山手線が渡る橋・くぐる橋  − 架道橋 (ガード) ・跨線橋 −


代々木駅のホームの延長の結果、一部が代々木街道架道橋に掛かっているので、代々木側に含めることにする。 駅の入口はすぐ隣である。

それはともかくとして、この「代々木街道」の名前も納得がいかない・・・。

原宿 → 代々木
4. 代々木街道 架道橋
2011年3月17日 掲載、 6月10日 改訂

山手線開通時は踏切だけで、その名称は「厩道踏切」。 この命名には付近の地名という根拠があるのだが、そのあとにできた架道橋の名称を「厩道架道橋」とせずに「代々木街道」としたわけがわからない・・・。

本項は 「代々木駅」と 一部内容が重複するが、後半で 建設の経緯を考えてみたい。

               全 景 (山手線の内側から)         2011.2.1
手前が 厩道踏切 (埼京線・湘南新宿ライン)。 正確には 二代目厩道踏切。
代々木駅は高架の右手。

山手線の内側(手前)から、部:旧山手貨物(現埼京線)、C部:中央線快速、
S部:総武線、部:山手線 とするが、ある時期に一度に建設されたので、架道橋の竣工時期はほぼ同じである。

                近 景 (山手線の外側)         2010.21.31
新しい架道橋は 駅入り口のすぐ南側に設けられた。 延長された山手線のホームが、架道橋の上に掛かっている。

                    山手線の下から          2010.12.31
奥が踏切。中央線、総武線、原宿方向を見ている。        山手線内回り

                    中央線の下から           2011.2.26
厩道踏切。         千駄ヶ谷方向を見ている。

           2番線 山手線内回りホームから 1番線を見る   2010.5.2
架道橋の B部分、上路開床式である。


位 置 (終戦後の様子)
1947年(昭和22年)の空中写真/国土地理院
       代々木駅                      明治通り 甲州街道   新宿駅

代々木街道架道橋 データ

位 置: 渋谷区千駄ヶ谷五丁目〜千駄ヶ谷四丁目
                〜代々木一丁目
  品川より 9K 880M 程度
管理番号:  20
道路名:  厩道?
線路の数:  6 本 (山手線、総武線、中央線快速)
支 間:  7m 950
空 頭: 高さ制限 3. 8 m
竣工年: 1921年(大正10年)頃 〜
            1926年(大正15年)頃
備 考: 桁の塗装履歴に書かれている「位置」の距離は「9K 510M」だが、間違っている。 
青山街道架道橋のキロ程が 9K 815M なので、880M程度は有りそうだ。
名前の由来:  不明



代々木街道架道橋 の 歴史

複々線化の手順を検討するために、まず 代々木街道架道橋や関連する近くの架道橋の銘板(製作年)で、わかっているものを整理しておく。

表 - 1
  関連する架道橋の銘板
中央線快速 現総武線(新設) 現埼京線 現山手線(新設)
上りC1 下りC2 S1 S2 B1 B2
■山手線 代々木街道架道橋 1925年
大正14
1921年
大正10
大正ひと桁 厩道踏切 1919年
大正8
1920年
大正9
裏参道架道橋 1921年
大正10
大正ひと桁
■中央線 代々木跨線線路橋 不明 1922年
大正11年
新屋敷 架道橋 1925年
大正14
1925年
大正14
御苑裏 架道橋 1924年
大正13
1924年
大正13
1922年
大正11
1922年
大正11
仲道 架道橋 1925年
大正14
1925年
大正14
1925年
大正14
なし
八幡前 架道橋 脱落 判読
不能
なし
千駄ヶ谷駅
千駄ヶ谷 架道橋 大正
判読不能
1923年
大正12
1923年
大正12
この区間の複々線化完了は、 山手線:1924年(大正13年)12月、 中央線:1927年(昭和2年)3月

注目は、代々木街道架道橋(本架道橋)の新設部分が、山手線、総武線共に大正ひと桁の製作である事。  新設の山手線(築堤)がまず最初に建設されたのは間違いない。 新設中央線(現総武線 S部)も同時期だったかも知れない。

銘板は桁の製造年を示すもので、桁が造られた後に万一工事が遅れると、架道橋の竣工年と 数年の差が出ないとも限らない。  
そうでなくても、竣工年については銘板と同年 または 翌年という差がある。
便宜的に、竣工年は銘板の翌年とする。


甲武鉄道の開通
1897年(明治30年)修正 二万分の一地図/陸地測量部/国土地理院
    青山街道?  甲武鉄道               玉川上水 甲州街道
初代の踏切の道は内藤新宿に通じるでもなく、付近は千駄ヶ谷村の茶畑や桑畑である。  すでに 1889年(明治22年)に甲武鉄道ができており、そこには 初代の厩道(厩通)踏切(印)に続いて、初代の架道橋もできている。 駅はまだ。

踏切部分の鉄道は、地図記号によれば切り土となっている。 それほど深くはなかったはずだ。  が 青山街道踏切。

推定事項 (仮説 - 1)
現埼京線の「裏参道踏切(仮称)」を「架道橋」にするために、新設山手線を仮設線として使った事が考えられる。
同じように、中央線でも当初の複線部分の踏切を立体交差化する手段として、複々線開通前に 新設された現総武線を仮設線とした事が考えられる。

このために、1924年(大正13年)の複々線化開業のはるか前から 代々木駅周辺の工事が始められた。


仮の呼称
1885年(明治18年) : 日本鉄道 品川 - 赤羽間 開通 (現埼京線 部分) A 単線
1889年(明治22年) : 甲武鉄道 新宿 - 立川間 開業
1894年(明治27年) : 甲武鉄道 牛込まで 延伸開業 (現 中央線快速) C部
品川線を乗り越す跨線橋(代々木跨線線路橋)が架けられ、踏切の西側には初代架道橋ができる。ただし、現在の架道橋の位置とは異なる
                               (前掲地図の状態)
1905年(明治38年) : 日本鉄道品川線 渋谷 - 新宿間 複線化 A 複線
1906年(明治39年)9月23日 : 代々木駅 開業 (高架 中央線のみ)
1906年(明治39年) : 10月1日 甲武鉄道、 11月1日 日本鉄道が 国有化
1909年(明治42年) : 山手線と改称、 山手線に代々木駅停車開始 A部

中央線の高架駅(上) と 山手線地上駅の開業



旧山手線 A



新宿→
   旧中央東線 C  は初代代々木街道架道橋  厩通(うまやみち)
(地図は 1921年・大正10年修正測量 を使用)
線路を斜めに横切る道のすぐ北側に2つの駅が造られた。
線路はそのままにしてホームを造ったので、現在の埼京線部分に位置する駅は 相対式の地上駅となった。 3年前の1906年に造られた 現中央線は高架駅であったので段差ができた。  緑色の点線は後の新駅

改札口は恐らく 南側の厩道に面した一ヵ所。  中央線のホームも「相対式」であり、一度階段で上ったあとで反対側のホームへ行くには、さらに跨線橋を上り下りしなければならなかった。

極めて乗り換えが不便な構造となった原因は、当初 駅を想定していない場所に後から造られたためである。
参考資料:『写真で見る 山手線100年』 46ページの古い写真

最初の踏切と 駅があった場所
現在の厩道踏切から 新宿方向を見ている。 一番左の線路は戦後に造られた。
印が旧踏切のおよその位置で、旧山手線のホームは印、旧踏切に近い位置にあった。

その後、旧山手線と左上の中央線(共に複線)を営業しながら、すぐ手前(この写真を撮影した位置)に、付け替え道路が新設される事になる。

仮の符号
1912年(明治45年)6月: 品川 - 田端 間を対象とした複々線化工事が始まる
            7月: 明治天皇 崩御
全区間の完了は、13年後の 1925年(大正14年)3月、この区間の開通は 1924年(大正13年)12月である。
複々線化は品川から順次開始されたが、原宿 - 代々木間は早くから工事が始まったものと思われる。
代々木街道架道橋では 厩道の付け替えが課題となろう。

『省線電車史綱要』東京鉄道局電車掛/1927 に、1924年(大正13年)
1月頃の 代々木駅の状態が載っている。

1924年(大正13年)1月頃の 代々木駅
『省線電車史綱要』東京鉄道局電車掛/1927
1924年(大正13年)1月は震災の5ヶ月後である。 すでに複々線化のための新ホームは完成していたはずである。 この図ではまだ新駅が使われておらず、厩道側にあった構内跨線橋が、新宿寄り(図では右側)に移っている。
改札口の記載はないが、山手線の内側に移された可能性もある。

仮説-1 で ”新設山手線を仮設線として使った” と推定したが、上図が正しいとすると決して早くから新駅が使われたわけではない事になる。
  
ただし、「一度は仮設線として使われていた新駅が震災の被害を受け、補修のために再度旧駅を使った」という仮説も 無いわけではない。

推定事項 (仮説 - 2)
厩道踏切は、一定期間 閉鎖 された。
旧厩道踏切を生かしておくためには、新設する4線の築堤部に 「切り込み、切り通し」を設けておき、新設迂回路が開通した後で、新線の開通1924年(大正13年)12月よりも前にそこを埋めることになる。

ところが、新設迂回路(現代々木架道橋)の桁の最も遅いものは、既存線である中央線(現中央快速)上り線C1部で 1925年(大正14年)であり、辻褄が合わなくなる。 (仮の桁を架ける事は考えない。)

この結果、旧道を閉鎖すれば新線工事が効率的に 自由に行えるので、仮説-2 を考えた。

閉鎖推定の理由として、以下も挙げる事ができる。
  ・ 代々木駅の改札口が厩道でない場所に変更された可能性がある
  ・ そのために 駅のふたつの跨線橋も架け直された (前掲の図)
  ・ 西側へのアクセスは不便になるが 車は「青山街道踏切」が使える
 

厩道をできだけ生かす「秘策」として、車が通るのは無理があるが 次のようなルートも考えられる。
 
仮設通路 別案
1921年(大正10年)頃までにはできたと思われる、新線の代々木架道橋完成後に、新旧の築堤の間を通路とするものである。 当時 垂直のコンクリート擁壁は可能だったので、人が通るスペースなら十分に確保できる。

これなら、既存中央線の改修を後まわしにすることができる。

仮の符号
1920年(大正9年): 明治神宮が創建される
1921年(大正10年)までに:
山手線新設部分、代々木駅、新設プラットホーム 1 ・2
総武線新設部分 (代々木駅に関係する部分のみ)
新代々木駅は 震災前におおよそ完成していた。 代々木駅の項参照。
B1・B2
S1・S2

推定事項 (仮説 - 3)
第3ホーム(現総武線東行き)は、旧中央線のホームと重複した位置と考えられる。 第2ホームが完成した時点で西行きだけは新ホームを使い、旧ホームの位置に新第3ホームを建設した。
これで、新しい代々木駅が完成した。

旧ホーム と 新ホームのおよその位置関係 (推定)
現在の第3ホーム(4番線)と 旧中央線 東行きホームが重複していた と考えられる。
仮の符号
1922年(大正11年)   : 現中央線 C2架道橋新設 (銘板 大正10年) C2
   同 年     7月 : 山手線 渋谷 - 原宿間 複々線化
1923年(大正12年)   :代々木跨線線路橋 S部分 新設
1923年(大正12年)9月 : 関東大震災
                ほぼ完成していた代々木駅に若干の被害があった


仮の符号
1924年(大正13年)2月以降 : 代々木新駅使用開始 ? 未確認
   同 年     12月    : 山手線 原宿 - 新大久保複々線化完了 B 複線
新代々木駅の使用開始日は確認できていない。 1924年(大正13年)
2月以降、1924年(大正14年)12月の間 となるが、12月の複々線開始時期と考えるのが自然かもしれない。
1925年(大正14年)4月 : 代々木 - 新宿間に 中央線下りの乗り越し線完成
                新宿駅の乗り換えが 方向別となる
中央線の複々線化工事開始か ?
   (『東工 90年のあゆみ』によると、開始は1926年(大正15年)12月)
1925年(大正14年)11月 : 山手線 環状運転開始
1926年(大正15年)までに : 旧駅プラットホームの撤去、C1擁壁の新設、
            新代々木街道架道橋 C1部桁の架設 などを行った(推定)
C1
代々木跨線線路橋の橋台も造り直されたものと思われる。
中央線 千駄ヶ谷付近の踏切が立体交差化される。
                           (銘板は大正14年が多い)

1927年(昭和2年)2月頃の 代々木駅
新設 総武線
 




新設 山手線
新設 総武線
旧 中央線

旧 山手線
     
駅は現在の形となっているが、「既存の中央線(現快速部分)」が千駄ヶ谷側のポイントで「新線」につながれている!(印)

これは 千駄ヶ谷駅付近にあった 多くの既存踏切を、架道橋にする工事のためであろう。 山手線の「裏参道架道橋」と同じ事が行われたのだ。

1927年(昭和2年)3月 : 中央線 信濃町 - 代々木 間 複々線化完了

改良工事終了後の状態
写真は終戦後 1947年(昭和22年)7月を使用 米軍撮影 /国土地理院
←原宿     代々木街道架道橋   ↑東口    
直線だった道 は 迂回して付け替えられた。
が初代 代々木街道架道橋の位置。

繰り返しになるが、 まず付け替え道路(現在の道路)を整備するために、早くから 橋台や桁が造られたのであろう。

 

渋谷 → 新宿
番外. 厩道 踏切

開通は 1885年(明治18年)3月1日。

名前の由来は、内藤新宿寄りの地名 「厩通」、別名「おんまやどおり」に由来する。 日本鉄道が開通した時は 千駄ヶ谷村、1911年(明治44年)の地図では、千駄ヶ谷町大字千駄ヶ谷字厩通り であった。

江戸時代、内藤新宿は甲州街道の旅の起点であり、運搬に使われる馬の厩が 宿から少し離れた所にかたまっていたのであろう。

ただ 上記は地名であって、踏切に通じる道の名称が「厩通り」なのかどうかは 未確認である。

東京近傍34町村地図
1911年(明治44年)発行    内藤新宿→

                    旧踏切の位置            2011.3.3
突き当たりの建物の向こう側に線路がある。 大正時代までは この道が真っ直ぐに通っていた。  現在の踏切へは突き当たりを左へ行く。

厩道踏切に出る 突き当たりを左へ曲がった所から


もとの道から緩やかな傾斜で下りて行く。 旧架道橋は桁下が小さかったので、レベルを下げて新しい架道橋の桁下を確保するためである。  
東口もこの時にできたようだが 未確認。

代々木跨線線路橋との関係
代々木跨線線路橋(中央線)は 代々木街道架道橋とほぼ隣り合わせである。
このため 代々木街道架道橋の新設に伴って、跨線線路橋の橋脚や桁も更新されたと思われる。

                  代々木街道架道橋 と 踏切は間近

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