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− 架道橋 (ガード) ・跨線橋 −

高田馬場 駅
早稲田通りに面する乗換駅。 開業は1910年(明治43年)。
品川線の開通 1885年からは 25年経っているが、地形の関係から当初より盛土・築堤区間であり、ホームは開業当初から高い位置にあった。

しかし、開業当初の駅舎とホームの関係は不明で、ホームへのアプローチについては土手を登って線路を渡って・・・、という可能性もある。

早稲田通りに面した 駅舎 (早稲田口)
左の架道橋は西武新宿線で、右側がJRの架道橋である。
駅の南側にある改札口 「戸山口」については、第二戸塚架道橋 を参照のこと。


古レールによるホームの屋根

ホームが延長されて8両編成時代となった部分、新大久保寄りに 10本が残っている。  リベット止めではなく溶接で作られている。
 
 谷型屋根 基本は一本柱

  建 築 年 : 不明。 戦後、昭和20年代または30年代である。
  柱 の 数 : 1本柱 : 10本、 2本柱 : 1本
  柱 間 隔 : 約 5.6 m (6ヤード)、 桁つなぎ : 同材(レール)
  棟 高 さ : 約 2.7 m。 それほど高くない
  屋  根 : 緩い傾斜の谷型、波形スレート、 母屋 : 木製
 
唯一の二本柱

一本柱の詳細 メーカーの刻印

使われている レールのサイズは、37kg/m のようだ。

アメリカ テネシー社 1922年製。 それがわかったところで意味がない。 
問題は、このホームがいつ増築されたか? だ。


駅名 高田馬場 の由来

Takadanobaba
駅名は 「たか 【 だ 】 のばば」 で、史跡の呼び名「たか 【 た 】 のばば」とは異なっている。
駅名は通常付近の地名を採用するが、史跡「高田馬場」は地名とはなっておらず、しかも駅から1km近く離れている。
高田馬場駅 と 高田馬場(枠内) の位置
  高田馬場駅                  明治通り・戸塚交差点                   西早稲田

駅名の由来
1872年(明治5年)に鉄道が開通して以来、国有鉄道の所管体制は何度も変わっていたが、民間会社であった「日本鉄道」の国有化をきっかけに、1908年11月に新生 内閣鉄道院が発足した。初代の総裁は後藤新平である。

高田馬場駅は 1910年(明治43年)の複線化を機会に開業した。住民が希望した駅名は、当時の地名 戸塚村大字戸塚から「戸塚駅」。
ところがすでに1887年(明治20年)に東海道線に同名の駅が開業していたので不採用となった。
それでは と、「上戸塚」、「諏訪森」などの案を出したが、鉄道院は「高田馬場」を採用した。

背景としては、1902年の「日英同盟」、1904年の「英仏協商」、同年2月から1905年9月までの「日露戦争」、1907年の「英露協商」など、第一次世界大戦に向けての世界状況があり、それで、「助太刀」 と 後の 「討ち入り」(忠臣蔵)で人気となった 中山(堀部)安兵衛にちなむ史跡「高田馬場」を採用したという説もうなずける。
本来濁らないはずなのに、「たか 【 だ 】 のばば」とした理由はわからない。

【 だ 】にしたからといって、なんら 反対を押し切る 正当な理由とはならない。
 

駅前の西武線部分の架道橋に、高田馬場や西早稲田地域の「歴史と文化」をテーマにした壁画が制作され、そのなかに「堀部安兵衛の仇討ち」も取り上げられている。
史実に基づいているのかどうかわからないが、安兵衛は「わらじ履き」、相手の面々は「ぞうり履き」で、そのひとつが脱げてしまっている!

たすきを掛けていない武士もおり、これらは相手方の「慢心」を表したものである。さすがは 「手塚プロダクション」 のデザイン。 芸が細かい・・・。
 
中山安兵衛 助太刀の図
 
 
それでは肝心の「高田馬場」の由来は・・・。 意味は「高田にある馬場」である。

地名としての「高田(たかた)村」は神田川の北、豊島区内であり、こちらについては後で渡る「高田 架道橋」の項で説明したい。
 
高田馬場 の由来
徳川家康の六男である 松平忠輝は関ヶ原の戦いの後、家康の命を受けて慶長年間に越後高田藩に奉じた。
このため忠輝の生母 茶阿の局は「高田の君」と呼ばれるようになる。

高田藩の御用屋敷が馬場下付近にあり、生母はその近くであったこの地を「遊覧地」としたために、付近一帯は「戸塚村」あるいは「下戸塚村」であったにも係わらず、一部が「高田町」と呼ばれるようになった。

明治末の地図を見ると、穴八幡宮がある場所が「牛込区高田町」として、高田の名が残っている。
また、かつて穴八幡宮向かいの「水稲荷」横にあった富士塚を、「高田富士」と呼んでいたのもこの関係だと思われる。

忠輝は二代将軍 徳川秀忠によって、1616年(元和2年)に改易されてしまう。

その後1636年(寛永13年)になって、三代将軍 徳川家光によって遊覧地に
「馬場」が造営され、「高田の馬場」と呼ばれるようになった。

参道がきれいになった穴八幡

馬場に関連する地名としては、早稲田通りを南東に下った穴八幡宮の先に、現在でも「馬場下町」が残っている。

高田馬場駅が開業して100年となるが、駅名の影響は絶大で、現在は、広い地域が近年に名付けられた「高田馬場」の住居表示となっている。

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