山手線 が 渡る橋 ・くぐる橋
大 塚 → 巣 鴨
- 架道橋 (ガード) ・跨線橋 -

番外. 谷端川 アーチ・カルバート

池袋村の西側を源として板橋の南で赤羽線をくぐり、昔の癌研通りから千川通りに沿って流れ、最後は小石川と呼ばれて神田川に注ぐ 旧谷端川。
山手線は大塚駅近辺で谷端川の河川敷を渡るために、一時的に「築堤」(土手)となっている。駅も含めて 約600mの区間で、最も高いところでは 8m以上ありそうだ。
暗渠化される前の谷端川は、橋ではなくアーチ橋(カルバート)で山手線をくぐっていた。

大塚駅付近の 谷端川 1921(大正10)年の地図
   折戸通り                山手線 至 巣鴨

豊島区地域地図 第四集 / 豊島区による復刻版

谷端川が横断していた およその場所
現在の暗渠は「大塚79号架道橋」の下を通っている。
暗渠化されたのは昭和8年または9年なので、山手線はすでに複々線化されていた。

参考 アーチ・カルバート
左:西武線の西側、 右:東側

早稲田通りのすぐ北側に残っている、西武新宿線のカルバートの遺構。神田川に流れ込む小さな支流のひとつを、西から東にくぐらせたものである。残っている開口の高さは1.5m 程度。
谷端川の場合は、もっとずっと大きかっただろう。


谷端川の名前の由来
谷端川の名前の由来は不明である。何でも載っている?ウィキペディアにもその由来は載っていない。いつからその名称が使われていたのかもわからない。
下流域では「小石川」と呼ばれ、町場化していたために古くから広く地名に用いられていたが、上流の村々では田畑であり、下町の人々にとっては関心が薄かったかもしれない。
手持ちの江戸切絵図には谷端川の名は見当たらず、大日本陸地測量部による明治前期の2万分の1地図にも、中小河川には川の名称が書かれていない。1909(明治42)年に始まる1万分の1地図になって、初めて谷端川の名が記載されている。
谷端の地名の由来
谷端の地名があったのは、板橋駅の東南部である。
1万分の1地図に初めて「北谷端」「南谷端」の地名が記載されるのは1921(大正10)年、人家が散見されるようになってからで、集落がない場所の地名は省略されていたようだ。
地図A 1921年:北谷端 南谷端の位置

1921(大正10)年 第二回修正測図 王子 / 大日本帝国陸地測量部 / 国土地理院 に加筆

それ以前から地名があったことは、1911(明治44)年発行の『東京府北豊嶋郡瀧野川村全図』に字(あざ)名として載っていることでわかる。そのほとんどが田や畑だが、細かい区画に番地が振られている。
地図 B 1911年:田畑にも地番

東京市15区地番界入 北豊島郡 瀧野川村全図 / 復刻版 / 人文社 に加筆

現在は北区滝野川7丁目に「谷端小学校」や「南谷端公園」の名が残っている。


さて「谷端、谷端川」の由来だが、筆者はふたつの説を考えた。
  ・谷の端を 川 が流れる地
  ・谷の傾斜地に 畑 が広がる地
どちらも谷端地区の地形に関係するものである。
小さいながらも全域に亘って「谷底平野(平地)」があり、千川上水の余水が流されるようになってからは可能な限り水田が作られ、稲作が行われていた。
まず「谷の端」だが、この地は西側は崖が迫っており、東側は緩やかな傾斜だが、谷底平野がほとんど無い。
地図C:谷の端を流れる川

1916(大正5)年 第一回修正測図 王子 / 大日本帝国陸地測量部 / 国土地理院 に加筆
標高:
30m以上、
~25m、
~23.75m、
~22.5m、
ろろろろ.
~21.25m、
~20m、
~18.75m、
~18.75m以下

川が 谷(←→)の端に寄っているのは一目瞭然で、上流部にはない地形となっている。この地区では確かに「谷端川」と呼ぶことができる。
しかし、流域の中での特殊な状態が川の名称となるだろうか?


2つ目は「谷畑」説である。
谷端川にも、小さいながら全域に亘って「谷底平野(平地)」があり、可能な限りの水田が作られていたと思われる。さらに千川上水の余水が流されるようになってからは、下流で町場化している所を除いて、全域で稲作が行われていた。
地図D 1909年:谷端川流域のの水田(黄色)

1909(明治42)年 王子、早稲田、下練馬、新井を合成 / 大日本帝国陸地測量部 / 国土地理院 に加筆
ところが谷端の地には谷底平地が無く、その南西斜面はほとんどが畑地だった。このため畑が広がる谷、谷畑(タニハタ、ヤバタ)が谷端に変化した、という説である。
巣鴨新田や新田堀之内も以前は畑だったわけで、流量が少なかったと思われる昔の谷端川流域は、全体的に畑の面積が多かっただろう。

Top へ 山手線が渡る橋・くぐる橋 高橋俊一 平松架道橋 へ