山手線が渡る橋・くぐる橋 | − 架道橋 (ガード) ・跨線橋 − |
番外 その2. 目白踏切(仮称) |
開業当初の山手線の駅は小さなもので、目白駅は現在の位置ではあるが、駅舎は西側の道に面していたようだ。 | |
|
|
日本鉄道品川線が南側から目白駅に進入している位置は、高田村の台地にできていた神田川の沢の中でも一番大きく 奥深い「金久保沢」である。 神田川の崖線の角度は極めて急で、少し離れた高田には現在都内で一番急な坂といわれる、「のぞき坂・別名 胸付き坂」がある。 当時の汽車は急勾配は上れず、 線路は1/100 を限度としていた。 山手線で2番目に標高の高い駅である新宿駅(約36.7m)から 目白に行くには、神田川の低地を横切らなければならず、勾配に限界があるためにやむを得ず「切り土」と「盛り土」を行っている。 へたにこの台地に突っ込むと、とんでもない切り通しを作らなければならなくなる。 新宿から板橋を目指すルートは、「ここしかない!」という究極の位置である。 | |
|
|
開業当時の清戸道(現 目白通り)は畑地で民家は少なく、金久保沢に少し下る形になっていた。 日本鉄道は、街道とは立体交差をするために新しい道(地図では白い通り)を高い位置に設け、鉄道部分には切り通しに陸橋を架けた。初代「目白橋」である。 一方、旧道(白い道の南側 赤い道)も残して、清戸道よりも低い位置に作った駅へのアプローチとした。 |
|
1909年(明治42年)測量の 目白駅周辺地図 | |
豊島区地域地図第三集 参考地図/豊島区立郷土資料館 (『特別利用申請』 申請中) |
|
赤く色が付けられたのは、嘉永年間(1850年代)の絵図に載っている道である。 図説『駅の歴史』/交通博物館編 にある「日本鉄道会社 線路縦断面図」 1894年(明治27年)の記載とも一致する。 開業から34年後、上の地図から10年後の 1919年(大正8年)に、踏切の真上に目白通りから出入りする新駅舎が完成する。 | |
|
|
以下は推測で未確認事項である。 新しい駅舎ができた時に 踏切は閉鎖されたのであろう。 駅の東側(学習院側)の赤い道は、盛土されて、上の道とつなげられたものと思われる。 しかし西側の道は線路でふさがれて学習院側へは行けなくなり、そのままでは、目白通りに出るために長い距離を西側に戻らなければならなくなった。 今も線路のすぐ脇に残るこの「謎の階段」は、その時に作られた 上下を結ぶ「近道」だったのではないだろうか・・・? |
|
コンクリートで上部を封鎖された 階段 | |
階段はJRの敷地内にあり、上部はもとの駅舎脇、今は駅前広場である。 ここの少し西寄り、写真では左端に人物がいる所に 公道として新しく幅の広い階段が作られた時点で、この階段の役目が終わった・・・。 |
Top へ 山手線が渡る橋・くぐる橋 高橋俊一 目白橋 へ |