山手線 が 渡る橋 ・くぐる橋
池 袋 → 大 塚

8. 宮 仲 橋
旧 第一鎌倉踏切
2010年2月 掲載
2020年11月 改定、歴史と立体交差化の手順を追加

みやなかはし。細い路地に架かる橋で、この道は鎌倉街道中道だったとされている。このため、一昔前まで旧山手貨物線(現湘南新宿ライン)にあった踏切の名称は、第一鎌倉踏切だった。線路レベルを下げることで立体交差化され、橋も架け替えられた。 
遠 景(池袋側 堀之内橋から)
くぐるのは 山手線 と 湘南新宿ライン。  
東武日光直通「日光号」が走っている右側(山手線の内側)が、初めに山手線が通されたところで、昔は5mほど高い平地を走っていたために、多くの踏切があった。


A:宮仲橋付近の様子 (1947年の空中写真)
旧架道橋       堀之内橋   宮仲橋  西巣鴨橋


山手線
貨物線
      六ツ又ロータリー   春日通り
この4つの橋は道幅の違いはあるが、旧山手貨物線が「踏切」、山手線が跨線橋という共通の形態だった。


全 景(山手線の内側、池袋側から)
右側半分が踏切だった。
 
近 景 池袋側から
奥に 西巣鴨橋が見える。
 
大塚側から
後ろに 堀之内橋が見える

親 柱

 

街灯 手摺り
区が管理する橋であり、特に凝った作りではないが、サイドからライトアップするようになっている。

旧鎌倉街道とされる道 (山手線の外側から)
奥が宮仲橋。狭いために一方通行で、通る車は少ない。
明治通りが新設された時、写真の手前でそれて六ツ又交差点へ向かったために、この道は昔のまま残った。

B:雑司が谷道・・・・ と 鎌倉街道・・・・(未確認)

左側:1881(明治14)年測図、2万分の1 板橋驛 / 陸地測量部 / 国土地理院
左側:1880(明治13)年測図 下谷區 /同 を合成・加筆
山手線 池袋 - 田端間が開通するのは、1903(明治36)年。
水色は震災後に計画された明治通りと新中仙道。
茶色の点線(・・・・)が筆者が本地図で推定した鎌倉街道で、現在の明治通りには道が無い部分(⇒)があるため、地図の道の広さを重視すると、別ルート(細かな点線・・・・)とも考えられる。
注) ⇒部には上図だけでなく、地理局地誌課によって作成された『実測東京全圖』1878(明治11)年6月にも道が存在していない。古来重要な鎌倉街道であるから、省略することは無いものと考える。1909(明治42)年の1万分1地図には載っている。
Cが本項の旧第一鎌倉踏切、Bが旧第二鎌倉踏切で、なぜ離れた位置に「第二」の名称が付けられたのかは不明。

 
立体交差化工事

この項は、堀之内橋と記述が重複する。
池袋側の六ツ又陸橋(写真のNo.6)は1969(昭和44)年、大塚寄りの西巣鴨橋(同 9)は 1959(昭和34)年に架橋されたが、一つ前の新田堀踏切(7)と第一鎌倉踏切は、昭和が終わってもなお踏切のまま残されていた。
C:工事開始前の様子 1989(平成元)年

1989(平成元)年11月3日撮影 CKT893-C2-26 / 国土地理院 に加筆

平成にはいって行われたふたつの踏切の立体交差化の工事の様子が、豊島区のアーカイブズにあった『東京都市計画道路 環状5の1号線と山手貨物線との立体交差化工事』の概要を示すパンフレットに載っていたので、その一部を転載する。




池袋 - 大塚間で単線運転を行い、片側ずつ切り下げた。
図は先行した下り線(大宮方面行き)の断面図である。工事範囲は約1.8kmだが切り下げたは図の着色範囲で、1990年度から 青・ピンク・緑の順に、多年度に分けて切り取られた。



位 置 (終戦後の様子)
1948(昭和23)年の空中写真 / 国土地理院
池袋駅        旧東京拘置所      大塚駅

旧 第一鎌倉踏切 データ
位 置: 豊島区上池袋一丁目〜東池袋二丁目
道路名: 区道、旧 鎌倉街道中道とされる
開設年: 1903(明治36)年 山手線開通時
幅 員: 5.7 m
横断して
 いた線路:
山手貨物線 2線
踏切ができてから90年後に立体交差化された。
宮仲橋 データ
位 置:  同 上
橋 長: 初代:12.2 m、二代目:24.65 m
幅 員: 二代目:7m
構 造: 二代目:プレキャストコンクリート
中空床版、鋼線プレテンション方式
 2径間
跨ぐ線路: 初代:山手線2線
二代目:同上、湘南新宿ライン2線
     計 4線
竣工年: 初代:1924(大正13)年 複々線化時
二代目:1995(平成7)年3月
 銘鈑は1994(平成6)年8月
名前の由来: 架橋時の地名による。
鎌倉橋としなかったのは、旧鎌倉街道の成立時から、谷端川に「鎌倉橋」が架かっていたためと考えられる。


宮 仲 の由来

江戸時代後期の1818(文政11)年刊行の『新編武蔵風土記稿』には、巣鴨村にあった地名(小名)として、御府内の巣鴨町と辻町、ほかに大根原・辻裏・宮下・平松・五軒家・熊野窪・上清戸・下清戸・上新田・中新田・下新田・寂法・清水・水久保の14の名が挙げられているが、「宮仲」は 無かった。
1887(明治20)年測図の「東京五千分壱実測図」(内務省地理局)には、「宮下」と並んで 「宮中」が記載されている。
初めての1万分の1地図である 1909(明治42)年では、「宮仲」が広い範囲を占めている。

D:明治末の 宮仲 1909(明治42)年

1万分の1 早稲田と王子 / 大日本陸地測量部 / 国土地理院 を合成したものに加筆
・・は『新編武蔵風土記稿』に載っていた地名
宮仲橋は、広い宮仲の西の端に位置する。
中仙道沿いの巣鴨町以外は まだ巣鴨村で、『新編武蔵風土記稿』に見られる90年前の地名が残っているのは、辻裏・宮下・平松・五軒家・熊野・下新田・水久保の7つである。宮下はこの地図には記載されていないが、以後の地図に残っているので取り上げている。
この「宮下」は、「熊野窪にあった熊野社、あるいは神明社(現天祖神社)の 下」、が由来と考えられる。
天祖神社は神社の由来によると、鎌倉時代末に伊勢の皇大神宮の神さま、すなわち天照大神を祭神とする「神明社」で、巣鴨村の総鎮守だった。
しかし江戸時代には境内に十羅刹女堂も祀られ、神仏習合期にはもっぱら「十羅刹女社」と呼ばれていたようで、『新編武蔵風土記稿』の巣鴨村の記載では、福蔵寺の項に「十羅刹社」とあり、また1834(天保5)年頃に刊行された『江戸名所図会 / 松濤軒斎藤長秋著』でも「十羅刹女堂」として取り上げられている。

十羅刹女堂

国立国会図書館 デジタルコレクション より
十羅刹女が祀られていたお堂は と考えられる。
谷端川は千川上水から分水されたことによってその流域で稲作が可能になり、新田の地名が生まれた。また神社の左には大根畑が描かれており、大根原という地名があったことも裏付けられる。
現在の名である天祖神社となったのは 1873(明治6)年のことで、明治政府による王政復古と祭政一致のための神仏分離の一環である。天照大神は神話の世界の神様だが、創建時からの祭神であり正統派と言えよう。
なお、豊島区教育委員会によると、神仏分離によって十羅刹女神は福蔵寺の所有となったが、その後福蔵寺が火災で焼失して東福寺に合併された。1955(昭和30)年までは天祖神社の隣りにあったが、同年に東福寺に移された。
個人的な見解だが、江戸時代には 無かった「宮仲」の地名が、明治になって急に大きな面積を占めるようになったことは、明治政府が神道を正当化しようとした意図が感じられる。


周辺の情景

大塚駅まで一直線
手前から 宮仲橋、西巣鴨橋、栄橋が架かる。山手線は開業当初から切取り(掘割り)だった。
宮仲公園
2010.2.8
地図Dに示したように、宮仲の範囲は山手線を挟んで外側にも広がっていた。
宮仲橋を通る道沿いではないが、この公園は「宮仲」の名前を伝える数少ない施設の一つで、2010年1月に再整備が終了した。 
右奥には2005年まで癌研病院があって、通りの名前も 癌研通りだったが「宮仲公園通り」と改名された。手前の道が西巣鴨橋に至る道だが、現在は架替工事のため橋は通行止めである。

立派な石の銘板の裏には、以前からあった公園の由来を記した石が埋め込まれていた。
それによると、「昭和13年11月、東京市豊島区西巣鴨二丁目2,570 番地居住の渋沢正雄氏は、此の地二百余坪を東京市に寄付せらる。依って市は此の地に児童遊園地として宮仲公園を開設す。茲に由来を記して後生に伝う。 昭和16年12月 東京市」
しかし渋沢邸(旧真宗大学開学の地)はここから200mほど離れた位置であり、現在はマンションや寮・住宅が建っている。このため、昭和16年当時に開設された宮仲公園は別の場所にあり、その後にこの地が新しい宮仲公園となって、記念碑は移設されたものとなる。



ふたつの宮仲橋

公園のすぐ近くを流れていた谷端川に架かる橋のひとつが、元祖「宮仲橋」だった。
谷端川が暗渠化されたのは 昭和10年前後であるから、1924年(大正13年)に山手線が複々線化されたときから昭和の初めまで、ふたつの「宮仲橋」があったことになる。
            谷端川 と 宮仲橋
1929(昭和4)年 / 豊島区地域地図 第四集 第四図 に加筆
旧宮仲橋 旧西巣鴨橋    栄橋    空蝉橋   大塚駅

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