山手線 が 渡る橋 ・くぐる橋
池 袋 → 大 塚

7. 堀 之 内 橋
旧 新田堀踏切
2010年2月 掲載
2020年11月 改定、歴史と立体交差化の手順を追加

ほりのうちばし。明治通り(環状5号線)が山手線と交わる場所。

昔は 旧山手貨物線(現 湘南新宿ライン)が一段高い位置を走っていて、堀之内橋の南半分は新田堀踏切だった。湘南新宿ラインの運行を見越して線路レベルを下げ、立体交差化されて橋も架け替えられた。 新しい堀之内橋ができたのは 1994(平成8)年頃。
遠 景 (池袋側 六ツ又歩道橋から)
くぐるのは 山手線 と 湘南新宿ライン。

近 景 (健康プラザから)
改修以前は右側が踏切だった。奥は宮仲橋。


堀之内橋付近の様子 (1947年の空中写真)
          六ツ又ロータリー  春日通り
国土地理院、撮影は米軍
この4つの橋は道幅の違いはあるが、旧山手貨物線が「踏切」、山手線が「跨線橋」という共通の形態だった。現在はすべて立体交差化されている。 


全 景 (山手線の内側、大塚側から)
左側半分が踏切だった。ここでは双方が3車線有り 歩道も広いので、橋の長さよりも幅の方が広い。

親 柱

 
レリーフ・パネル のサービス

2種類の街灯 手摺り

手摺り子を挟む透かし彫りは、区の木「ソメイヨシノ」と 昔の地名 新田堀之内にちなむ「稲穂」。


新田堀踏切、堀之内橋 の歴史

山手線 池袋 - 田端間の開通当初には、ここに道路が 無かった。

地図A:道がない状態 1909年

1万分の1 早稲田 / 1909(明治42)年測量 / 大日本帝国陸地測量部 / 国土地理院 に加筆
山手線はまだ単線。一番近い集落は巣鴨村大字新田堀之内字南で、線路付近は畑地だったと思われる。字南のすぐ北側に「字新田堀之内」の集落がある。

地図B:踏切ができている 1916年

1万分の1 早稲田 / 1916(大正5)年第一回修正測量 / 大日本帝国陸地測量部 / 国土地理院 に加筆
複線化後の様子。地名は変わっておらず、踏切の名称には大字の「新田堀之内」が付けられた。
この次に修正が行われた 1921(大正10)年「第二回修正地図」では地名が西巣鴨町となったが、状況は変わっていないため割愛。
 1924(大正13)年12月:池袋 - 巣鴨間 複々線化

地図C:複々線化後 1929年
新山手線は堀割で橋の下をくぐり、貨物線は踏切のままの状態となった。
東京市の区の範囲が拡大されて35区となるのは1932(昭和)年7月10月からだが、橋の付近には「堀ノ内」の地名が書かれている。豊島区となってからはこの地は堀之内町となり、橋の名前は堀之内橋となった。
江戸時代から現代にかけて、東京ほど次々と地名・地番が変わった所はないだろう。
なお、「堀之内踏切」は 埼京線に現存している。


 
立体交差化工事

池袋側の六ツ又陸橋(写真のNo.6)は1969(昭和44)年、大塚寄りの西巣鴨橋(同 9)は1959(昭和34)年に架橋されたが、新田堀踏切と次の第一鎌倉踏切(8)は、昭和が終わってもなお踏切のまま残されていた。
空中写真D:工事開始前の様子 1989(平成元)年

1989(平成元)年11月3日撮影 CKT893-C2-26 / 国土地理院 に加筆、これまでの図とはスケールが異なる

平成にはいって行われたふたつの踏切の立体交差化の工事の様子を、豊島区のアーカイブズにあった『東京都市計画道路 環状5の1号線と山手貨物線との立体交差化工事』の概要を示すパンフレットや、委員会の議事録などを利用して紹介したい。
在りし日の 橋と踏切

上記パンフレットより、発行者は 東京都・豊島区・東日本旅客鉄道会社
豊島区/としまひすとりぃ 副都心開発調査特別委員会資料 / 以下同様
撮影年月は不明。

地上を走っている貨物線のレベルを下げ、2箇所の踏切を完全に立体交差化する工事で、当然、山手線・貨物線ともに営業しながら、また道路も生かしながらであるため、足掛け7年の工期となった。



池袋 - 大塚間で単線運転を行い、片側ずつ切り下げた。
図は先行した下り線(大宮方面行き)の断面図である。工事範囲は約1.8kmだが切り下げた部分は着色した範囲で、1990年度から 青・ピンク・緑の順に、多年度に分けて切り取られた。

断面図の A点 の写真
池袋方向を見ている。奥に写っているのは西巣鴨橋。
湘南新宿ラインが凸型になっている所が断面図の A点で、立体交差工事以前はそのまま上り続け、宮仲橋や堀之内橋では踏切となっていた。

空中写真E:工事中の様子 1992(平成4)年

1992(平成4)年10月22日撮影 CKT921-C5B-17 / 国土地理院 に加筆、
単線運転の開始は1990(平成2)年7月。写真には、初めに施工された山手線側の路盤が切り下げられた様子が写っている。
・・・・の部分が単線運転中の旧線。堀之内橋では、仮設道路や歩道が設けられたようだ。
片側が1993(平成5)年6月に完成し、低い位置での単線運転に切り替えた時点(下図C)で、踏切による渋滞から解放された。
参考資料:豊島副都心開発調査特別委員会会議録/1994(平成6)年9月14日
その後にもう片方の切り下げ工事と架橋工事が行なわれた。

■ パンフレットの図を元に、工事手順を説明する。
@
A
B
C
D
E
F
G
仮土留の打込み
掘削・切り下げ
アースアンカー
旧橋台の撤去
橋台を新設
仮路面で覆い
新線敷設
旧線打上げ

H
I
J
K
L
M
下り単線に切り替え
仮土留の打込み
仮路面で覆い
切り下げ
橋台を新設
本桁の架設
(切下げと本桁の施工の
タイミングは未確認)
このあと、前掲のD図となって完成する。



位 置 (終戦後の様子)

1948(昭和23)年の空中写真 / 国土地理院

新田堀踏切 データ
位 置: 豊島区上池袋二丁目〜東池袋二丁目
道路名: 現在は都環状5号、明治通り
開設年: 1910(明治43)年から
 1916(大正5)年のあいだ
幅 員: 23 m
横断して
 いた線路:
山手貨物線 2線
堀之内橋 データ
位 置:  同 上
橋 長: 初代:13.8 m
二代目:29.3 m
幅 員: 二代目:30 m 幅のほうが大きい
跨ぐ線路: 初代:山手線2線
二代目:同上、湘南新宿ライン2線
竣工年: 初代:1924(大正13)年 複々線化時
二代目:1994(平成8)年頃
名前の由来: それぞれの時代の地名による
以下 参照

豊島区のホームページによると、江戸時代には上駒込・巣鴨・池袋・長崎・雑司谷・下高田の村々があり、元禄以前に 現在の北区の梶原堀之内村から分かれた新田堀之内村が加わって、7ヵ村だった。
「堀之内」とは中世の武士や領主の館(やかた・たち)の範囲を示す言葉である。新田堀之内は谷端川とその支流に囲まれた小さな丘の畑作地であり、どうしてここが堀之内なのか疑問だったが、北区から移り住んだ集落だった。
王子の堀之内は、足利時代末に梶原政景氏が構えた屋敷の場所に由来する「梶原堀之内」である。


2万分の1迅速図 / 1880(明治13)年測量、1897(明治30)年再々修正 / 陸地測量部 / 国土地理院 に加筆
明治の地図であるため、新田堀之内は巣鴨村となっている。
が 後の新田堀之内踏切の位置。
人口増加にともなって、新田あるいは耕作地の新規開発のために村民が移り住むことは、頻繁にあった。すぐ隣にも巣鴨新田の地名があり、都電の停留所として残っている。
東北や蝦夷地ひいてはブラジルにまで移住したのもその流れであり、出身地の地名を付けることが多かった。


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