山手線が渡る橋・くぐる橋 | − 架道橋 (ガード) ・跨線橋 − |
6. 第一大久保 架道橋 |
職安通りを跨ぐ比較的大きなガードで、ガード下の高さを確保するために、半地下となっている。 山手線開通当初(品川線)は 踏切であった。 |
全 景 (山手線 内側より、2009年11月) |
両端の道に歩道があり、さらに低く掘り下げられた中央の道は車両専用である。 奥の架道橋は「中央線」複々線。 |
山手線の内側から | ||||
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山手線の外側(中央線のさらに西側より) | 山手線の外側 | |||
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新宿側 側道 | 新大久保側 側道 | ||
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参考 : 西武新宿線の架道橋 | 下路プレートガーダ 閉床式 | ||
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新大久保側の側道内部 | 埼京線部分橋桁の塗装履歴 と 銘板 | ||
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埼京線部分橋桁の 銘板 |
このように 分かり易い形で見えるとありがたい。 「WTG 817-3」は、W:溶接桁、TG:下路プレートガーダ、8:荷重の基準 KS18 による設計、17:支間 17m、3: 4本ある同型の桁の3つ目 を表している。 |
位 置 (終戦後の様子) |
1947年(昭和22年)の空中写真/国土地理院 |
新宿駅 新宿通り 新大久保駅 |
明治13年測量の地図 | 大久保の地名は「大きな窪地」に由来する。 ここは全体としては、神田川に向けた緩やかな北向きの傾斜地であるが、江戸中心方向から西に向かうと窪地に見える。 今の大久保通り(地図 中央)を、飯田橋あるいは神楽坂から牛込を通って坂を上っていく。排気ガスの鉛公害で有名になった「市ヶ谷柳町」で一度下るが、またすぐに上りにかかる。 左の地図の茶色の部分が標高35m以上で、現在の「総務省統計局」の当たりが最高点となり、大久保村一帯が見渡せる。特にすぐ下(西側)には、花園神社あたりが源の「蟹川」が神田川へと流れており、一段と低くなっている。 この下り坂は、現在の新宿七丁目に「椎木坂」、「久佐衛門坂」として名残をとどめている。 そして、行く手はるか前方が、また少し高くなっているために「窪地」に見えるというわけである。 | |
赤い線は、当時の東京市区境 黒い大きな建物が「陸軍戸山学校」で、 跡地は現在の「国立国際医療センター」 | ||
終戦後まもない1947年(昭和22年)の様子 |
国土地理院、撮影は米軍 / データサイズ: 400×298 ピクセル |
周辺の情景 | ||
西武新宿駅 | ヨン様が微笑む店 | |
駅の先頭は架道橋のすぐ近く |
新大久保に始まる韓国の店が、ここまで進出してきている。 |
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ハローワーク | ||
旧 第3スカイビル (ニュースカイビル) | ||
山手線からは かなり離れますが・・・・ 設計:渡邊洋治(1923-1983)。通称 軍艦マンション。 エレベータが中央奥に配置され、中廊下は 横尾忠則が喜びそうな 「Y字路」となっている。 |
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