山手線が渡る橋・くぐる橋  − 架道橋 (ガード) ・跨線橋 −

新宿 → 新大久保 
7. 第二大久保 架道橋
新大久保駅のすぐ手前、天井は低いが車は十分通れる。

全 景  山手線 内側より 2009年12月
新大久保駅に止まる、内・外廻り 山手線。
手前の2本は西武新宿線。
山手線 外側より 2009年11月
左上に見えているホームが 新大久保駅

山手線 内側 一方通行 出口

壁を補修する代わりに、パネルで覆っている。
山手線 外側 一方通行 入口

トラフガーダ の 詳細
トラフガータ」は I 型鋼や組立プレートを レールを挟むように配置して、枕木を介さずに直接レールを支持するタイプである。
通常はこの架道橋のように、4本の桁を使用するために桁の高さを抑えることができ、ガード下の通行高さを確保できる。

埼京線部分のトラフガータ 山手線外回り部分

リベット止めで 中央のブレースが目立つ。
桁の高さは4本とも同じサイズである。

この部分は中央を鉄板で塞いでいるので、上から見ると 4本の桁があるようには見えない。
山手線内回り部も同じ構造。
埼京線部分 : 4本の桁 山手線外回り部分 : 4本の桁
一本のレールを2本の桁で支えており、間隔が狭い部分にレールがある。
銘板が無く、製作年 不明であった。

光がもれている部分にレールがある。
中央2本の桁のスパン中央部分には、強度を上げるために「下カバープレート」が溶接されている。
桁の製作年は 1960年。 半世紀を経ている。
 
2009年12月になって、埼京線部分が新しい桁に掛け替えられた。
掛け替えられた 埼京線部分の桁 中路プレートガーダ 開床式 

十分な高さがないので、音の静かな「閉床式」にはできなかった。 レールも取り替えられている。

最下部には雨受けパンがあるので、レールを受ける横桁はウェブ(H型鋼の縦の板)の中間にボルト止めされている。
雨受けパン 真新しい 銘板

真新しい緑の塗装。
排水パイプは まだ接続されていない。

上部は塗装されていない。 
最近は亜鉛メッキ仕上げのままのようだ。 錆びてきたら塗装するのだろう。


位 置 (終戦後の様子)
1947年(昭和22年)の空中写真/国土地理院
    新宿駅         新宿通り                      新大久保駅
第二大久保 架道橋 データ
位 置: 新宿区百人町一丁目
 品川から 11K 677M
管理番号: 山手線 ( 22 )
通りの名称:
線路の数: 4本  ほかに 西武新宿線 2本
山手線外側より : 山手線 2本、
埼京線・湘南新宿ライン・貨物 (共用)2本
支 間:
全体の通路幅 約 6m。車道部分 約 3.5m
空 頭: 高さ制限 : 2.8 m
開通: 1885年(明治18年)
 新大久保駅の開業は 1914年(大正3年)
竣工年: 旧埼京線部分 : 不明
新埼京線部分 : 2009年12月
山手線部分の鉄骨桁の銘板 :
1960年(昭和35年)
備 考: 開業当初は畑地などで道がなく、踏切も無かった
塗装履歴:1998年2月
名前の由来 と 地名の由来は、第一大久保架道橋 参照

埼京線部分の旧桁 の竣工時期について
埼京線部分の桁には銘板が無かったため、架橋時期が不明であった。
それがいつ頃なのかを考えてみた。

まず、埼京線部分の桁には「リベット」が使われていた。1960年制作の山手線の方は「溶接」であることから、明らかに「埼京線部分」の方が古るかった。

『鉄道構造物探見/小野田 滋』によると、国鉄の標準設計桁にリベットが使われたのは 1957年(昭和32年)までで、その後は溶接が標準になった とある。
つまり、埼京線部分は 1957年よりも古い事は間違いない。


開業時の状態は?
まず初めに、開業時の状態を考える。
200mしか離れていない 大久保通りの第三大久保架道橋も一緒に考える必要があろう。

品川線の開通は 1885年(明治18年)。
交通博物館編『駅の歴史』 14ページにある「日本鉄道会社線路平面図及断面図 (1894年)」 によると、新宿から現在の高田馬場駅付近までの5つの道路との交差は、すべて踏切であった。

山手線開通直前の1880年(明治13年)に測量された地図 『東京近傍中部』には、この場所に線路を横切る広い道はなく、民家もなくて 恐らく畑であった。
つまり、この場所には踏切もなかった。
その時のここの線路のレベルは、新宿駅から神田川を目指してぐんぐんと下っており、同上の断面図ではむしろ周囲よりも低い位置となっている。

 ■ : 第二大久保架道橋・第三架道橋部分は 開業当初 平地だった

架橋時期は?
では、いつ「築堤」されて 「架道橋」が作られたか?

両者は別の問題であるが、恐らく一緒の時期であろう。
ひとつのエポックは1904年(明治37年)までに完成した 複線化 の時。
そして 新大久保駅の開業1914年(大正3年)。
もうひとつは、1916年(大正5年)に開始され、環状運転が始まる1925年(大正14年)までに完了した、複々線化 (旧貨物線との分離)工事である。

付近の歴史は以下の通り。
1885年(明治18年): 品川線の開通
1904年(明治37年): 品川線 新宿-池袋 複線化
1909年(明治42年): 「山手線」 と改称
1914年(大正3年): 新大久保駅 開業
作られた新駅は 大久保通りの北側で、「地上駅」であった。
1921年(大正10年)修正の地図
    現 職安通り             大久保通り
1916年(大正5年): 複々線化工事の開始
1919年(大正8年): 山手線 「の字運転」開始
1924年(大正13年): 新大久保-池袋間 複々線化完了
引続き 原宿-新大久保間 複々線化完了
複々線化時に高架化
1928年(昭和3年)修正の地図
が新大久保駅で、大久保通りにもガードがあり、高架化されている。 旧駅の寿命は わずか10年間であった。 

増線工事の手順は、地上レベルの旧線を営業しながら 築堤の新線・架道橋を建設し、新線開通後に旧線を高架化したものだ。 1924年(大正13年)の複々線化完了はどちらの完了時なのか 確定していないが、「複々線化完了」というからには、4線とも高架化が終わった時期だろう。

だとすると、新線の完工時期はずっと早いわけで、ホームを挟んだ大久保通りにある第三大久保架道橋の銘板が、山手線・埼京線部分とも同じ1917年?(大正6 年?、8年?)か、それに近い「大正ひとけた年」製造であるのも納得できる。  (不鮮明なために 読み取れない。)

1960年(昭和35年)頃: 山手線部分の桁が掛替えられる(銘板より)
     寿命はわずか 40年ほど。 早くに掛替えられた理由は不明
2009年(平成21年): 埼京線部分の桁が掛替えられる
       桁の寿命は 85年


終戦後まもない 1947年(昭和22年) の様子
国土地理院、撮影は米軍
新大久保駅のホームの位置は、今と同じである。
中央線(左下)が分岐した後の山手線部の線数は現在と同じ4線。
写真では、山手線外回り電車がまもなくガードにかかろうとしている。
西武新宿線はまだ高田馬場始発で、西武新宿駅は1952年(昭27年)から。


周辺の情景
山手線内側 これから広がる都市計画道路 山手線外側の狭い道

こちら側 (山手線外側)が、複々線化の時に後から作られたと思われる。
盛土の法面(斜めの傾斜)であったものをコンクリートの垂直な壁にして、電車用の線路を増やした、
と考えている。

道路に張り出しているのは旧架線柱の基礎部分で、今は使っていない。
つまり、電柱を立てるスペースもないほど、ギリギリの拡張だったということである。
 
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