山手線 が 渡る橋 ・くぐる橋 | |
大 塚 → 巣 鴨 | |
地図については 脚注参照 |
− 架道橋 (ガード) ・跨線橋 − |
大 塚 駅 |
2010年5月 掲載、 2021年1月 全面改訂 |
1903(明治36)年開通の 「山手線、池袋−田端間」に開業。 そのルート如何では、現在の地には存在しなかった駅である。 |
しかし開業後 1911(明治44)年に北から「王子電車」が延び、1922(大正11)年には「三業地」が認可される。 さらに1925(大正14)年には南側に早稲田への市電が開通したおかげで、池袋よりも賑わったという。 |
地図A 1909年:大塚駅の位置、開通前の地形(一部の等高線は推定)り |
1万分の1 早稲田 / 1909(明治42)年測図 / 大日本帝国陸地測量部 / 国土地理院 に加筆 |
標高: | | 30m以上、 | | 〜25m、 | | 〜20m、 | | 〜15m、 |
駅は、大塚辻町(地図の南、範囲外)で分岐した「王子道」が、谷端川を渡るところに位置する。ここは谷端川の中流域で、江戸時代には水田があった。 駅の敷地は崖の中間レベルである標高24.5m。貨物駅を設けるために約300mにわたって造成され、坂道を登った先に「地上駅」があるという形になった。地図Aの赤丸○が初代の駅舎だろう。 |
山手線の内側から | |||
空蝉橋 |
大塚駅 |
池袋寄りの空蝉橋付近の切り取りの部分。線路の両側の道は、橋を過ぎたとたんに下り坂となって、さらに低い駅前まで続く。ホームのほとんどは、写真右側 築堤(盛り土)部分にある。 |
遠 景 空蝉橋から |
右手、うす茶色の建物が建っている場所と前掲写真の駐車場は元の貨物ヤードで、民営化後にJR系のホテルが建てられた。 当初の山手線は現在の湘南新宿ライン部分(右側2線)で、駅舎も右側にあり、現在とは違って坂を登ってアクセスしていた。 |
全 景 山手線の外側 |
北側のスロープの途中から。ホーム端部で駅と道路が同じレベルになり、道路はさらにどんどんと下がっていく。 |
大塚駅の歴史 |
1885(明治18)年:日本鉄道 品川-赤羽 開通 |
1903(明治36)年:山手線 池袋-田端 開通、大塚駅開業 |
(地図A/複線敷地に単線) |
1910(明治43)年4月:池袋 - 田端間 複線化 |
地図B 1921年:複線化後 |
1921(大正10)年第二回修正測図 1万分の1 早稲田 / 大日本帝国陸地測量部 / 国土地理院 |
地図Aの7年後だか、駅周辺の市街化が目覚ましく、南北に2系統の路面電車が開通している。 まさにこの年に撮影された駅の写真が、豊島区郷土資料館の解説冊子に載っていた。(掲載許可 取得済み) |
1921年のおほつか駅 |
豊島区地域地図 第2集 近代後期編 / 豊島区立郷土資料館、撮影者不明 |
島式のホームは木製矢板に土を詰めたもの。右側に引き込み線があり、その奥に写っている影が橋(空蝉橋)のように見えるので、山手線の外側(北側)から写したものと考えられる。それであれば、駅舎はこの左側にあることになる。いずれにせよ、跨線橋も初代の池袋駅と同じように木造だったろう。車両は4両編成。 |
1924(大正13)年:池袋-巣鴨 複々線化 |
地図C 1929年:複々線化後 |
1万分の1 早稲田 / 1929(昭和4)年第三回修正測図 / 大日本帝国陸地測量部 / 国土地理院 に加筆 |
電車線は外側(図では上側)に増線され、現在も使われているホームが新設された。新駅舎○は低地に造られ、線路下の通路から階段でホームに登ることになった。北口にはまだ駅前広場が無く、駅舎の形もはっきりしていない。すでに現荒川線の南北が繋がって、山手線をくぐっている。 |
二代目 大塚駅舎 (南口) |
Wikipediaより / 出典『創立70周年記念誌 1997年』千葉商科大学 / 撮影年不明 |
駅舎の左奥に 貨物駅に上る坂道が見える。千葉商科大学の前身だった巣鴨高等商業学校は、現在の西巣鴨1-7、谷端川沿いにあった。大学ホームページの沿革に、1945(昭和45)年4月14日の空襲で全施設が焼失した、とある。この時に二代目駅舎も被害にあったかもしれない。 |
空中写真D 1936年:二代目 大塚駅舎 |
1936(昭和11)年6月11日 陸軍撮影 B7-C2-37 / 国土地理院 に加筆 |
公開されている最も古い空中写真で解像度が低いが、前掲写真の、幅広で左右非対称の屋根の影が見えている。まだ空襲は受けていない。地図Cとはスケールが異なる。 |
空中写真E 1944年:三代目? 大塚駅舎 |
1944(昭和19)年10月22日 陸軍撮影 9812-C1-148 / 国土地理院 に加筆 |
次に撮影されたものは更に質が悪いが、ほぼ同じ位置に建つ駅舎が高架橋から離れた位置に建ち、形も細い長方形に変わっている。周囲の家々はまだ焼けていないので、空襲は受けていない。何らかの理由で建て替えたものと思われるが、改修が行われた可能性もある。 |
空中写真F 1947年:三代目? 大塚駅舎 |
1947(昭和22)年7月24日 米軍撮影 M377-123 / 国土地理院 に加筆 |
戦後に米軍が撮影した解像度の高いもの。南北両側に駅舎がはっきりと写っているが、南口の駅舎▲は写真Eで見たように、二代目とは建物や屋根の形状が明らかに異なる。周辺は焼けた家が多いが、戦後に新築されたと思われるホーム上屋などに較べて、駅舎は古びた色をしているので、被災しなかったものと思われる。 |
空中写真G 1963年:四代目 駅舎 |
1963(昭和38)年6月26日 MKT636-C5-17 / 国土地理院 に加筆 |
1961年の空中写真では以前のままだが、1963(昭和38)年6月には新しい南口駅舎▲ができている。北口駅舎○ は変わりがない。 |
旧 大塚駅南口駅舎(撮影:2008年3月) |
写真提供:「ヤマネコの森」−山手線一周歩き旅− Yさん |
木造の駅舎は2009(平成21)年頃まで、約45年間使われた。 |
空中写真H 1964年:新北口駅舎 |
1964(昭和39)年6月26日 M377-123 / 国土地理院 に加筆 |
翌年6月には北口駅舎(改札口)も新しくなっている。 |
旧 大塚駅北口(撮影:2003年) |
写真提供:「だから東京が好き!」キヨちゃん |
駅舎が一新した大塚駅だが、1909年の山手線(複々線)開通以来、南北の行き来が不便だった。隣にある都電のホームか、さらにその隣のガード(大塚架道橋)の狭い歩道を迂回しなければならなかった。 |
その状態が80年間続いたが、2009年になって「悲願の」平らな自由通路が開通し、見違えるようになった。やればできる! 国鉄民営化後の多くの成果のひとつである。 |
完成した自由通路 南口 |
夕方の自由通路 北口 |
改札口は通路中央の 一箇所となった。右が新駅舎。 |
古レールによるホームの屋根 |
ホームの6両編成時代の部分に、合計18本が残っている。 屋根があったのは ほぼ4両分で、池袋寄りの2両分には屋根が 無かった。 |
空中写真F 再掲 1947年:古レールの上屋 |
敗戦後まる2年経った大塚駅。屋根材が真新しいので、葺き直されたものだとわかる。被災・炎上したのかどうかは不明。 |
山型屋根 すべて二本柱 |
建 築 年:1924(大正13)年の複々線化時 柱 の 数:2本柱:18本、ダブル Y 字型、リベット止め 柱 間 隔:約4.5m (5ヤード)、桁つなぎ : 無し 柱スパン(2本柱の距離):約 3.6 m 棟 高 さ:未測定、約 4 m。 屋 根 :山型、波形スレート、母屋:木製 新大久保駅よりも急な傾斜の「山型」の断面で、中央の高さも高い。空中写真から、屋根は終戦直後のほかに昭和時代にも葺き替えられたものと思われる。 |
階段部分 | |||
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手前が 以前に階段があった部分。 |
レールの刻印は 何度もペンキが塗り重ねられて読みにくいことが多いが、大塚駅には 米国カーネギー社、ドイツ ウニオン社、イギリス キャムメル社製のものなど多種の古レールが使われている。品川線が開通した1885(明治18)年製もあった。 レールの製作時からは 135年! 錆さえ防げば、鉄は長い間使い続けることができる。 |
建屋の建築年とは全く関係ないので、材料学やレールそのものに興味がある人以外は関心が薄いが、美しいデザインのものが多く、現代の「3R」の先駆けである。 官営の八幡製鉄所の操業が1901(明治34)年であり、当時は貴重な輸入品を使用後に保管しておいて、工夫しながら様々な用途に再利用したのは当然のことだった。 |
駅名 大塚 の由来 |
大塚は豊島区の地名ではなく、隣の文京区内の地名である。 池袋を分岐点として豊島線の最終ルートが決まり、大塚駅の名前を決める時点での地名は、北豊島郡巣鴨村大字巣鴨字宮仲 だった。駅名は広く知られた地名を付けるのが基本で、「宮仲」は明治になって名付けられたもので普遍性がなさ過ぎる。また「大字(おおあざ)」レベルの地名「巣鴨」は隣の駅で使われてしまう。 |
大塚駅命名の「原因」として考えられるのは、池袋駅が分岐点に決定する前のルート 第二次案に関連するものである。 |
そのルートは 巣鴨監獄の南隅をかすめるもので、文京区には掛かっていないものの、付近には「大塚町・大塚辻町・大塚上町・大塚坂下町・大塚仲町・大塚窪町」など
大塚が付く地名が多く、護国寺が近いためによく知られていた。また、頭に 小石川大塚○○ となる町名も多い。 目白と巣鴨の中間に駅を作るとしたら「大塚駅」が有力候補であったとしてもおかしくない。 |
豊島線 第二次案 |
第二次案の時に駅名の候補として「大塚」があり、実施案で現在の位置となった時に適当な駅名がなかったために、最終案でも「大塚駅」とした。 |
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大塚 の地名の由来 | ||
「大きな塚」「一里塚」などに由来するのは確かだが、それがどこの塚なのか どんな塚なのかは、はっきりしていないようだ。 |
駅名の威力は絶大である。高田馬場や目白でも同じことが言えるが、元の地名とは直接の関係が無く付けられた駅名が、新しい地名に採用されている。 |
1969(昭和44)年の住居表示改正(改悪?)で 駅の南側が「南大塚」とされたため、文京区大塚の北側に南大塚ができてしまった。高田馬場・目白と違うのは、本家「大塚」が近くにあるためにそのままは使えず、「南北」を付けざるをえなかった点である。 丸ノ内線の「新大塚」は、かろうじて昔の大塚辻町の位置。 |
脚注、タイトルの地図について : 地図サイズ 299×93 明治42(1909)年測図 大正5(1916)年第一回修正測図 1万分の1地図「早稲田」 大日本帝国陸地測量部 / 国土地理院 発行 に加筆 |
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