山手線 が 渡る橋 ・ くぐる橋 | 駒込 → 田端 |
− 架道橋 (ガード) ・跨線橋 − |
1. 川越街道 架道橋 |
高田馬場駅「早稲田口」が面する、早稲田通りに架かる架道橋である。 品川線開通当初は独立した木造のガードであったが、ホームが延長されて、今はプラットホームが道をまたいでいる。 |
全景 山手線内側 より |
山手線内回り電車が発車したばかりで、ホームには誰もいない。 少し離れているために写っていないが、左側には西武新宿線高田馬場駅のホームがある。 |
山手線の内側 | 西武新宿線架道橋の下から | ||
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山手線の外側 | 駅 前 | ||
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山手線の内側 (西武新宿線の電車の窓から) |
電車のスピードはまだ出ていないが、夕方で 撮影条件が悪かったために大幅にブレている。 |
ホームから見た 川越街道 架道橋 山手線内側 |
内側の3本は「単線2主桁下路プレートガーダ・開床式」。 新大久保駅と同じようにブレーキ区間にあるため、内回りの桁は真っ黒である。 「BIG BOX」は1974年の竣工以来、高田馬場のランドマークとなっている。 設計は 黒川紀章(黒川紀章建築・都市設計事務所) |
ホームから見た 川越街道 架道橋 山手線外側 |
この1本だけはバラストが詰まっており、同じ形の桁で「閉床式」にしているようだ。 |
1964年(昭和39年)製の桁 |
右から 山手線外回り、ホーム、山手線内回り、埼京線北行き。 同じ構造の桁であることから、製造年の1964年(昭和39年)またはその翌年にホームが延長されたことがわかる。 10両編成の開始は1968年(昭和43年)である。 桁は「溶接」で作られているが、下フランジをつなぐ水平ブレースには「リベット」が使われている。 標準設計基準でリベットを使った桁が作られたのは、1956年までであった。 |
高田馬場駅 早稲田口 壁画 (左半分) |
駅の発車メロディーはお馴染みになっているが、2007年には、高田馬場生まれという設定のアトムの壁画が復活した。 地域住民や商店街の人々が立ち上げた「高田馬場駅早稲田口の環境整備に関する地域会議」が中心となって実現したものである。 デザインは もちろん、手塚プロダクション。 上は 左から 「冬」 「秋」 「夏」、下は右半分で 「春」 と 「未来」の情景である。 |
位 置 (終戦後の様子) |
1948年(昭和23年)の空中写真/国土地理院 |
高田馬場駅 神田川 目白駅 |
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山手線の謎 その1 |
川越街道 架道橋 の名称について |
この架道橋の名前は 「山手線の謎」 のひとつと言えよう。 かくも堂々と?「川越街道」の名前を使われると、何か由来があるのかと心配になってしまうが、どう考えても 川越街道はずうっと北 に位置している。 旧 川越街道は下板橋から始まっていたし、現在の川越街道は、池袋の先の「六つ又ロータリー」が始点である。 |
塗装履歴 | 管理名称 と 緊急連絡先 |
ダメもとで 東京施設指令に電話してみたが、今の係員が命名の由来を知るよしもない・・。 | |
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図説『駅の歴史』/交通博物館編にある「日本鉄道会社 線路平面図及縦断面図」 1894年(明治27年)には、この架道橋の名称として「薬師道」(やくしみち) が使われている。 ここから道なりに西に向かい、早稲田通りから少し外れてはいるが 4km弱で、新井薬師 梅照院にたどり着くので「薬師道」は妥当な名前である。 いつ早稲田通りの名前が付けられたのかは未調査である。 また後から、神田川の北側、崖下の道が「薬師道」と名付けられたようで、そこには、ここから数分後に山手線が渡る 「新井薬師道架道橋」が架けられている。 |
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初めは「薬師道」と呼ばれていたものが、その8年後には「川越街道陸橋」とされていることが判明した。 以下は、1902年(明治35年)の 『日本鉄道年報』である。 その11ページ、「第二章 新線工事」の 「第二 山手線目白池袋間副線」の項を引用する。 (原文のカナまじり文を 現代かな使いに直している) |
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1902年は「第一」にあるように、ルート決定に紆余曲折があった 田端-池袋間の新線工事に着手した年であり、翌03年(明治36年)3月1日に開業している。 第二の項目名は「目白池袋間副線」であるが、内容は新駅池袋と目白間の複線化の事と、目白-「川越街道陸橋」間の改修工事の事が含まれている。 (上記 引用中の「川越街道陸橋」を 赤文字 にしたのは筆者) 「川越街道陸橋」が現在の「川越街道架道橋」を指している という根拠は、目白から川越街道陸橋までの距離「約四十一鎖」である。 「鎖」は当時鉄道関係で使われていたイギリス式の単位のひとつで、 1 鎖 = 約 20.1 mである。 41鎖は 約824m となり、距離的に一致する。 本当の川越街道に関係する「中山道」までは3km以上あり、しかも中山道は当時 「踏切」であった。 このことから、いまだ推定の域を出ないが、 |
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国鉄というお役所だっただけに、いったん名付けられた架道橋の名前を変えるということを 100年間も 「やらなかった」のであろうが、民営化したのであるから、誤りは訂正すべきである。 もし、JR東日本関係者が本ページを見て 納得していただいたならば、是非とも ”早稲田通り架道橋” への変更を、「社内提案」 して欲しい。 |
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なお、現在の目白駅のホームは「水平」に改修されているが、高田馬場へは 「三百分の一」、すなわち「1,000分の 3.3」で始まり、少し行くと当初の最大勾配 「百分の一」へと続く。 |
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周辺の情景 | |
垂直の壁 (高田馬場駅の裏道) | |
大正期の複々線化の時、この区間ではそれまでにできていた複線(現在の埼京線)の外側、つまり西側に増線された。 この擁壁はさらに新しい時期のものかも知れないが、線路敷地に余裕が無くて、ギリギリまで使わざるを得なかった様子がわかる。 |
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