山手線が渡る橋・くぐる橋 | − 架道橋 (ガード) ・跨線橋 − |
3. 第一戸塚 架道橋 |
「諏訪通り」(都道補助74号線)の拡張工事中。 ここは、大久保の北向きの台地が神田川に向かって、一気に下り始める位置である。 |
全景 山手線内側より |
架道橋上で行き交う 山手線。 手前2本は西武新宿線だが、今回の架道橋の工事は一体である。 ビルの前に並んでいる「つい立」に挟まれた部分が、旧架道橋の道路。 |
閉鎖された 旧架道橋 山手線の外側 | 工事前の様子 山手線の外側 | ||||
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旧架道橋 4主桁のトラフガーダ | 電車から見た 旧架道橋 | ||||
見える範囲では、4本の線路のどの桁にも 銘板は付いていなかった。 細かい部材を組み合わせて作られているところから、同じ「トラフガータ」形式ではあるが、第二大久保架道橋よりも古いような気がする。 もうすぐ取り壊される。 |
山手線 内側 (2009年12月) | |||
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山手線 外側 | |||
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架道橋 内部 | 高さ制限の表示をしている 衝突防止バー | ||
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継続工事中 山手線の内側から |
あと2車線は? と覗いてみると、なんと ものすごい深さ! てっきり ここが上り(東行き)車線だと思っていたので、レベルの違いにビックリした。 実は 手前にある環状線(山手線と平行している道)との立体交差だった。 |
立体交差 入口 山手線の内側 |
高いビルのあるところが、通過する交差点である。 道が上りになっているので、早い位置から水平にトンネルに向かう。 |
諏訪通りの 拡張 |
小滝橋 山手線 明治通り 馬場下 |
この航空写真は 1963年(昭和38年)頃のものである。 上に曲線を描いているのが 早稲田通り。 すでに、小滝橋から山手線に向かって、団地に沿った部分の拡張が済んでいる。 この後、馬場下から明治通りまで、学習院女子部に沿った部分が完成。 次に明治通りから山手線の手前までは、1975年(昭和50年)ぐらいまでには終わっていたが、最後の 5・600m に30年以上を費やした。 この道路の完成で、当分拡張される見込みのない?「早稲田通り」の混雑が緩和されることになる。 それはいいとして、こんな大がかりな「立体交差」まで必要か? |
山手線の外側 (西側)は まだ 土のまま。 完成は当分先の事である。 |
位 置 (戦後の様子) | |
1948年(昭和23年)6月の空中写真/国土地理院 | |
← 新大久保 | |
高田馬場駅 |
名前の由来: | 開通当時の地名、南豊島郡戸塚村 による。 | ||
地名の由来: | |||
諸説ある中で、私の第一候補は 「富塚」→「戸塚」説である。 早稲田の馬場下町「穴八幡宮」の向かい側、今は早稲田大学構内で、9号館(共通教室)が建っているあたりに、「富 (とみ)塚」という円形の塚があった。 「トミヅカ」 が短縮されて 「トツカ」 になった。 左の古地図は 1878年(明治11年)に当時の地理局が作成した『實測東京全図』である。 一部は宝泉寺にかかってしまっているが、はっきりと丸い形が見て取れる。 |
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復刻古地図『實測東京全図』/人文社 より (掲載許可 申請中) |
この塚の上に、941年(天慶四年)に稲荷大神が勧請され、 「富塚稲荷」と呼ばれていたが、江戸の中期に境内から霊水が湧き、眼病に効くと評判を呼んだことから「水稲荷」と呼ばれるようになった。 |
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参考:新宿区のホームページ | |||
水稲荷神社は、近くの甘泉園の一角に移転している。 |
1963年(昭和38年)頃 移転直前の水稲荷神社 (中央部) |
穴八幡宮 馬場下町交差点 |
周辺の情景 | ||
都立 戸山公園 | ||
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