踏切であった。

山手線内側の 旧山手貨物部分を A部、山手線部分を B部と呼ぶことにする。

遠 景 (山手線の外側)
北参道側から見た架道橋。  坂道で下りているのがわかる。  その訳は・・・。


裏参道架道橋 の 歴史

1885年(明治18年) : 日本鉄道 品川 - 赤羽間 開通 (現 埼京線部分)
この場所は、現在の代々木三丁目 文化服装学院あたりから始まる渋谷川の支流のひとつが流れていて、もともと 低い地形であった。
鉄道が谷を横切る部分は「築堤」で造られたために、土手を登る形で踏切が作られた。
 
単線時代
1897年(明治30年)修正の2万分の1地図
      渋谷川の支流            中央線

1905年(明治38年)10月   : 日本鉄道品川線 渋谷 - 新宿間 複線化
1906年(明治39年)9月23日 : 代々木駅 開業 (中央線のみ)
            10月30日 : 原宿駅開業、恵比寿駅旅客営業開始
1909年(明治42年) : 山手線と改称、 山手線に代々木駅停車開始
 
複線化後
1909年(明治42年)測図の1万分の1地図
                青山街道   中央線    代々木駅↑
山手線が複線となり 代々木駅ができているが、踏切の状況は変わらない。一万分の一に精度が上がったため、踏切への道も土手(築堤)となっているのが読み取れる。
 
1912年(明治45年)7月 : 明治天皇 崩御


1920年(大正9年) : 明治神宮が創建される
大正初めからは 山手線の複々線化も開始されており、明治神宮の創建に合わせて 原宿駅や代々木駅も整備された。

明治神宮外苑の「聖徳記念絵画館」あたりから 裏参道への道(千駄ヶ谷駅前の道)が拡張整備されるのに伴って、踏切だったものが架道橋とされた。  これが現在の姿である。

原宿 - 代々木間の複々線化完成は 1924年(大正13年)であったが、代々木駅に関係する裏参道架道橋は 早くから工事が始まり、旧山手線部分(A部)の桁は1921年(大正10年)の製作である。 つまりA部 の竣工は 1921年ないし 1922年(大正11年)である。

1922年(大正11年)7月: 山手線 渋谷 - 原宿間 複々線化。
1923年(大正12年)9月: 関東大震災

複々線化 と 架道橋の新設
1928年(昭和3年)修正側図の 1万分の1地図/大日本帝国陸地測量部


北参道

新設された 現山手線部分(B部)の桁にも銘板があるのだが、読み取りにくい。
山手線 (仮称 B部)の銘板
一行目、「大正○年」なのは間違いないのだが、「十」でも「拾」でもない。
「二」にも 「五」にも見える。

 推定事項
A部はもとから営業していた線路である。 

現在の技術なら 深夜 + 一日程度の運転休止で架け替えられることもあるが、当時の技術では、電車を走らせながら(営業しながら)踏切だった同じ位置を架道橋にするためには、別の場所に仮設の線が必要だったろう。

その役目を果たしたのが、新設された 現山手線ではないだろうか。

A部が竣工する以前に 山手線の外側にB部を完成させ、その後に A部の架け替えを行う。
仮設線への電車の移行は 地形の関係で、原宿-代々木間の中間地点あたりと、新宿駅のすぐ手前とする必要がある。

このために、1924年(大正13年)12月の複々線化開業のはるか前から 代々木駅周辺の工事が始められたのであろう。

A部の桁の銘板は「大正10年」であるから、竣工は同じ年 1921年(大正10年)ないしは 1922年(大正11年)と考えた。 B部の竣工はそれ以前であり、桁の製作年が大正一桁となるのも納得がいく。
ところが、代々木駅の歴史を調べていて、1924年(大正13年)1月までは旧線が使われていた可能性が高くなった。 最大で10ヶ月しか工期がない事になる。 不可能ではないが、なぜ新設部分の桁の製作年が 大正ひとけたなのか、早くに製作する必要があった理由がわからなくなってしまった。
それまで踏切だった A部を架道橋にするにあたって、線路レベルを高くした可能性があるが 未確認である。


1924年(大正13年)12月 : 原宿 - 新大久保間の複々線化 完了



終戦後の様子
1947年(昭和22年)の空中写真/国土地理院/撮影は米軍


A 部分 2線分、架道橋本体の製作年:1921年(大正10年)

                近 景 (山手線の内側)         2010.21.31

架道橋の下から (原宿方向を見る)

                  B部 ↑
まったく、鉄道遺産になんという事をするのだろうか。  しかも 下手!
捕まえて 懲らしめてやりたい・・・・

B部 山手線は、この後 埼京線を乗り越す中央線と同じレベルまで上るために、すでに一段高くなっている。


B 部分 2線分、 竣工時期 未確定

                近 景 (山手線の外側から)      2009.12.23

                            山手線外側の「翼壁」                 2010.12.31
上の写真は一年前。 せっかく落書きをきれいにしたのに また書かれている。

表面はレンガ積みであるが、構造体はコンクリートかもしれない。
上下で色が違うのは、いたずら書きを消すために 表面を削り取って、赤茶色のペンキを塗り、クリア塗装仕上げとしてあるため。 どうせ塗装するなら、貴重なレンガを削らなければいいのに・・・。 
壁面は、新しいレンガ(タイル)で補修されている部分がたくさんある。 

隅石 と レンガ


位 置 (終戦後の様子)
1947年(昭和22年)の空中写真/国土地理院
   原宿駅        一部省略                     中央線  代々木駅

裏参道架道橋 データ

位 置: 渋谷区千駄ヶ谷四丁目〜代々木一丁目
  品川より 9K 560M 86
管理番号:  18
道路名:
線路の数: 計 4 本 (下記 A B は仮の呼び名)
A: 2本: 埼京線、湘南新宿ライン
B: 2本: 山手線
支 間: A: 15m 24
空 頭: 高さ制限 3. 5 m
竣工年: A: 1921年(大正10年)頃? 未確認
B: それ以前 と思われる
備 考:
名前の由来:  明治神宮へ通じる道路に架かる架道橋。
 当初は「表参道」に対して「裏参道」と呼ば
 れていたため、架道橋の名となった。


周辺の情景

北参道 大鳥居
原宿駅からの 南参道に較べて人が少なく、いつもひっそりと落ち着いた雰囲気がある。
御料地時代の 北参道付近 入口
『明治神宮叢書』(1930)より


表参道 と 裏参道

明治神宮の創建に伴って、青山通りから表参道、御葬場跡(絵画館の裏手)から裏参道が新設・整備された。

その変化の様子を・・・・。

裏参道 編
地図は1万分の1/国土地理院。年代は いずれも地図の測量・修正年
1909年
(明治42年)


甲武鉄道

道路ができる
場所は 草地で、
なにもなかった
  南豊嶋御料地                    渋谷川     青山練兵場
                         旧千駄ヶ谷駅↓
1921年
(大正10年)
神宮の創建
伴って外苑から
道路が通された
が、まだ細い
 
明治神宮 裏参道
撮影年不明

1926年10月
以降
遠方に見えるのは絵画館のようなので、恐らく1927年の中央線複々線化、新千駄ヶ谷駅開業後に、駅前あたりから東方撮影したものであろう

右側の緑地は
当時の徳川邸

現在は 都体育館
土木学会 土木図書館所蔵/掲載許可 取得済み

明治神宮内外苑連絡道路実施計画図
『明治神宮叢書』 第14巻 造営編3 (1930)より
中央線は複々線となり、千駄ヶ谷駅が代々木寄りに移転したあとの図である。
道幅は120間。 時代を反映して 電車側に馬車道が造られた。 今なら自転車道であろう。


1947年
(昭和22年)
終戦後
空中写真の切れ目で、右側は割愛。

一部山手線付近を除いて 空襲で裏参道の並木が焼けてしまったため、新しい木が植えられている。
1958年
(昭和33年)
東京都体育館や 国立競技場ができている
1984年
(昭和59年)
1964年頃に道路に沿って高速道路が建設され、雰囲気が壊れてしまった。
国土画像情報/CKT-84-3 C11/国土交通省
人々の中で 明治神宮と外苑の関係が希薄になって、裏参道の名称が消えてしまった。 現在は架道橋にその名が残るのみ。


脚注、タイトルの地図について : 地図サイズ 299×93
明治42年(1909年)測図 大正5年(1916年)第一回修正測図 1万分の1地図
「四谷」に加筆               大日本帝国陸地測量部/国土地理院 発行

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